医学界新聞

寄稿 宮岡等,塩原哲夫,尾藤誠司,山内英子,中野貴司,岩田充永,西村真紀

2016.01.11



【新春企画】

♪In My Resident Life♪
成功した人は,人よりも失敗している


 研修医のみなさん,あけましておめでとうございます。研修医生活はいかがでしょうか。手技がなかなか上達しなかったり,何かと指導医に怒られたり。そんな日々の中では,「ちゃんと医師としてやっていけるの?」と,不安になることもあるかもしれません。

 でも,大丈夫。「成功した人は,人より倍も3倍も失敗している」。2015年にノーベル医学生理学賞を受賞した北里大学特別栄誉教授・大村智氏だってそうおっしゃっているんですから。新春恒例企画『In My Resident Life』では,著名な先生方に研修医時代の失敗談や面白エピソードなど“アンチ武勇伝”をご紹介いただきました。

こんなことを聞いてみました
❶研修医時代の“アンチ武勇伝”
❷研修医時代の忘れえぬ出会い
❸あのころを思い出す曲
❹研修医・医学生へのメッセージ
宮岡 等
山内 英子
西村 真紀
塩原 哲夫
中野 貴司
尾藤 誠司
岩田 充永


Critical periodとしてのレジデント時代を大切に

宮岡 等(北里大学教授・精神科学/北里大学東病院長)


❶1981年に慶大を卒業し,母校の大学病院で1年間の研修の後,精神科病院に勤務した。精神科では,興奮や自殺念慮が強い患者さんに対して隔離や身体拘束などを行うことがあるが,軽症例や検査目的入院の多い大学病院ではそうした経験が少なく,精神科病院に移ってから急にたくさん経験することになった。基本的にはその病院の過去からの方針に基づいて対応していたのだが,ある日,身体拘束の影響を否定できない身体合併症が起こってしまった。私としては大学病院での初期の研修で,重症例の治療経験が少なかったことを後悔した。また,勤務する病院の方針をそのまま踏襲せずに,自分でもっと多くの文献を調べ,検討しておいたら,その合併症を防げたのではないかと反省した。

❷「なぜ精神科医を志したか」と聞かれたときは,「学生時代,同じ症状に対して,薬物療法と精神療法がどちらも有効であることを興味深く思ったから」と答えている。現在も,薬物療法と精神療法を治療場面や臨床研究においてどう関係付けていくかが自分のテーマのひとつだ。精神医学を学ぶ中で多くの領域の専門家に出会ったが,「全体をバランスよく実践していて尊敬する」と言えるような恩師には出会えてないように思う。自分にとって不幸と思うが,一方で,手本を意識せず自分に合った道を探す原動力になってきたのかもしれない。本特集でいう「忘れえぬ出会い」という言葉からすぐ浮かぶのは,むしろ現在,私を支えて教室で活躍してくれている若手であり,おそらく彼らのほうが今後私の心に強く残ることだろう。

❸NSP『夕暮れ時はさびしそう』。高知という田舎から東京という大都会に出てきた浪人時代によく聞いていたフォークソング。レジデント時代も部屋で流していた。

❹多剤大量処方など精神医療の問題点が指摘される昨今,精神科における研修医や専門医教育を心配している。操作的診断基準や治療ガイドラインをひと通り学べば,精神医療はできると錯覚する若い精神科医に出会うこともある。私がレジデントのころ,あるケースカンファレンスで指導医クラスの2人の医師が診断や治療をめぐり,厳しく激しい議論を展開しており,強烈な印象を与えられた。精神医療ではまだ複数の専門家の合議が求められる領域が多いし,その場を経験することが臨床能力の向上につながる。研修はケースカンファレンスなどを通し,複数の指導医の意見が聞けるような場を選んでほしい。

 レジデント時代に抱いた疑問や関心は意外なほどに続く。私自身,「薬物療法と精神療法の関連」「隔離・拘束や非自発的精神医療」に現在も強い関心を抱き続けている。レジデント時代はその後の姿勢が決まってしまうcritical periodであると考え,研修場所を探し,修業を続けてほしい。失敗は次に生かせばよいが,甘えは許されない。


「センスがいい」という思い込みで乗り切った

塩原 哲夫(杏林大学教授・皮膚科学)


❶学園紛争まっただ中の1973年,私は大学を卒業した。学生運動には全く無縁で,音楽とオーディオに明け暮れた学生生活であった。振り返ってみれば,6年のうち半分くらいがストライキをしていた勘定になる。そのため,実習が決定的に不足しており,「大学側も3月に卒業させるはずがない」とタカをくくっていたところ,急きょ予定通り卒業することになり,焦りまくったことを思い出す。こんな状況で卒業したのだから失敗しないわけがない。

 臨床の場でまず困ったのが,採血の難しい患者さんであった。その方は大学教授で,紅皮症の患者だった。腕はパンパンに腫れ,血管はまるで見えない。こんな腕から下手な研修医が毎日採血しようというのだから,患者さんにとっては拷問であろう。しかし,その患者さんは「どうぞ私の腕で練習してください」とおっしゃるのである。もちろん私が採血している時の表情は痛さを必死でこらえるふうであった。「さすがに大学教授ともなると,こんなに聖人みたいになれるのか」と感心したものだが,いざ自分が教授になってみて「あの人は特別だったんだ」と思うことしきりである。

 皮膚科に入り,当直した夜のこと。受け持ちの患者さんが急変し感染症が疑われたが,あいにく中央検査室には誰も残っていない。私はどうやって白血球数を測るのかさえわからず,中央検査室で一人呆然とするばかりであった。仕方なく,そこにあった『臨床検査法提要』(金原出版)なる本を開き,なんとかやり方だけは理解したのだが,今度はカバーグラスをどうやって計算盤に付けるのかがわからずハタと困ってしまった。仕方がないので唾を少しつけてみたところ,これがうまくいった。しかしカウントした数値から計算すると,白血球数はなんと2万/μLを超える値になってしまい,これが正しい数値なのかどうかで,またまた迷うことになった。患者さんに「白血球数が2万以上あるので云々」と説明し,治療を始めたときほど,学生時代に実習をしなかったことが悔やまれたことはなかった。その他にも,水痘の初期の皮疹を虫刺症と誤診し,患者さんに“うつる心配はありません”と断言した後になって,あれは水痘だったと気付いたこと……などと思い出せばきりがない。

❷このような失敗続きの研修医生活であったが,めげたり暗くなったりしたことはただの一度もなかった。それは学生時代の実習を指導してくれた先生から言われた「君はセンスがいいね」の一言があったからのように思う。「そうなんだ」と勝手に思い込んだ私は,自分はセンスがいいから何をやっても結局うまくいくんだと信じて,ここまでやってきたようにも思う。

❹今,ちまたには“心が折れる”とか“落ち込む”というネガティブな言葉が氾濫している。当時われわれは「今は失敗続きでも,きっとあと十年もすればうまくできるようになるはず」と,将来の自分を信じていた。それは単に右肩上がりの時代の気運を反映していただけなのかもしれない。それでも,私は今でも信じている。朝の来ない夜はないし,今日より明日のほうが絶対よくなる,と。


ヤバいのか,ヤバくないのか,それすらわからない

尾藤 誠司(国立病院機構東京医療センター臨床研修科医長/臨床疫学研究室長)


❶私は地元の大学の医局のどこにも拾ってもらえず,何のツテもなかった長崎の市中病院に就職することになりました。しかし,その病院が最高すぎて,私の人生は変わりました。

 思い出に残っているのは,なんといっても雲仙普賢岳が噴火し,長崎が被災した1991年のことです。ちょうど選択研修期間中だったのですが,噴火の日,当時の救命救急センター長から「尾藤,今日からお前,救命もやってね」という無茶ぶりがあり,その日から「救命+放射線科」研修という事態に。数日間はエンシュアのみで,自分の生命をつないでいた記憶があります。

 当時は,研修医が他院で一人当直を行うこともしばしばありました。当直デビューの夜,病棟から「血圧が60 mmHgの方がいます」とコール。はて。これはそもそもヤバいのかヤバくないのか? それすらもよくわからず,先輩に電話したところ,「ああ,それやばいやつ」と。そーなんだ。結局,その日は朝までの間,先輩に4-5回電話し,言われるがままにして乗りきったという記憶があります。……確かお礼はちゃんぽんを一杯おごって手を打ったような。

❷とても心に残っているのが,末期の肝不全の患者さんです。治療のつらさやその後の先行きの閉塞感からか,ある日を境に一切の治療を拒否された方でした。指導医は私にその患者さんとの対話を一任。そこで行った対話を通し,「説得する」ことよりも,「理解する」ことのほうがずっと大事なのだと学びました。

 また,もう一人はある指導医。研修2年目の秋,「尾藤,お前は来年からどうすんの?“何家”になりたいの?」と,その指導医に言われました。「何家になりたいのかはよくわからないんですが,とりあえず目の前で困っている人に『なんかオレにできることある?』と尋ねられる医者になりたいです」と,私は答えました。笑われると思ったのですが,「あぁ,そういうのは『総合診療』っていうんだけど,これからはやるよ。20年後にはメジャー診療科になってるかも」と言われ,東京に行くことを決心。メジャーになりましたね。

❸ビブラストーン『調子悪くてあたりまえ』。日本最初の本格的なヒップホップアルバムからの一曲。長崎の研修では当時NICU研修がとてもハードだったのですが,当時の指導医と「調子わーるくて,あったりまえー」とラップしながら乗り切っていました。もう一曲はブランキージェットシティ『冬のセーター』。実は医学部6年のとき,私が組んでいたバンドは,当時大人気のTV番組「三宅裕司のいかすバンド天国」から出演オファーを受けていました。しかし国試1か月前のため泣く泣く辞退……。そんなイカ天を勝ち抜いたのがブランキーで,彼らの音楽には完全にハートを打ち抜かれ,研修2年目の心の支えとなりました。

❹人生の道のり全般に言えることですが,「困難なほうを選べ」ということです。もし自分を成長させたいのであれば,それがなんといってもシンプルで,妥当性の高いメッセージだと思っています。楽な道より,困難な道のほうが必ず人は成長します。

 もう一つは,「助けて,助けられよう」ということ。自分1人で何でもできる人間なんてろくな人間じゃないです。常に人に助けを求めましょう。「とても困っているので助けてほしい」と言葉にしましょう。そして同じくらい仲間を助け,手伝いましょう。「何か私に手伝えることない?」と声を掛けてみましょう。


無責任だった「大丈夫」

山内 英子(聖路加国際病院乳腺外科 部長/ブレストセンター長)


❶私は聖路加国際病院で外科研修(編集室註:同院初の女性外科研修医)を経て渡米し,当初は研究,USMLE取得後は外科レジデンシー,フェローシップを行って帰国し,現在に至ります。

 米国で外科研修医として採用されて間もなかったころの話です。心臓外科手術の前に手洗いをしていると,Attendingの医師から「On pomp vs Off pompのバイパス手術の比較試験をまとめてくれないか」と依頼されました。研究から臨床に戻ってこられたことがうれしくて「研究よりも臨床」という思いが先にあったことや,当時8歳の息子を抱えて外科インターン生活を送っていたことから「時間がない」と,その依頼を固辞。再度誘いを受けるも,断り続けていました。

 そんなある日,自分が担当したバイパス手術の女性患者がOn pomp合併症のために亡くなるという事態に遭遇しました。術前の回診時,「怖い,怖い」と話し,研修医である私の手を握っていた女性。無責任に「大丈夫」と言い,その手を握り返した私――。当時の対応はあれでよかったのか。それが罪悪感となって,私に降りかかりました。

 そのときに受けたのが,先の比較試験の3回目のオファーです。女性患者に報いたいと思い,二つ返事でこれを受諾。すぐにデータをまとめ,2週間後には学会抄録用の原稿を仕上げました。私はこの経験を通し,研究と臨床双方の大切さを学ぶことができたと思います。忙しい臨床現場では,研究の時間を見つけることが大変に感じる場面もあるでしょう。でも,患者さんからmotivationをいただきながら,その両方をやり遂げてほしいと思います。

❷忘れもしない手術,そして患者がいます。患者は米国に越してきたばかりの日本人の若い女性。大腸がんによる腸閉塞のため緊急手術となりました。ご主人は2人の幼い子どもを連れて駆けつけてくれ,家族に見守られながら手術を迎えることができました。

 しかし開腹すると,想定していた以上にがんは広がっています。それを目にしたとき,若い母親である彼女の気持ちや2人の子どもの顔が去来し,「なぜ,どうして彼女が……」という感情が込み上げてくるのがわかりました。次の瞬間,同様の思いに駆られていたのでしょう,手術台を挟んで立つAttending Surgeonと目が合い,思わず2人でうなずき合っていました。しかしそこにあったのは悲観的な思いではなく,患者や家族に対する思いをしっかりと受け止め,その思いを技術に乗せたいという,外科医としてのプロの決意だったと思います。

 時に「外科医は感情を殺さなければ,良い手術ができない」と言われるものです。しかし私は,患者への思いをしっかりと持ち,プロとしての技術に落とし込んだときにこそ,最高の手術ができると考えています。

❸シークレット・ガーデン『You Raise Me Up』。米国での外科研修中,その厳しさからくじけそうになったときに励ましてくれた曲です。

❹患者さんに対する思いを忘れないでください。


喜びはつかの間,謝罪の採血

中野 貴司(川崎医科大学教授・小児科学)


❶今でも統計解析や物理の数式を見ただけでゾッとするほど,理数系が苦手です。そんな私が医学部受験を決めたのは,人の健康を守る職業はやりがいがあると思ったから。そのため,「早く一人前の小児科医になって,少しでも世の中の役に立ちたい」と,はやる気持ちで研修医生活のスタートを切ったことを記憶しています。

 しかし,研修医の毎日はそんなに甘いものではありませんでした。自分一人でできることは何ひとつなく,何度も情けない気持ちに駆られたものです。とりわけ採血や静脈確保の成功率が低かったのですが,ある日,心臓カテーテル検査を控えた幼児の動脈採血を行うことに。なんと,その時はたまたまうまいこと採血が成功し,ラッキーとひそかに喜びをかみしめていました。ところがそんな喜びもつかの間,測定器への検体のセットで失敗(当時は自ら検体持参で測定していました)。指導医と一緒に患者本人と親御さんに謝り,再度採血させてもらう結果となってしまいました。その時の申し訳なさ,自分に対する情けなさは今もはっきりと覚えています。

 そうした経験を教訓に,「処方する薬剤は添付文書を通読」「新しい手技・処置に遭遇する前に必ずテキストに目を通すこと」を心掛け,研修に臨むことにしました。しかし,添付文書はともかく,せっかく購入した勉強用テキストをほとんど読まないこともしばしば。特に不得意な領域はそれが顕著で,計算式や化学式が出てくる分野はみるみる睡魔が……。苦手なことから逃げてはダメですが,得意なことを伸ばすようにしないと毎日が充実しないと知りました。

❷学びを与えてくれた患者さんとの出会いはやはり思い出深いものです。研修医2年目,三重県南部にある尾鷲総合病院で勤務しました。赴任して1週間目の日曜夜,3-4歳と記憶していますが,女児が吸気性喘鳴を主訴に受診しました。呼吸困難の様子がこれまで経験した仮性クループや気管支喘息と明らかに異なっており,「これはテキストにある喉頭蓋炎では」と想起できたのが幸いした例となりました。

 また,当時,麻しんワクチンの接種率が低かった時代で,1984年には麻しんの流行が発生し,1日5人以上の麻しん患者が受診したことがありました。たとえ熱性けいれんの入院児であろうと,院内感染予防の観点から必ずコプリック斑をチェックすることが大切と知ったのもこのころです。

 さらに同時期,Yersinia pseudotuberculosis感染症の集団発生を経験したことは大きな財産となっています。不明熱の中学生の診療に忙殺されましたが,日々の診療のみならず,行政との連携,リサーチの面白さを教えてくれました。ちなみに,そのまれな本疾患の診断名に気付いてくれたのは,当時の上司・川口寛先生(尾鷲総合病院副院長)でした。

 研修医を3年半過ぎた87年2月から2年間,私自身の希望もあり,アフリカのガーナへ派遣されました。振り返って考えると,当時にあって,医局人事の一環としてアフリカ派遣を行っていた櫻井實先生(三重大名誉教授),故・神谷齊先生(国立病院機構三重病院名誉院長)のセンスには完全に脱帽です。私自身,ガーナの保健医療に若くして触れることができたおかげで,予防接種や感染症というその後の進路を見つけることができたのだと考えています。

❸USA for Africa『We Are The World』。アフリカ救済プロジェクトに端を発して作成されたこの楽曲は1985年のリリースです。ガーナへ出掛けたころ,よく流れていたことを覚えています。

❹自分がやりたいこと,興味あることを見つけ,その道を突き進んでください。ただし,医師という職業を考慮すれば,「人に迷惑をかけないこと」は必須条件であり,短期的あるいは長期的に「人の健康に寄与できる」ことが大切です。

写真 ガーナ派遣時代,診療所のあった村の子どもたちと撮影した1枚。予防接種の重要性はこの国の保健医療から学んだ。


親父の小言と冷や酒は,後から効いてくる

岩田 充永(藤田保健衛生大学教授・救急総合内科学)


❶❷大学を卒業してすぐに麻酔科で研修を開始した。最初の日に,勇ましそうな指導医から「麻酔は何のためにかけるんだ?」と聞かれて,とっさに「手術が円滑に進むためです」と答えたところ,指導医の顔はみるみる真っ赤になり「バ○ヤロー!! 俺たちは,外科的な侵襲から患者を守るために麻酔をかけているんだ!! それだけは忘れるな!!」と今思い出しても背筋が凍るくらい厳しい指導を受けた。(その指導医とは今でも会議で一緒になる……)顔を見ると,「侵襲から患者を守る」という言葉を思い出す。

 その後,老年科で研修をさせていただいた。集中治療室・手術室から出て,患者さんやご家族とのコミュニケーションの重要性に戸惑っていたころ,認知症を持った心不全患者さんを受け持った。安静が保てず,心不全は改善と悪化の繰り返し……。私は「安静が保てないなら,治療なんてできません!!」といら立った。そのときに当時の老年科の教授から「いいか,岩田。老年医学とは想像と優しさの産物なんだよ。病気やけがを経験した医療従事者はいても,老いを経験した者は誰もいない。だから,老年医学には想像で臨むしかないのだ。想像のためには優しさが大切なのだよ」と教授室で缶ビールをごちそうになりながら指導された。あれから,18も年を取り,当時生意気ばかり言っていた私が,いつの間にか逆の立場になった。若手から厳しいことを言われるたびに「教授,あのころはごめんなさい」と心の中で謝りながらあの言葉を思い出す。

 初期研修を終えるころ,救急外来で働くことが大好きであった自分は,その後ERの道に進むかどうかを悩んでいた。当時は,救急と言えば三次救急という時代で,救急外来を主体に働く医師は全国でも少数であった。相談した指導医は,気楽に「いいじゃない。何やったって,自分と家族がHappyなら」という言葉を送ってくれた。一気に肩の力が抜けた。その後人生の岐路に立ったと思うときには必ずその言葉を思い出す。

 救急外来で働くことを決めたとき,周囲から「何の専門性も持たないで,入り口だけしかやらないなんて……」と言われ続けた。寺澤秀一先生(福井大教授)から「救急医療の主役は,患者さんと専門医なのです。救急医は主役を盛り立てる脇役狙い,助演男優賞狙いで良いのです。新しい変化を組織で起こしたいのであれば,人間として認められることが大切です」と言葉をいただいた。3年前に長年勤務した救命救急センターから大学に移籍したときにもこの言葉を再び胸に刻んだ。

 2週間の救急研修に伺った際に,箕輪良行先生(地域医療機能推進機構東京蒲田医療センター総合診療研修顧問)から「いいか,若いころはいただいた仕事は絶対に断っちゃダメだぞ!! そうしたら,自分のやりたい仕事ができるようになるから」と言葉をいただいた。それから数年後……。原稿と会議の嵐に溺れそうになったときに「先生,まだ断っちゃだめですよね……」とつぶやく。

❸ベートーヴェン『交響曲第9番 合唱付き』。作曲当時,音楽で社会を変えることができると心から信じて疑わなかったベートーヴェンの熱意に勇気付けられる。受験生のころから,緊張するイベントの前には必ず聞いています。

❹「親父の小言と冷や酒は,後から効いてくる」。多くの指導医との出会いを大切にしてください!!


“その筋”の人にお辞儀で迎えられて

西村 真紀(川崎医療生活協同組合 あさお診療所所長)


❶医学部に入学が決まった1992年3月。その時にはすでに後の指導医・藤沼康樹先生(医療福祉生協連家庭医療学開発センターセンター長)と出会っており,今でいう「家庭医療」の世界にすっかり魅せられていた。まっしぐらにその道を選び,「国産・家庭医」となったのが2001年だ。研修を開始したころを振り返ると,大学病院ではなく東京都北区の小さな病院(王子生協病院)で研修に臨む姿は珍しく,よく「変わり者」と評されたものだ。ただ,そのおかげで研修1年目からWONCA(世界家庭医機構)の学会に行かせてもらえ,世界の家庭医と交流することができた。思い返すと本当に恵まれた研修なのだが,当然ながらほろ苦い思い出もある。

 外来研修を始めたばかりのころだ。ちょっと小難しい印象で,口数の少ない男性を担当することになった。風邪の診察だったにもかかわらず,頭の先からお腹まで隅々診た上に,苦手だった舌圧子を使った喉の診察を何度もやり直すなど,とにかく時間を掛けて診察を行った。さらに,「患者さんには丁寧に医学用語を使わずに説明しましょう」と教えられていたこともあり,“馬鹿”が付くほど丁寧に説明。「風邪というのはウイルスが原因で……」「喉の奥に桃の種のような形のところがあり,そのあたりでバイキンが……」。ただ,必死になって話すものの,当の患者さんは相づちも打たなければ,質問もしてこない。

 次第に「わかっているのだろうか」と不安になり,より簡単な言葉に言い換えて,長々と詳しい解説になっていく。汗だくになってきたころ,ようやく患者さんが一言,「わかっていますよ。私,医者です」。一気に冷や汗に変わった。後になってから看護師さんが「付属診療所の所長ですよ」と教えてくれたが,「先に言ってよ~」と思わず泣きそうになった(その後,同じ経験をした後輩にとても共感したのは言うまでもない)。

❷男性ばかりの医局に2人の女性医師が研修医として赴任した。なのに(?),なぜか女性研修医の私が,一見して“その筋”の親分である患者を受け持つこととなった。私が病室に行くと,子分の方たちは一斉にお辞儀でお出迎え。患者も研修医のペーペーの私にも礼儀正しく敬語を使って接してくれた。

 ある日のこと,その患者が外出届も出さずに病室から抜けたことがあった。子分の方に尋ねると,慌てて「賭場に出掛けています。すぐに戻るよう言います!」という回答。しばらくすると病院前に黒塗りの車が横付けされ,無事に帰ってきた。詫びのつもりだったのだろう,その後,病棟に「西村真紀さんゑ」と手紙を添えた大きな胡蝶蘭が届いた。

 それから数日し,患者は病気が悪化し,大病院の血液内科に転院していった。しかし,転院先の担当医から「骨髄検査を拒んでいます。でも,西村先生に来てもらえるならやると言っているのですが……」と電話。転院先の病院に行き,説得を試みると,「わかった。真紀先生がそこまで言うなら」と,私の手をぎゅっと握り,親分は検査を受けてくれることに。今でも忘れることのできない,優しくかわいい親分だ。

❸安室奈美恵『CAN YOU CELEBRATE?』。楽曲のテーマとは違うけれど,研修医時代はちょっとしたことがうまくいき,晴れ晴れとした気分になるたびに一人口ずさんでいた。

❹医療の目的は患者さんと家族の幸せです。患者さんが何を望んでいるのか,患者さんの幸せとは何なのかを探り,患者さんと病気以外のことも話して背景をよく知り,患者さんの気持ちを考えられる「家庭医マインド」を持った医師になってください。

写真 1997年WONCAで,「家庭医療の父」と知られるRobert B. Taylor氏と。左は大野毎子氏(唐津市民病院きたはた院長),右が筆者。

開く

医学書院IDの登録設定により、
更新通知をメールで受け取れます。

医学界新聞公式SNS

  • Facebook