医学界新聞

連載

2015.06.15



還暦「レジデント」研修記

24年ぶりに臨床に戻ることを決意した還暦医師の目に映った光景とは。
全4回の短期集中連載でお伝えします。

【第1回】
人生の第4コーナーにさしかかって

李 啓充(大原綜合病院内科)


 臨床(再)研修を受けるために,24年間住み慣れたボストンを離れて日本に戻ったのは昨年4月のことだった。還暦を過ぎてから「今浦島」として研修医をやり直すこととなったのだが,なぜそのような「暴挙」に及んだのかというと,そのそもそもの原因は,私の「特異体質」にあったので説明しよう。

 1980年に京大医学部を卒業した後,私は,どこの医局に所属することもなく,後に,日本の医師臨床研修制度に大きな影響を及ぼすこととなる天理よろづ相談所病院・総合診療部で,ジュニアレジデントとして臨床研修を開始した。草創期の総合診療部において,今中孝信部長(当時)の指導の下,「患者のためとあれば上下の隔てなく忌憚ない議論を行う」カルチャーの中で存分にもまれる幸運に恵まれた。

 研修修了後,勧める人があって出身大学の大学院に進んだ。しかし,天理と大学病院のカルチャーの違いは大きく,医局のカンファレンスにおいて,天理時代と同じ調子で(上下の序列に頓着せず)ずけずけ発言し始めた私は,あっという間に,「生意気」のレッテルを貼られることとなった。大学院在籍中,「自分は医局講座制という環境の下では生きていけない『特異体質』の持ち主である」と,つくづく思い知らされた挙げ句に,私は,大学院修了と同時に医局と袂を分かったのだった。

母と父,太平洋を挟んだ子育てを終えて

 その後,当時京大核医学科教室講師であった山本逸雄先生のご厚意で「居候」として研究を続けさせていただいたのだが,やがて,山本先生から,マサチューセッツ総合病院(MGH)への留学を勧められることとなった。所属医局を持たない「みなしご」であっただけに,私には,「米国で業績を上げて箔をつける」などという野心はさらさらなかった。「2-3年,米国での生活を思う存分楽しむぞ」という,いわば「よこしまな目的」で,1990年にボストンに渡ったのだった。

 しかし,人生が思い通りにならないのは世の常で,私は,「2-3年」の当初の予定を越えてMGHに引き留められることとなった。しかも,「特異体質」のせいで所属教室を持たなかったから,「帰ってこい」と呼び戻してくれる人もいなかった。ずるずるとボストンでの生活が長引くにつれて,妻・田中まゆみ(1979年京大医学部卒)も私も,「3人の子どもたちを日本に連れ帰っても,日本の学校には絶対に適応できない。子どもたちの幸せを思ったら米国で大学を卒業させるのが最善」と確信するようになった。イェール大系列の病院で臨床研修を受けた妻が総合内科指導医として日本にスカウトされた後,「母は日本で子どもたちの学資稼ぎ,父は米国で子育て」という,太平洋を間に挟んだ役割分担が成立したのだった。

米国に届いた福島の悲痛な叫びに帰国を決意

 というわけで,MGHを退いた後も米国に残ったのは「子育て」が最大の理由だったのだが,やがて,米国で生まれた末っ子の大学卒業が近づくにつれ,私は子育てから解放された後の自らの身の振り方を考えるようになった。還暦という,「人生の第4コーナー」を回った後,最後の直線をどう走るかについて思案を巡らせ始めたのである。

 そんなとき,医学部同級生の村川雅洋君(当時,福島医大病院長)から,彼が会長を務める学会での講演に招待したいとの申し出を受けたのだが,東日本大震災が起こったのは,その数か月後のことだった。続々と日本から送られてくる映像に心が凍る思いをさせられていた最中,医学部同級生のメーリングリストに,村川君から「震災発生時は東京出張中。肝心なときに留守をし,忸怩たる思いをしているのに,福島に向かう交通手段がなく困り果てている」とするメッセージが寄せられた。その翌日には「ようやく福島に戻ったものの,断水しているために水と食料(職員も含めて)・透析液等に不足を生じる可能性がある。どなたか,お助けいただけるようだったら,ぜひご連絡を」とする,悲痛な「叫び」が寄せられたが,米国に住む私が助けになれるはずもなかった。

 かくして,私は,村川君との縁があっただけに,福島の状況に一層感情移入するようになった。やがて,「小さな子どもを持つ医師が放射能被害を危惧して福島を離れ,医師不足がさらに深刻化している」と聞いたとき,福島への感情移入が「子育て後の身の振り方」についての思案と合体することとなった。「もう人生の第4コーナーを回っているから少々放射能を浴びても影響は些少。私のような年寄りが行かなくて誰が行く」と思うようになったのである。

 しかし,「人生最後の仕事は震災復興のお手伝い」とする私の計画を実現するためには大きな障害を克服しなければならなかった。ボストンに暮らした24年間,臨床からはまったく遠ざかっていただけに,そのブランクを埋める必要があったのである。

この項続く


李 啓充氏
1980年京大医学部卒。天理よろづ相談所病院,京大大学院,マサチューセッツ総合病院・ハーバード大医学部助教授を経て,文筆業に。2014年4月,14年間続いた『週刊医学界新聞』の連載「続 アメリカ医療の光と影」を終了し,帰国。市立恵那病院にて1年間の臨床再研修プログラムを受け,15年5月より現職。著書に『市場原理が医療を亡ぼす』『続 アメリカ医療の光と影』(いずれも医学書院)などがある。

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