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第3126号 2015年5月25日


【寄稿特集】

Sweet Memories
頂上は一つ,道は無数。自分の道を一歩ずつ歩もう


 先輩ナースに怒られたり,手技がうまくいかずに落ち込んだり。新人ナースの皆さんは,不安と緊張の連続ではないでしょうか。でもそんな日々も,いつかは思い出に変わるはず。先輩ナースから,新人ナースにささげる,好評の応援歌シリーズです。

こんなことを聞いてみました
(1)新人ナース時代の「今だから笑って話せるトホホ体験・失敗談」
(2)忘れえぬ出会い
(3)あの頃にタイムスリップ! 思い出の曲とその理由
(4)新人ナースへのメッセージ
萱間 真美
村上 明美
秋山 智弥
濱本 実也
宇野 さつき
熊谷 雅美


3か月以上一つの仕事を続けられないと社会不適応!?

萱間 真美(聖路加国際大学 看護学研究科長/教授・精神看護学)


(1)(2)精神科病院に就職し配属されたのは,男子急性期閉鎖病棟でした。夜勤の独り立ちは1か月後の5月早々で,夜間の看護師は新人でも病棟に一人だけで,あとは看護補助者のみという体制。毎晩のように夜間救急入院が複数回あり,状態の悪い患者さんが多い病棟で,変則2交代17時間の夜勤をするたびに風邪をひいていました。

 夜勤独り立ち後,1か月余りで「もう無理」と真剣に思いました。患者さんのアセスメントを勉強していて,社会不適応の基準に「3か月以上一つの仕事を続けられないこと」と書いてあるのを見てショックを受けました。「3か月という基準は厳しすぎる。1か月でも続けば相当頑張ったのではないか」と憤慨したのを覚えています。

 その後間もない夜勤明けの朝,申し送りが下手だと先輩看護師から言われたので練習をしていたら,何度目かの入院をしたばかりの患者さんが突然,ナースステーションに入ってきました。机の上にあった30 cm物差しを手にして,「出ていけ!」と震えながら私に迫ってきたのです。患者さん自身がおびえていたので,身の危険は感じませんでしたが,私は記録物を持って「じゃあ,私こっちで見てますからね~」と言いながらステーションを出ました。あと3分くらいで超ベテラン看護師の先輩が出勤する時刻だったからです。ナースステーションの窓口にあるカウンターの上に記録物を広げ,外から患者さんに「大丈夫ですか」「危ないものは触らないでくださいね~」と話し掛けていると間もなく,ナースステーションに先輩が入ってきました。両者を見てすぐに状況を理解した先輩は,どっかりと患者さんの横に座って「そんなことしてちゃダメでしょう」と話を始めました。患者さんはすぐに落ち着き,物差しを置いて,自分で部屋に帰っていきました。

 ナースステーションを乗っ取られるなんて大インシデントですが,先輩は淡々としていて,怒られることもありませんでした。正面から立ち向かうだけでは大きなトラブルにつながることもあり,痛い目に遭ったこともありましたので,私なりに考えたことを認めてくれたのだと思います。患者さんは,「何もかもうまくいかないけど,ステーションから新人を追い出すことには成功した」と,気が済んだかもしれません。新人のときにしかできないやり方だったと思いますが,先輩への全幅の信頼と,それに応えるナイスアシストがなければ,成り立たない場面でした。

(3)夜勤のとき,「こつぶっこ」(亀田製菓)というおかきと,ピーチ味の「ネクター」をおやつに持っていくと,その日は大きな出来事が起こらないというのがジンクスで,毎回それらを準備しました。そして,出勤する直前に,松田聖子『瑠璃色の地球』と中森明菜『SAND BEIGE――砂漠へ』を大音量で聴くのが儀式でした。「大丈夫だ」と自分を励まし,悲壮な覚悟をもって出掛けていたのだと思います。ちなみに大学受験のときは同じく松田聖子『チェリーブラッサム』を聴いて出掛け,大学生のときは同『渚のバルコニー』や松任谷由美『航海日誌』などが好きでした。

(4)なぜその行動をとったのかを,説明しないうちに,諦めないでください。意外とわかってもらえます。


『東大混浴事件』の犯人は私でした

秋山 智弥(京都大学医学部 附属病院 病院長補佐/看護部長)


(1)1992年の春,整形外科病棟初の男性看護師として東大病院に就職した私は,女性の排泄や清潔の援助を常に同僚に頼まなければなりませんでした。

 その日は介助が必要な高齢女性のWさんと,介助の要らない高齢男性のMさんを受け持ち,ともに入浴を計画していました。Wさんのシャワー浴はベテランのN先輩に依頼。N先輩は必要なところだけ手際よく介助すると,Wさんを一人浴室に残し,ご自身で洗い終わるまでの間,浴室前の詰め所で記録をされていました。てっきりWさんの入浴が終わったものと思い込んだ私は,ろくに確かめもせずMさんを浴室へ。ほどなく浴室からWさんの悲鳴。驚いたN先輩が駆け込むと,浴室の端で蛇口に手をかけ椅子に座ろうと中腰になったMさんの姿が!「Mさん,お願い! 振り向かずにそのままじっとしててっ!」。その場で凍りつくMさんの背後をすり抜け,Wさんの救出に成功したN先輩。身支度を整え浴室に戻ったN先輩が見たものは,蛇口に手をかけ中腰のままじっとしていたMさんの後ろ姿でした。何度もMさんに謝罪するN先輩。『東大混浴事件』の犯人は私でした。Wさん,Mさん,N先輩,心からごめんなさい。

(2)大事なことは全部,患者さんが教えてくれました。中でも特別な思い出は学生のときに受け持ったFさんとの出来事です。肺がん末期で食事も拒否され,ご自分から“あの世に片足を突っ込んで”いらっしゃいました。しかしそのような中,話すこと,食べること,煙草を一服しに散歩に行くこと,何よりそうした私の看護に応じてくれることに最期の生きがいを見いだしてくださるようになりました。この関係は実習が終わってからも続き,毎週金曜日には面会に行き,Fさんと一緒に一服しに出掛けるのが習慣になっていました。

 ある日,面会に行くとFさんの鼻には酸素のカニューラが。「来週にはこれも取れてるからまた来週来てくれ」とFさんに言われ,その日は帰りました。そして迎えた翌週。Fさんの面会に行く予定だったのですが,別の用事が入ってしまい,「まだ酸素もしているかもしれないし……」と,さらに一週先延ばすことに。最後にお会いしてから都合2週間後に出向くと,病室にはもうFさんの名前はありませんでした。カルテを読ませてもらうと,2週間前,最後に会った日の夕方にFさんの意識はなくなり,「もって日曜日(あと2日)」という状況だったそうです。ところが,月曜,火曜,水曜と低空飛行が続き,約束していた金曜日までは持ちこたえ,その夜にひっそりと息をひきとられていました。私が約束を守っていればお看取りすることもできたのに……。そう思うと涙が止まりませんでした。私たち看護師にとって患者さんは「大勢の患者さんのうちの一人」にすぎないかもしれません。しかし,患者さんにとって私たち看護師は,「かけがえのない一人」なのかもしれません。Fさんにとって私との約束がどれほど大切なものだったかを思い知らされた気がしました。涙がおさまり,私は自分の身を臨床にささげようと固く決意していました。

(4)富士山の裾野はひたすら長く平坦な道のりです。それでもしばらくして振り返ると意外と登ってきたことに気付くものです。頂上に近づくほど勾配も厳しくなりますが,一度に登る高さも高くなります。歩みを止めないからこそ到達できる世界です。頂上は一つ,道は無数。自分の道を一歩ずつ歩んでいってください。


「あなたほど始末書を書いている新人は他にいないわよ」

宇野 さつき(新国内科医院 看護師長 がん看護専門看護師)


(1)まだ大卒看護師が少ない数十年前,大卒は「現場で使えない」という代名詞を背負い,それでも「頑張ってみなさい」と看護部長さんにエールをいただき,小児専門病院の新生児・未熟児病棟に新人看護師として配属されました。看護師をめざしたのは,終末期ケアやがん看護に関心があったからなのですが,子どものことも大好きで,迷った挙句に「小児から成人にだったら移行しやすいだろう」という何とも安易な発想で就職先を決めました。病棟では,難しい病態や未熟児へのケア,保育器や呼吸器などの機器類の扱い方についてなど学ぶことが多く,ついていくのに必死でした。

 ある日,救急車で1000 gにも満たない未熟児が運ばれてきました。私は先輩看護師と共に対応することになったのですが,不安と自信のなさでとても緊張していました。緊急でさまざまな処置を行う中で,医師から「注射器出して!」と指示されました。当時はまだ,使い捨てのディスポーザブルタイプではなく,ガラスの注射器を使っていたのですが,カートにはごく少量の投薬を行うための0.25 mLの注射器がありました。私は急いでそこにあった注射器を取ったのですが,その瞬間,手の中でパキッという音が……。ガラスの注射器を握りつぶしてしまいました。「何してるの! こんなときに!」。医師もマスクをしているので,表情は見えませんが,明らかに激怒している様子がうかがえました。「すみません……」と言いながらも,どうにも動けなくなった私の代わりに先輩がすぐに入って,てきぱきと対応してくださいました。「ああ,すごい……。私はあんなふうにできるようになれるのだろうか……」。すごく落ち込んだのを覚えています。実は私は根っからのおっちょこちょい,慌てん坊で,「看護師には向いてない」と誰からも反対されていたほどだったのです。

 以後も私はこの注射器を何本も割ってしまい,始末書を1年間で何度も書きました。「あなたほど始末書を書いている新人看護師は他にいないわよ」と師長にあきれ顔で言われました。

(2)新生児・未熟児病棟で出会ったのは,生まれたばかりなのにすでに予後が限られている赤ちゃん,大きな手術を受けなければならない赤ちゃん,複雑な障害を抱えている赤ちゃんばかり。生まれるって何だろう,健康って何だろう,この子たちの命を守ること,これからの人生につなげていくことについて,看護には何ができるのだろう? と考えさせられました。ダメダメ看護師で落ち込んでいるときは,赤ちゃんの笑顔や,気持ちよさそうに眠る様子に癒やされ,頑張れていたように思います。

(3)私の元気を支えてくれているのは,今も昔もサザンオールスターズです。桑田佳祐さんの歌声と明るさに,日々エネルギーをもらっています。

(4)看護師は患者さん・家族の心強い応援団です。知識や技術を磨きつつ,常に真摯に患者さんと向き合い,仲間と協力して取り組んでいく姿勢が大切です。また笑顔と心のゆとりは良いケアを行うために必須です。自分自身のコンディションをベストにしておくことも,プロとして大事にしてほしいです。


初めての分娩介助は,諦めと期待と驚きの中で

村上 明美(神奈川県立保健福祉大学 看護学科長/教授・助産学)


(1)私は,都内の大学病院に新卒助産師として就職した。その病院は産科病棟が,分娩部,新生児室,産褥室の3部署に分かれていて,私の最初の配属は分娩部だった。

 分娩部に配属されたものの,他にも新人助産師は多数いたので,初めのうちは分娩前後のケアが中心で,なかなか分娩を担当させてもらえなかった。やっと分娩担当になっても,分娩まであと1-2時間というところで勤務交代を迎えてしまい,結局分娩を経験できず,ということが続いた。先輩や同僚から「このままずっと分娩介助を経験しない助産師になるかもね」などとからかわれることもあったほどだ。

 初めて分娩を介助したのは,就職後2か月が経過した,初めての夜勤のときだった。夜勤オリエンテーション担当の先輩助産師は,オリエンテーションそっちのけで,緊張している私を優しくサポートしてくれた。ゆっくり進行する経産婦だったため,「今回もまたお産にならないかも……。それも仕方ない」と自分に言い聞かせ,半ば諦めながらも,助産師として初めての分娩介助の機会にわずかな期待を寄せていた。

 夜勤終了時刻まであと1時間半。「やっぱりダメだぁ,今日も生まれない」。そう肩を落としていると,先輩助産師が「産婦さんが急に痛くなったって」と声を掛けてくれた。訪室すると,10分前とは全く異なる光景が目に飛び込んできた。さっきまで「ふふっ,ちょっと痛いかも」と笑顔で話し,スタスタと歩いていた産婦が,ベッド柵を握りしめ,額に玉の汗をかき,眉間にしわを寄せ,腰をよじりながら「アタタタタ,痛~い」と苦しそうにしていたのだ。産婦の急な変化に驚いて身動きが取れない私は,先輩助産師に「お産になるから分娩室に行くよ」と促され,慌てて産婦を連れて分娩室に移動した。分娩台に上がると産婦は静かに「う~ん」といきんでいた。「えっ,いきんでるの?」と気付いてからは,もうバタバタだった。誰がどんなふうに助けてくれたのかはあまり記憶にない。気が付いたらすでに産婦の分娩体位がとられ,外陰部消毒が終わっており,ベビーキャッチのスタッフや当直医師もそろっており,あとは赤ちゃんが出てくるだけになっていた。産婦が分娩室に入って3分後,無事に元気な赤ちゃんが生まれた。

 このときの経験から,私は「分娩はいつ,どのように状況が変わるかわからない」「分娩期は観察のタイミングが大事」「分娩介助は一人ではできない」など,今でも教訓としている多くのことを学んだ。

(2)私は卒業と同時に結婚したため,職業生活と結婚生活の歴史が同じである。新人助産師のころから今まで,結構ドタバタな人生を歩んできた。そんな私にあきれながらも,私の職業生活をずっと支えてくれる夫と出会えたことに心から感謝する。

(3)欧陽菲菲『ラヴ・イズ・オーヴァー』。仕事に疲れるとカラオケに行き,「お酒なんかでごまかさないで~♪」と自分に向かって歌っていた。

(4)人生思い通りにならないことだらけ。でも,だから面白い。壁にぶち当たっても諦めないで。一人では無理でも,誰かと一緒なら壁は越えられる。人とのつながりを大切にしてください。


「コウトウって,全部切除しても大丈夫なんですか?」

濱本 実也(公立陶生病院 ICU看護師長 集中ケア認定看護師)


(1)誰しも「苦手な分野」「ピンとこない領域」があると思いますが,私は「耳鼻科」がそうでした。そもそも,看護学校に入るまで「耳鼻いんこう(咽喉)科」を「耳鼻陰肛科」だと思い込んでおり,「体中の穴を治療する領域」だと思っていたぐらいです。病院見学の際に,大変明るい玄関近くに耳鼻科外来があるのを見て,「恥ずかしいから,もっと奥まった人気のないところに造れば良いのに。これじゃ受診しにくいよ」と発言したところ,「耳鼻科の何が恥ずかしいのか」と友人に問われ,大きな勘違いが発覚しました。

 その後,耳鼻科にかかわることはありませんでしたが,ICUに配属されたある日,緊急入室に対応するよう指示を受けました。患者さんの状況を確認すると「喉頭全摘の術後」との情報。周囲の先輩スタッフは「ああ,“コウトウ”ね」と,特に驚くそぶりはありません。しかし,私は大慌て。「コウトウって……後頭!? 全部取っちゃって大丈夫なの?」とパニック状態です。散々悩んで,先輩に聞きました。「コウトウって切除しても大丈夫なんですか?」。先輩は事もなげに「大丈夫よ」と答えます。「後頭部がなくって,普通に生活できるんですか? 目は見えなくなりますよね? 後頭部は凹んだりしませんか!?」。私の大袈裟なゼスチャーと興奮した質問に,勘違いに気付いた先輩は大爆笑。その後数年間は,忘年会のネタになっていました。

 新人のころに限らず,失敗はたくさんありますし,今なお「勘違い」や「思い込み」と戦い続ける毎日です。それでも,失敗の向こうにある「成長」を信じて,今日もめげずに働いています。

(2)看護学生のとき,私の憧れだったT師長。医師には毅然とした態度を崩さず,スタッフや患者さんの話に時々涙する,そんな姿に惚れ込みました。入職の際に「ICUかオペ室」を勧められながらも,私は「T師長の病棟で働きたい」と頑として譲りませんでした。念願叶ってT師長の元への配属となりましたが,1年でICUへ異動。ICUでの業務について行けず,何度もくじけそうになりました。

 そんなとき,私にT師長がくれた言葉は,「自分で決め,決めたら貫きなさい」でした。異動は辞令ですが,働くことを決めたのは私です。「やれるところまで,全力でやろう」。そう決めました。今も,岐路に立つたびに,T師長を思い出します。

(3)小学校の恩師が『たんぽぽ』(作詞・門倉訣,作曲・堀越浄)が大好きで,先生の口伝えに教えてもらいました。雪や壁の下で,春を待ち,空を夢見る「たんぽぽ」。厳しい環境の中で優しい花を咲かせる,たんぽぽのような看護師でありたいと思います。

(4)辛いことも,悲しいことも,苦しいこともきっとあります。けれど,それ以上の喜びや出会いが待っています。看護師という素晴らしい仕事を選択した自分を信じて,同じ看護師として一緒に頑張りましょう。


心電図が読めず,泣いた夜

熊谷 雅美(済生会横浜市東部病院 副院長/看護部長)


(1)新人のころの職場は400床の総合病院。配属は50床の内科病棟で,夜勤は2人の3交代。1か月の夜勤回数は8-10回程度だった。

 1981年4月1日,白衣に袖を通したときはドキドキワクワクしたことを覚えている。新人看護師といえども1か月経てば夜勤要員として扱われた。ある準夜勤務の日,私の受け持ちの中に一人,人工呼吸器を装着した心不全の末期状態にある重症患者さんがいた。1時間ごとのバイタルチェックの際,まず血圧を測定しようと思ったが,全身の浮腫がひどく,何度試みても血圧が測れない。「どうしよう,どうしたらいいの?」。ふと「もしかしたら患者さんは状態悪化で血圧が測れない状況になっているのかもしれない!」と思って,すぐに先輩看護師を呼ぼうと廊下に出た。ちょうど先輩が通りかかり,私の顔を見てすぐに「当直医を呼んで救急カートを持ってきなさい!」と指示。駆けつけた当直医からは心電図モニターを持ってくるように,と言われた。

 忘れもしないが,このころの心電図モニターは高さが2 m近く,モニターディスプレイは20 cm四方のものだった。患者さんの部屋に入れたいが,どうやっても入らないサイズだったのだ。当直医は「部屋には入れなくていい! 廊下で構わない。それよりも波形を読んでくれ。早く波形を言ってくれ!」と叫んだ。私は冷や汗が出てきた。「読めない! どうしよう?!」。たったの数秒が何分にも感じられた。

 「嘘はつけない」。そう思って出てきた言葉は「さざ波です!」「大波です!」。一瞬,間があったように思う。しかし,当直医は「よし,いいぞ。さざ波をよく見て,さざ波が小波になったら教えてくれ」と言った。

 全てのことが終わってナースステーションに戻り,片付けをしていた私は患者さんに申し訳ないやら情けないやらで泣いてしまった。そんな私に当直医は「よかったよ。さざ波。患者さんの状態がわかったよ。これから頑張れよ」と声を掛けてくれた。その一言は張り詰めていた私自身の何かを解き放ってくれた。せきを切ったように涙が出てきた。「心電図がわからないと患者さんに申し訳ない」と心が痛んだと同時に「看護師として一生懸命に勉強しよう」と思った。先輩は「一緒に頑張ろうね」と肩を叩いて励ましてくれた。忘れられない経験となった。

(2)こんな新人看護師も先輩になった。4年目のころ,胆のうがん末期の50歳代のAさんの受け持ち看護師になった。若いころ,訳あって幼い娘さんを置いて家を出たAさん。ご自身の病状を察したのか,私にこれまでの人生を語ってくださった。「あの子はもうお嫁に行ったかな? いやいや,考えてはいけない」と涙されることもあった。私はケースワーカーさんに相談した。娘さんに会うことはできないだろうか。ケースワーカーさんは懸命に探してくれた。「明日,娘さんがお見舞いに来られるって!」とAさんに話すと,Aさんは「えっ!」と一瞬笑顔を見せてくれたが,すぐに「会いたくない」と言われた。私はAさんにつらい思いをさせてしまったと後悔したが,10分ほどするとAさんがはさみを持って私のところにやってきた。「髪の毛をカットして。病気はすぐに治るから心配しないでって娘に言いたいの。そのために,あなたに髪を切ってほしいの」。Aさんの気持ちが心に刺さった。髪を切りながら思いっきり二人で泣いた。翌日,娘さんと数十年ぶりの再会を果たした。娘さんは「お母さんを恨んだこともあったけど,会いたい気持ちのほうが強かった」とこぼした。短い時間だったが,Aさんのうれしそうな笑顔を今でも覚えている。

 Aさんから,人の人生に寄り添い支援する看護という仕事の重さ尊さを教えていただき,それができる看護師になりたいと心から思った。

(3)1981年,寺尾聰『ルビーの指環』がはやっていた。初めてのボーナスで,私もルビーの指輪を買った。私から私への初めてのご褒美。

(4)看護という仕事は患者さんとかかわることから始まる。そしてそのかかわりが私を育ててくれる。恐れず「かかわる」ことから始めましょう。