医学界新聞

連載

2017.07.31



The Genecialist Manifesto
ジェネシャリスト宣言

「ジェネラリストか,スペシャリストか」。二元論を乗り越え,“ジェネシャリスト”という新概念を提唱する。

【第50回】
「グローバル化」の意味は何か

岩田 健太郎(神戸大学大学院教授・感染症治療学/神戸大学医学部附属病院感染症内科)


前回からつづく

グローバル化,という言葉が叫ばれて久しい。その実いったい何がグローバル化を意味しているのか,はっきりしないことも多い。

 ともすると,グローバル化というと英語をペラペラ喋り,欧米のシステムを熟知し,そのやり方にのっとって「海外ではこうなっています」というルールをことごとく採用するようなものだと思ってはいないだろうか。変な質問をされると両肩をすくめて苦笑いし,トラブルに巻き込まれると思わず「シット,ジーザス!」みたいに口走るような(まあ,そんなやつはいないか)。

 医療で言うならば,読む教科書はハリソン,雑誌はNew England Journal of Medicineで,何かと言うと「UpToDate®にはこう書いてある」と上級医の揚げ足を取るようなタイプだろうか。日本語の論文なぞ引用しようものなら,「でも,それ日本語ですし。ププ」と鼻で笑われてしまう(そんな研修医もいないか)。

 まったくこの業界も「印象操作」が激しいわけで,ぼくもグローバル化を推進する急先鋒だとよく誤解されることがある。神戸大に異動する前にも,教授選で「岩田を教授にしたら神戸大を米国のようにしたがりますよ」という怪文書が回ったとか回らなかったとか。まあ,怪文書を書くような連中にろくな輩がいるわけもなく,そういう人物に限ってぼくとろくに話もしたことがなかったりするわけだが。

 ご存じのように,(いや,それほどご存じでもないかな……)日本で米国の医療制度を最も批判してきた一人がぼくである。その批判は『悪魔の味方――米国医療の現場から』と『真っ赤なニシン――アメリカ医療からのデタッチメント』(ともに克誠堂出版)という2冊の本になっている。お読みいただければぼくの見解が米国(もしくは「欧米」)の医療制度についてかなり否定的であることがわかる。

 ちなみに「悪魔の味方」とは英語表現の「devil’s advocate」のことで,わざと正反対の意見を提示することで議論の妥当性を高める手法のことだ。「真っ赤なニシン」は red herring という英語表現の直訳で,これは真実から目を背けるような「目くらまし」を指している。

 現在,神戸大病院感染症内科では細菌のグラム染色を医師が積極的に活用している。米国ではとうに行われなくなったプラクティスである。米国が捨てたプラクティスを遠い日本で保存しているこの状況をぼくは「ガラパゴス」と呼び,米国の専門誌に紹介した1)

 要するに,「岩田は日本を(あるいは神戸大を)米国のようにしたがっている」などという妄言は何の根拠もないデマにすぎず,post-truth時代にありがちな言い掛かりにすぎないというわけだ。残念ながらそのような根拠のない露骨なデマに引っ掛かってしまう輩もやはり多い。デマは広がり出すと回収不可能だ。

 まあ,それはよいとして,実はぼくはグローバル化に大賛成である。えええ~? ここにきて前言撤回?……では,もちろんない。古いギャグではあるまいし,グローバル化とは欧米化のことではない。というか,欧と米ではずいぶん違うし,ヨーロッパでも英国と大陸,地中海近辺とスカンジナビアではえらい違いだ。耐性菌対策世界一のオランダと世界最悪レベルのギリシアを同列に扱うのは明らかに間違っている。

 米国だって各地,各グループでバラバラである。トランプ大統領になって米国の分断が激しくなったみたいな説明がなされるがそれは違う。昔から米国は分断されていたのだ。白人と黒人,男と女,キリスト教とイスラム教,南部と北部,東部と西部,リッチとプア,インテリと非インテリ。米国は昔から「政治的に正しい」きれいごとを言う習慣があるから,表向きには正しいことを言う。 Politically correctness を徹底する。自分を黒人差別主義者と公言する人はいないし,日本の愚かな政治家みたいに露骨な女性蔑視発言もしない。しないけれど,それは「そう思っていない」ことを意味しているわけではない。

 では,グローバル化とは一体何か。ぼくの意見では,それは「説明可能性(accountability)」があることだと思う。Accountabilityは「説明責任」と訳されることが多いが,ここでは「説明できること,説明可能性」という意味で使っている。

 箸でご飯を食べることは反グローバリズムなのではない。「日本や韓国,中国などでは箸で食事を取る」ことが表明でき,説明でき,それを文化多様性の一つとして理解,納得してもらうこと。それが「説明可能性」だ。真のグローバリズムは,対極と見なされがちなローカリズムとの親和性が決して低くない。国際社会で「他者」を尊重し,多様性を積極的に認めることこそがグローバリズムなのだ。

 例えば,ISのように自分の宗教性を根拠に無差別テロ,虐殺を仕掛けることは他者に対して説得力がないし共感もされない。しかし,イスラム教の宗教的自由を最大限尊重することと説明可能性は全く矛盾しない。

 日本の医療の問題は「ハリソンを読まない」ことではない。日本語のテキストだって全く構わない。内容の妥当性があり,他国の人たちに「これが日本のやり方だ」と自信をもって表明できる内容の妥当性さえあれば。問題は,日本語で書かれた教科書やガイドラインが,時にあまりに稚拙すぎて,他国の人たちには恥ずかしくて読ませることができないところにあるのだ。

 「ジェネシャリ」は欧米など国際社会では知られていない新しい概念だ。これを日本で充実させ,海外にも説明したい。なのでぼくは理論生成の論文を書いた2)。日本オリジナルな発信と説明。グローバル化はインバウンドに行うというより,アウトバウンドにやるべきなのだ。

参考文献
1)Clin Infect Dis. 2004[PMID:15578391]
2)Int J Gen Med. 2013[PMID:23596354]

つづく

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