医学界新聞

対談・座談会

2013.07.29

対談

“決められない患者たち”を前に,医師ができること

尾藤 誠司氏
 (国立病院機構東京医療センター 臨床研修科医長・臨床疫学研究室長)
堀内 志奈氏
 (丸の内クリニック 消化器内科)


 薬を飲むか,飲まないか。手術を受けるか,受けないか――。こうした患者の意思決定がいかになされているかについて,米ハーバード大医学部教授・Jerome Groopman氏がまとめたルポルタージュ『Your Medical Mind――How to decide what is right for you』が,このたび医学書院から『決められない患者たち』として翻訳された。

 本紙では,訳者である堀内志奈氏と,医師-患者間のコミュニケーションについて考察を積み重ねてきた尾藤誠司氏の対談を企画。患者が難しい意思決定を迫られる場面で,医師はどのような役割を果たすべきなのだろうか。本書の内容を足掛かりに,在るべき姿の描出を試みた。


尾藤 『決められない患者たち』は,どのような経緯で翻訳することになったのですか。

堀内 そもそもの出合いは,原著者Jerome Groopman氏の前作に当たる『How Doctors Think』だったんです。留学中に書店で偶然手にとったのですが,医師の視点で意思決定を描いた本書が「面白い,これはいい本だ!」と。そこでなぜか「絶対に日本の人たちにも知らしめなければ」という使命感にも似た気持ちに駆られ,その勢いで日本のいくつかの出版社に掛け合いました。でも,その時点ですでにある出版社からの刊行が予定されており(美沢惠子訳,『医者は現場でどう考えるか』,石風社,2011年10月発行),「自分の言葉で伝えたい」という思いを実現することはできませんでした。

尾藤 その後,今回翻訳した『Your Medical Mind――How to decide what is right for you』に出合ったと。

堀内 ええ。前書と視座が変わって,普段は意識することが難しい患者側の視点から意思決定を考察する本書にも,心惹かれるものがありました。患者にとって最良の医療を提供するにはどのようにかかわるべきか。そのヒントとなる考えが,一人ひとりの患者のエピソードのなかで示されていると感じ,本書もぜひ多くの方々に知ってほしいと思ったのです。

揺らぐことができない医師

尾藤 すごくいい邦題だと思いました。原書のタイトルを生かすとなれば,“How to decide what is right for you”を直訳した「あなたにとってよいことの決め方」になるのでしょうか。でも,私もたぶん「決められない患者たち」というタイトルにしたいと思う気がするんです。

堀内 うれしいです。実は賛否両論あるようなのですが(笑)。

尾藤 逆説的な表現なので,字面を真っ直ぐに受け止めてしまうと抵抗感を抱くのかもしれません。ただ,本書は,「あなたにとってよいことの決め方」自体が,実はあまり描かれていないですよね。

堀内 ええ。「こうしなさい」という唯一絶対の解が提示されるわけではないんです。

尾藤 むしろ患者が意思決定の場面で生じる戸惑いや迷い,悩みという,“もやもや感”“揺らぎ”がとても丁寧に,そしてリアリティをもって描かれています。患者ごとに異なる利益と不利益のとらえ方,周囲との複雑な関係性のなかで決められていく,あるいは決められなくなっていく過程など,意思決定がクールに行われるものではないことが,あえて“混沌”とした形のまま提示されていると感じました。

 こうした書き方ができたのは,著者が“揺らぎ”を無視しがちな医師に対する疑念を持っているからこそではないかと思ったんです。

堀内 「揺らぎを無視しがちな医師に対する疑念」というのは?

尾藤 医師が“正しい”としていることに対し,「本当に“正しい”のだろうか」と批判的・内省的に考える意識,と換言できるかもしれません。

 医師の世界では「医学的に合理的か否か」が優先すべき考え方となっており,その枠組みから逃れることがなかなかできません。一つの事実に対する認識・解釈の仕方,そこに見いだす価値観などに揺らぎが生じにくいのです。そのため,医学的に合理的なものが「100人中100人の患者にとっても正しいもの」と考えがちで,凝り固まった対応をしてしまう。

堀内 しかし,患者によって考え方や事実のとらえ方は当然異なりますよね。

尾藤 ええ,臨床現場において揺らぎを無視することはできません。後悔のない意思決定を支援するためには,やはり医師も患者一人ひとりとともに考え,ともに困り,ともに揺らぐ過程を歩むことが必要です。

専門家は,意思決定にかかわらずにはいられない

堀内 ともに揺らぐことができないということは,医師は患者を前に「決めたがり」になっているのでしょうか。実は本書のタイトルに「決めたがりの医者たち」という言葉を付け加えようかという案もあったんです。

尾藤 そうだったのですね。でも,私はそのフレーズを入れなくてよかったと感じます。

 というのも,医師って実は決めたがりでもないのです。本来は意思決定が必要な分岐点を認識できず,「医学的にこうすべき」という発想のまま突き進んでしまっている。それが結果的に「決めたがり」の姿に映っているのだと思います。

堀内 なるほど。揺るがない理由には,意思決定の分岐点を自覚できていないこともあるわけですね。

 では,“分岐点”と気づいたとき,医師はどういう行動をとるのでしょう。

尾藤 おそらく多くの医師が決めたがるどころか,「患者の意思決定が必要なことだったの?」と驚き,その意思決定への加担をひるんでしまうのではないでしょうか。その結果として,医学的根拠のある客観的なデータだけを提示し,「患者であるあなた自身が治療手段を決めてください」というスタンスをとってしまう医師が,現実として少なくないのだと思っています。

堀内 以前,「がんの放置もリスクは高いが,高齢のために手術もリスクが高い。どちらでも好きなほうで決めてください」と医師に言われ,困惑したと話す患者さんがいたことを思い出しました。

 よく言えば「自律性の尊重」なのかもしれませんが,決定にかかわるすべての責任を委ねられると,患者も大きな戸惑いを覚えますよね。

尾藤 意思決定は,覚悟をもって挑まなければならないストレスの大きなものです。その決断に対し,医師が加担するそぶりを見せないのは「なし」だろうと思うんです。患者が覚悟をもって行う決断には,医師も“専門家”として覚悟をもって加担すべきでしょう。

 そもそも情報を提供している時点で,そこに医師のバイアスがかかることは避けられません。それが客観的事実と言えども,医療者側で選択され,発言された事柄には必ず意思が込められている。専門家は,意思決定にかかわらずにはいられないのです。

推奨を述べることは医師の責務

堀内 例えば,本邦の医療現場で意思決定支援の難しさに直面しているケースとしては,胃ろう造設をめぐる場面が想定できます。特に本人の意思が確認できない場合,家族,親類の方々の間で意見が割れるなど,意思決定に難渋することも少なくないようです。こうした場面では,医師はどのようなかかわり方をしていくべきでしょうか。

尾藤 医学的なデータをお伝えするのはもちろんのこと,患者さんの状況を踏まえ,医師の立場から「こちらにしたほうが,私はよいと考えます」と推奨まで言うべきでしょう。

堀内 医師の推奨が意思決定に与える影響は大きく,ときとして「推奨を述べることが,パターナリスティックな態度である」という声もありますよね。

尾藤 確かに注意しないといけない部分もあるのですが,私はその見解には反対なのです。

 特に挙げていただいた胃ろう造設をめぐる意思決定の例は,そもそも医師だけではなく,患者家族,訪問看護師,ヘルパー,ケアマネジャーなどの専門家が,個々の立場の意見を述べ,そのなかで形作っていくものなわけですよね。にもかかわらず,そこで医師が専門家としての推奨を述べられないのは,さまざまな意見に揺らぐことができず,「あなた方の意見よりも,私があなたを思って考えた意見のほうが正しい」という医師の態度が垣間見えているように思うんです。そうした態度こそが,私はパターナリズムの正体ではないかと考えています。

専門家として意図を誠実に伝える

堀内 私が気になっている疑問に,医療者として「できること」と「やれること」には少し違いがあるのではないかというものがあります。人的・金銭的・物的コストを無視すれば,さまざまな医療を提供できるのでしょうが,現実には不可能です。患者さんによって提供する/しない医療が生まれる状況がある中で,どのように折り合いをつけ,目の前の患者と向き合っていけばよいのでしょうね。

尾藤 患者にとって最善の利益以外に,限られた資源配分も考慮しなければならないことは,専門家として患者に呈示する義務があるでしょうね。

堀内 具体例として,容態が落ち着いているので近所のかかりつけ医に紹介したい病院医と,その提案を拒み,引き続き病院の外来診療にかかることを希望する患者さんの場面を想定しましょう。このような場では,どういうかかわりが求められますか。

尾藤 その病院医の意図は,「他に優先したい患者がいるから,別の施設に移ってほしい」というものですよね。そうであれば,私は専門家としてその意図に忠実であるべきだと考えます。

堀内 その意図の通りに伝えるべきということですか。

尾藤 ええ。それが専門家としての責任だと思うのです。少なくとも私は,「申し訳ないけれど,私はあなたを診続けることができません。なぜなら,あなたではない患者さんを優先しなければいけない義務が,私にはあるからです」と言うようにしています。まあ,もちろん実際にはもっとマイルドな表現を使用しますが。

堀内 すごい! 多くの医師は「かかりつけ医は予約がとりやすい」「診療所は待ち時間が短い」といった理由を挙げて,“説得”しがちですよね。

 しかし,意図を伝えても拒まれる患者さんはいらっしゃいませんか。

尾藤 もちろん。中には3年ぐらい同じことを言い続けている患者さんもいます(笑)。患者さんの事情も尊重しなければなりませんから,そこは地道に合議し続けています。ただ,もっともらしい理由で言いくるめるのではなく,意図を誠実に伝え続けることこそが専門家の責務だと考えているのです。

無駄な時間を減らす鍵は,「問題の外在化」と「保留」

堀内 そうしたコミュニケーションは,時間がかかり過ぎてしまいませんか。私も一人ひとりの患者さんに時間をかけたい気持ちはあるのですが,そうすると今度は現場が回らなくなるというジレンマを持っています。

尾藤 診療時の工夫として,2つのことを意識するようになってスムーズになったと感じています。

 ひとつが,医師-患者間で問題の焦点を定め,外在化し,「説得」から「交渉」に切り替えたことです。先ほどのケースで言えば,例えば「かかりつけ医が見つからないこと」にフォーカスし,「かかりつけ医が見つからないことに関し,二人でどうすべきかを考えてみましょう」とアプローチするのです。問題の所在が「かかりつけ医のところへ移らない患者さんにある」とするのではなく,互いの問題ととらえて交渉することで,より建設的な議論へと移行できます。

 そしてもうひとつが,「保留」を選択肢として意識するようにしたことでしょうね。

堀内 保留?

尾藤 1回のセッションでわかり合えるところだけわかり合い,それ以外は次の診療に回すということです。「今回で決定まで達しよう」と思って,時間をかけてでも1回のセッションで成果を得ようとしてしまう気持ちはわかります。でも,1回のセッションを短時間にして,「来月の予約も取りますから,もう1回考えてみてください」と繰り返す方法をとるほうが,トータルとしては時間がかからず,スムーズに患者さんと考えを共有できるようになったと実感しています。

堀内 なるほど。確かに時間をかけた話し合いが功を奏するとも限りませんものね。患者さんにとっても,一つひとつ段階的に理解・納得できる効果的なアプローチの仕方かもしれません。

「気持ちがいい」にも思いを馳せて

堀内 過去に,「酒のない人生なんて生きている意味がない!」と,私の節酒の提案に耳を貸してくれないアルコール性肝硬変の患者さんを診ていたことがあります。文字どおり血を吐くまでお酒を飲んでいて,診療のたびに「あれだけ言ったのに!」と思っていたんです。こうした患者さんには,どのように向き合っていくべきだったのかと振り返って思うことがあります。

尾藤 医療者としては当然飲酒を止めたいですから,患者さんにとって飲酒を続けることの不利益を提示しながら,節酒の提案をし続けることが私も大事だと思います。

 ただ,飲酒や喫煙など,医療者にとって好ましくない結果を生む恐れのある「気持ちのいいことをめざす行為」についても,もっと患者の思いを尊重した上で推奨を述べるべきだと,最近は自分でも反省しているところです。

堀内 医療者の私たちには,なかなか目が向かないところですよね。

尾藤 そうなんです。基本的に医療って,ケガや病気など,言うならば人生における「不快」の部分をゼロにすることを目的に介入するものです。気持ちよい,心地よいという「快」の部分に対して,関与できることはほとんどありません。

 飲酒や喫煙はまさに「快」の部分に働き掛けるものだと思うのですが,医療に従事する人々にとっては,それらの「気持ちのいいことをめざす行為」が「医学的に望ましくない行為」に位置付けられ,しばしば“人生において価値のないもの”という扱いまでされています。

堀内 私もこと喫煙に関しては,強く反対してしまいますね。

尾藤 しかし,人にとって,快と不快は一体となっているものです。不快を取り除くことだけをめざして躍起になるのでは不十分なのかもしれません。「将来がんになるリスク」の不快とともに,「大好きなお酒や煙草を飲む」という快の両方をイメージしながら患者と対峙できるようになる必要があるのではないでしょうか。具体的にどのように接していくべきか,それは今後も考えていきたいテーマです。

「選好」と「誤解」を切り分け,「アウトカム優先」からの逸脱を

堀内 医療現場には,さまざまな理由で治療を拒む患者もいますよね。私が経験した例では,ある書籍を取り出して,「ここには『胃がんは手術不要』と書かれています」と言って手術を拒否した胃がん患者さんがいらっしゃいました。

尾藤 確かにそういった書籍やインターネットの情報を信じる患者さんは多いですね。

堀内 もう一人,印象的だったのが,「治療を受けるように説得してほしい」と知人から紹介された乳がん患者さんです。手術を拒む理由が,宗教団体幹部であるご主人に「いま,治療に時間を費やしたら私のサポートができない。手術は神に背くことだ」と反対されたから,というものだったのです。

 ともに医学的に見れば治療介入がベストと考えられたにもかかわらず,患者側から拒まれた例ですが,こうした方々にはどのようなアプローチをしていくべきなのでしょうか。

尾藤 医師と患者の意見が合わないときは,3つのパターンがあると考えています。ひとつは単純な誤解,ひとつは医師と患者の認識の違い,そしてもうひとつは選好の相違です。堀内先生の2つの例で言えば,前者を「誤解」「認識の違い」の問題として,後者を「選好」の問題としてとらえることができるのではないでしょうか。

 まず前者は,「手術が不要であること」がどんな状態を指すのかについて患者に語ってもらい,医学的な見地から誤解と考えられる点については専門家としての解釈を述べるべきでしょう。

堀内 後者はいかがですか。

尾藤 後者は,個人の「選好」にかかわるものです。確かに医学的に見れば「不合理な考え」とも「愚かな考え」ともとれますが,患者さんの中では不合理とは違った形で解釈されているわけですよね。とすると,本人の選好を尊重しないのは,「不合理なこと=悪いこと」ととらえ,医療・医学の枠組みに患者をはめ込んでいく「パターナリズム」にほかならないのではないでしょうか。

堀内 それでは,どのような介入の仕方が好ましいのですか。

尾藤 私であれば,そこは患者さんとともに戸惑いたいし,悩みたいと思うんです。「私はあなたを治療し,元気になってもらいたい」と医療者としての立場を述べつつも,その患者さんが持つ「神の使い手としてのミッションを完遂させたい」思いもまた尊重する。そして手術を拒否されても,「また今度一緒に考えさせてくれませんか」とお伝えし,他の持病があればそちらを治療するなど,継続的にアプローチはしていくと思います。

堀内 結果的に患者さんが選好を優先され,「手術は受けない」という結論に至ってしまった場合は……。

尾藤 そこでお互いに「納得」はできないにしても,相互理解が得られたのであれば,医師としてやれることはやったと言えるのではないでしょうか。

 最近私が思うのは,「アウトカムが患者の決断を規定する」という前提を,ある程度“逸脱”する必要性です。確かに患者にとって「良い結果を期待する」ことは大切でしょう。しかし,患者の「今,したいことをする」「今,すべきことをする」よりも,「良い結果を期待する」を優先するのが原則となることには違和感を持っているのです。EBMerとしては失格ですね(笑)。でも,重要な決断をする際には,「何が誰のどれほどの利益を将来的にもたらすか」と「今何をなすべきか」を並列して考えるほうが現実感があると思うのです。

■今,医師が持つべきは,“博打”に加担する覚悟

堀内 今年5月,米国の女優アンジェリーナ・ジョリーが予防的両側乳房切除術を実施していたことを公表し,大きなニュースになりました。彼女は遺伝子検査によってがん抑制遺伝子のひとつに変異が見られた結果を受け,将来の乳がんリスクを減少させるために手術に踏み切ったといいます。

尾藤決められない患者たち』においても,同様のケースで決断を迷う患者さんのエピソードがありましたね。

堀内 遺伝子検査の是非の議論はともかくとして,医療技術の進歩とともに,不確定ながらも自らの健康に関する予測情報を得ることが可能となり,そのための予防策も選択できるようになりました。こうした技術革新が,新たな迷いをも生んでいるとあらためて感じたのです。

尾藤 われわれは何かを知ることで,その何かに対する新たな決断を迫られることになる。アンジェリーナ・ジョリーのニュースは,それを世に突き付けましたよね。

 彼女の選択に対してはさまざまな意見がありますけど,私が主張したいのは「あの選択が,彼女自身の決断なのだ」ということです。すでになされた決断に対し,外野から「正しい」とか「間違い」とか言うのは簡単ですが,それは大変差し出がましい行為ではないでしょうか。結局のところ,その主体が,結果を受け入れる覚悟をもって下した決断であるか否かが重要ではないかと思うのです。

堀内 『決められない患者たち』の中では,疾患や手術手技,そして予後が好ましい結果でなかった点まで共通していても,流されるままに手術を選択した患者さんが大変悔やまれていた一方で,自分で納得して手術を決断した方は後悔が少ないという違いがありました。

尾藤 後悔のない意思決定をするためには,「合理的か否か」ではなく,「いかにクールに,そして一方で覚悟をもって主体的になされたか」が重要であるとわかりますよね。

 現代は,医療技術の発展により,誰もが情報を手に入れることができ,そして先行きが不透明な決断を迫られる時代です。不謹慎に聞こえるかもしれませんが,現代人は「人生は博打である」という覚悟をもって生きなければならないと,私は半ば本気で思っているんですよ。

堀内 日常生活の中から,極めて予測困難な決断をしていかなければならないという意味では,そう言えるのかもしれません。

 その難しい決断を迫られる患者に対し,医師はどのような役割を果たすことができるのでしょうか。

尾藤 医療の枠組みで行われる博打に対し,予測評価のオッズ(倍率)に加え,「今はこれを治療しておいたほうがいいのでは」と推奨する役目です。われわれ医師には,「予想される結果の合理的な正しさ」にこだわる考え方から,「患者がいかにクールに,そして主体的に選んでいるか」を重視する考え方へシフトチェンジし,患者の決断に積極的に加担する覚悟が問われているんです。

堀内 時代の変化とともに,医師-患者関係の在り方を編み直し,より充実させていかなければなりませんね。本日はとても勉強になりました。

(了)


患者が覚悟をもって行う“決断”に,医師も覚悟をもって加担していく必要がある

尾藤誠司氏
1990年岐阜大医学部卒。国立長崎中央病院,国立佐渡療養所,米UCLA公衆衛生大学院を経て,2008年より現職。実地診療,医師・看護師教育とともに,患者-医療者関係などを中心に研究。共編著に『医師アタマ』『白衣のポケットの中』(ともに医学書院),『「医師アタマ」との付き合い方』(中央公論新社)。「もはやヒポクラテスではいられない21世紀新医師宣言プロジェクト」の中心メンバー。

時代の変化とともに,医師-患者関係を編み直し,より充実させていかねばならない

堀内志奈氏
1994年札医大卒。同大病院,米サンフォードバーナム医学研究所,東京衛生病院を経て,2012年より現職。2013年3月に発行された『決められない患者たち』(Jerome Groopman & Pamela Hartzband,『Your Medical Mind――How to decide what is right for you』)の翻訳を手掛けた。

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