医学界新聞

連載

2017.10.23



行動経済学×医療

なぜ私たちの意思決定は不合理なのか?
患者の意思決定や行動変容の支援に困難を感じる医療者は少なくない。
本連載では,問題解決のヒントとして,患者の思考の枠組みを行動経済学の視点から紹介する。

[第3回]参照点 がん放置理論がなぜ受け入れられるのか?

平井 啓(大阪大学大学院人間科学研究科准教授)


前回よりつづく

「抗がん剤治療はしたくない……」

医師 検査の結果が出ました。術前化学療法でがんを小さくしてから手術でがんを切除しましょう。
患者 化学療法って抗がん剤ですか? 髪の毛が抜けるんですよね? 気持ち悪くなるんですよね? 確かに胸にしこりはありますが,他には特に問題なく元気に動いて過ごせています。抗がん剤なんて使ったら,逆に体を悪くしそう。抗がん剤だけは,嫌です。抗がん剤だけは勘弁してください。実は,親しい友人も私の父もがんで抗がん剤治療を受けて苦しんで亡くなったんです。
医師 そうだったのですね。でも,これは科学的・医学的根拠を踏まえた標準治療で,今の段階で一番お勧めできる治療です。
患者 どうしても抗がん剤治療はしないといけないのですか? 他にはないのですか? この間も,治療を受けていた芸能人がすぐに亡くなったニュースを見ました。がんはストレスが原因だから放置したほうがいいという本も読みました。一度他の先生の話を聞いたり自分でも勉強したりして,じっくり治療法を探してみます。

 このやりとりから1年間,患者はがんを放置しても大丈夫という言葉を信じつつ,さまざまな民間療法を試していた。しかし,しこりが大きくなっていることが本人にもわかり,再び主治医のもとを訪れた。がんが進行し手術適応が難しくなってしまったため,薬物療法を行うこととなった。

 治療による利益のほうが副作用よりも明らかに大きいと考えられる場合でも,「抗がん剤治療」というだけで,強い拒否感を示す患者は多いと思います。このようなケースも,前回(第2回/第3241号)紹介したプロスペクト理論1)を応用して説明できます。損失回避,その中でも特に「参照点(reference point)」を中心に解説します。

価値の基準は人によって異なり状況によっても変わる

 参照点は,われわれが感じる利得や損失といった心理的価値の基準になる点のことであり,その人の過去の経験により異なったり,状況に応じて変化したりするものです。例えば,3つのボウルがあって,左のボウルには氷水を,右のボウルにはお湯を,真ん中のボウルには常温の水を入れて,左手を氷水のボウルに,右手をお湯のボウルにしばらく浸してから,真ん中のボウルに手をつけてみると,同じ水を左手は温かく,右手は冷たく感じます1)。心理的価値は参照点からの変化や差によってとらえられる,つまり,参照点となる体験や経験が変われば,同じ事実に対してでも,われわれが感じる価値は簡単に変化するということです。

 フレーミング効果も参照点を移動させると言われています2)。フレーミング効果とは,同じ現象のポジティブな側面(ポジティブフレーム)とネガティブな側面(ネガティブフレーム)のどちらに焦点を当てるかで,意思決定が変化することをいいます。例えば患者に同じ成功率の治療を受けてもらうときに「治療を受ければ600人中200人が助かります」と表現するのがポジティブフレームで,「治療を受けても600人中400人は助かりません」がネガティブフレームです。

参照点を変えられないと適切な状況判断ができない

 先ほどの事例を前回の図を発展させて説明してみます()。まず,がん治療の知識や経験がそれほどない人の場合です。ほとんどの人の参照点は「現状維持」ですが,通常は医師の適切な説明により,「このままではがんが進行してしまう」という参照点に変化します。「術前化学療法を行い,手術をする」という説明はポジティブフレームとして受け止められます。治療により余命の延長や予後の改善が得られる「利得状況」として認識できると,人はリスク回避的になります。病状が悪化するというリスクを避ける,つまり「治療を受ける」という意思決定をしやすくなるのです。

 プロスペクト理論による利得と損失に感じる価値の大きさの違い(クリックで拡大)

 一方で,家族や友人ががん治療に苦しんだ経験があったり,がん治療を受けていた芸能人が亡くなったニュースを直近で見ていたりする場合はどうでしょうか。治療に対する恐怖心が高まり,医師の説明はネガティブフレームとして受け止められます。「今の生活を維持したい(現状維持)」という参照点は移動せず,治療による苦しみや死という多大な損失がもたらされる「損失状況」として認識されます。先ほどとは逆に,リスク愛好的になるということです。治療を受けずに病状が悪化するというリスクを負ってでも,「現状維持の可能性がある他の選択肢」を選ぶ可能性が高くなるのです。

 ここで注目すべきは,いわゆる「がん放置理論」は,上記のネガティブフレームをそっくりそのまま利用している点です。がん治療やそれを勧める医師に対する恐怖をあおり,適切な参照点への移動を阻害します。すると,説明をポジティブフレームとして理解できず,ネガティブフレームとして受け入れるようになります。何もしないことに正当性を与え,治療を受ける意思決定を妨げるのです。

患者の参照点を考慮したコミュニケーション

 このような状況で医療者は患者とどのようにコミュニケーションをとるべきでしょうか。まず,患者の参照点がどこにあるかを理解することが大切です。事例のように治療(化学療法だけでなく手術に対しての場合もあり得ます)に対して極端に恐怖心を抱いている場合は,現状維持を参照点としたネガティブフレームでの価値判断を行っている可能性があります。その場合には,患者がより広い観点で参照点を設定し直せるように支援する必要があります。通常は,治療による利益を強調するポジティブフレームを使った説明を粘り強く続けていき,参照点を徐々に変化させていきます。その際に注意すべきなのは,「がんが進行する」と想定する参照点は,現状維持という参照点に比べて時間的に先にあることです。いつ頃どのような状態になるのかということを時間的枠組みとともにわかりやすく示すようにしましょう。

 また,意思決定支援において広く用いられるメリット・デメリット分析(Pros/Cons分析)を患者と一緒に行ってみると良いかもしれません。この事例の場合,「抗がん剤治療を受ける/受けない」という2つの選択肢に対して,それぞれメリット(Pros)・デメリット(Cons)を書き出していき,その中で特に患者が心配している事柄を一つひとつ一緒に確認していき,治療の意思決定に当たり考えるべきことの全体像を俯瞰します。そうすることで患者の参照点がより適切なものになる可能性があります。

今回のポイント

●参照点は,心理的価値の基準になる点のことである。その人の過去の経験により異なり,状況に応じて変化する。
●患者の多くは,「今の生活を維持したい(現状維持)」という参照点を持っている。
●治療は多大な損失をもたらすものととらえている患者が存在する。ポジティブフレームを使った粘り強い説明を行い,意思決定支援の手法を活用しながら意識して働き掛ける必要がある。

つづく

参考文献
1)ダニエル・カーネマン著.村井章子訳.ファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか?(下);早川書房;2012.
2)竹村和久.フレーミング効果の理論的説明――リスク下における意思決定の状況依存的焦点モデル.心理学評論.1994;37(3);270-91.

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