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第2998号 2012年10月15日


【対談】

変容する社会と
パーソナリティ障害のかたち

牛島 定信氏(三田精神療法研究所・所長)
斎藤 環氏(爽風会佐々木病院・診療部長)


 パーソナリティ障害は,社会生活の中で"うまく対人関係を築けない人""何かとトラブルを起こす人"を定義付ける概念として,一般社会にまで認知が拡大しつつある。一方で,社会環境や,人々の精神構造を反映してその定義は移ろいやすく,疾患としての輪郭をとらえることは容易ではない。

 今回は,長年パーソナリティ障害の臨床に携わってきた牛島定信氏が,ひきこもりなど現代社会で"うまく生きられない"人々と向き合い続ける斎藤環氏と対談。現代社会の有り様に依拠して変化していくパーソナリティ障害の現在形を俯瞰した。


医療の外側で拡大する,境界性パーソナリティ障害の概念

牛島 現代的なパーソナリティ障害(Personality Disorder;PD)の概念は,それまで精神疾患の一つとみられていた「境界例」を,境界性パーソナリティ構造という人格構造上の障害として定義した1968年のオットー・ F・カンバーグ,そして,自己愛を全能的な未熟型から他者(自己対象)をも愛せる成熟型へと発達するものと考え,その発達が不完全な状態を,自己愛性パーソナリティ障害(NPD)ととらえた71年のハインツ・コフートに始まると言えるでしょう。

 これを日本におけるPDの変遷と重ね合わせると,カンバーグの概念は,60年代から急増した拒食症や過食症,手首の自傷,そして周囲を巻き込んで騒動を起こすような多衝動性障害の人々をよく説明するものと考えられます。

 しかし21世紀に入ると,境界性パーソナリティ障害(BPD)を外来で見かける機会が急に減ってきました。入院患者数も,減少したと言われていますね。

斎藤 確かに,80-90年代を通じて治療者にとって困った患者の代名詞だった"ボーダー"と定義される人々は,医療現場から遠ざかりつつあるように見えます。

牛島 その理由として,かつてはBPDの診断の目安であったはずの行為が,日常に埋没している状況があると思うのです。

 若い女性の手首自傷や過量服薬なども,近ごろでは発達上の一つの挫折ととらえられますし,人間関係が不安定で,男女問題を頻繁に起こすというBPDの特徴も,今はそれほど特殊なことではありませんよね。

斎藤 最近では女子中学生の約14%にリストカット歴があると言われていますし,かつて深刻な病状を表していた行為が,総じて非常にカジュアルにとらえられるようになっているのは確かですね。

 ただ,臨床で見かけなくなったぶん,一般社会で"ボーダー"という単語を耳にする機会は増えつつあると感じます。特にインターネット上でからんでくる人をボーダー扱いしたり,リアルな人間関係でみかける"困った人"について,ボーダーというレッテルを貼るようなシーンをよく目にします。BPDの概念が,臨床の診断枠の外側に,ある程度軽症化しながら拡大しつつある,と言えるのではないでしょうか。

ひきこもりの陰にある自己愛と回避傾向

牛島 もう一つ,60年代ごろから急増したのが,登校拒否や,笠原嘉先生の提唱した「退却神経症」から,全面的なひきこもり状態まで発展するタイプの人々です。こちらにはコフートのNPDの理論が当てはまると思いますが,いかがですか。

斎藤 同感です。典型的なNPDとは言えないまでも,自己愛を生涯発達し続けるものとみなしたコフートの理論から言えば,人と接しない環境に長く置かれたために,自己愛が未熟で誇大なままとどまり,「プライドは高いが自信がない」という意識のまま,ひきこもっているケースがあると考えられます。

牛島 家族とさえ口をきかないようなひきこもりの人がいる一方,不定期なアルバイト程度はできるけれど正職にはつけず,長いスパンで見たときにはほとんど社会人としての役割を果たしていない人たちもいます。そういう人は,PDの視点からはどうとらえられるでしょうか。

斎藤 そうしたケースに関しては,ひきこもりから抜け出そうにも抜け出せないというより,失敗を恐れる回避傾向が目立つ気がします。いわゆる回避性PDと言えるかもしれません。

牛島 恥をかくのを恐れているわけですね。

斎藤 ええ。高い理想を掲げる一方,恥をかくこと,批判されることを恐れ,今の自分を無条件に受け入れてくれる場所にだけ行ける。一見すると,すべてのことから完全にひきこもっている人に回避性PDの診断基準が当てはまるように考えがちですが,そうではなく,デイケアに何年も熱心に通いつつなかなか卒業できない"主"のような人たちのなかに典型的な回避性PDが含まれているというのが,臨床上の印象としてありますね。

"うつ"にすべてが包含されている

牛島 最近,PDがうつ病とみなされてしまうことが非常に多いと感じるのです。「会社のせいでうつ病になった」と言って親を巻き込んで会社に乗り込んでくるような人や,新卒で入った職場でうまくいかず,うつ病と称して休職・復職を繰り返すうちにドロップアウトしてしまい,アルバイトも長続きせず,家では暴れている人。そうした,本来はPDの類型として診断されるべきケースが,30代半ばになってもうつ病という診断のまま治療されている状況をよく目にします。

斎藤 いわゆる"新型うつ"の激増と関連して,うつという診断名の中に,本来のBPDや,ひきこもりまでもが含まれるようになった可能性はありますね。うつ病の知識はメディア等を通じてかなり広まり,今や一般の雑誌でもうつ病を特集すると売れ行きが変わるそうです。その結果うつ病を"自称"して医師にかかる方も多く,それがそのままうつ病と診断され,PDの診断にまで至らないケースも増えているのではないかと思います。

 もう一つ,ひきこもりの場合,最近は高齢化が進み,20年前の調査では平均年齢が20歳前後でしたが,2年前の統計では32歳です。すると,不登校からではなく就労後にひきこもり始める人が多くなり,うつ病といっそう区別がつきにくくなる。また,"新型うつ"と言われる人たちの「遊びには行けるけれど仕事には行けない」という一見身勝手な振る舞いが,ひきこもりの自己愛的な態度と共通して見える場合もあるように思います。

縦断的なパーソナリティ評価を

牛島 こうしたさまざまなタイプの人々の心に潜む人格的な問題を見いだすために,診療でどのような点を重視しておられますか。

斎藤 私自身は,ある程度の期間縦断的に治療関係を維持しつつ,診断の"あたり"をつけていくようにしています。

 ひきこもりの方であれば,ひきこもっている環境自体が人格にもたらす影響があり,対人関係を持ち始めると,ガラリと様子が変わってくることがしばしば見受けられます。ある程度時間をかけて変化をみて,可能ならデイケアなど,他人とかかわっている姿も含めてパーソナリティの評価ができればベターだと思います。

 また,回避性PDに関しては,治療への反応を見る重要性を感じます。一定レベルの社会的役割は果たせるけれど,そこから先へ進めず,治療に関しても言い訳をしたり,なかなか指示に従ってもらえない。そうしたケースを継続的に診て,治療の煮詰まり方に注目していると,傾向がわかってくるかもしれません。

牛島 患者さんの訴える症状のみで,判断できるものではないということですね。

斎藤 ええ,ですから家族の視点も同時並行的に調べていくべきでしょう。PDに特徴的な他罰的傾向は,まず家族に対して発揮されることが多い気がしています。現状に葛藤を抱えた若い人が,しばしば家族にそれをぶつけ,家族のほうは身に覚えのないことを突然ダーッと列挙されて難渋する。「下手に反論するとますます憤るので,どうしていいかわからない」という相談は,今でも非常に多くあります。

 場合によっては,家族ではなく会社の非を言い募るようになるケースもありますが,キーパーソンに対して他罰的な攻撃性が向けられていることが,診断へのヒントになる可能性は考えられます。

牛島 職場,家庭での自己愛的,他罰的傾向というのは,確かにPDの存在を疑わせる大きなポイントですね。

人格の統合・成熟が起こりにくい時代

牛島 1970年前後までは,演技性PDは「派手で,人の注目を集める行動を盛んにする」,強迫性PDは「抑制的で,感情を表に出さず,きちんと整理整頓しなければ気が済まない」といったように,DSMの古典的な性格描写で診断が間に合っていました。しかし今は,演技性PDでなくとも派手に振る舞い人の注目を引こうとする人が大勢いますし,末節にこだわるあまり,片付けられない強迫性PDの人も増えています。BPDやNPDの変遷も含め,パーソナリティ障害の臨床が非常に複雑化していると感じます。

斎藤 例えばIT関係の仕事や趣味趣向を持つ人にとっては,むしろ強迫的であったほうが適応しやすい場合もありますし,派手な外見や振る舞いが,他者からの承認を得やすくする場合もあります。そのことによって他者も自分も困っていないなら,パーソナリティの障害という次元では,もはやとらえられなくなっているのかもしれません。

牛島 そういう状況に鑑みると,確固たる人格というものを形成しにくい時代を迎えている気がしますね。

斎藤 その時代性を表しているのが,今,若い世代でみられる「キャラ付け」という行為だと思います。人格よりもう少し軽いキャラクター類型に自分を当てはめ,場面に応じて使い分ける。そうして「キャラ付け」がなされることで,コミュニケーションがしやすくなるというんですね。

 大人の世界では今,いかに巧みに他者と交わるかがとても重視されますが,子どもの世界は大人の世界の戯画化です。おしゃべりが巧みで,笑いをとるスキルがある,つまり「コミュ力」があるほうがもてはやされる。そして「コミュ力」が高いほど,「スクールカースト」という,教室内でのレベル分けの上位になれるわけです。

牛島 そこで勝ち組,負け組が決まるということですか。

斎藤 そのようです。最近の研究では,このカースト内の上下関係がいじめの背景にあるとも言われています。

 必ずしも本来の性格とは一致しない,キャラクターという類型がないと適応できない状況が,日本の学校社会,あるいは若い就労世代で一般的になってきている。となるともはや,1つのパーソナリティにいろいろな経験を蓄積し,じっくりアイデンティティを形成するプロセスは流行らないですよね。

牛島 森田療法でいう「純な心」,つまりあるがままの自分を素直に出しにくい文化になりつつあるんですね。

斎藤 キャラクターを使い分けて摩擦や衝突を避ける点では,回避的な文化とも言えます。回避的なモードになってしまうと人格の統合や成熟が非常に起こりにくいですから,その意味でも,ますます人格が成熟しにくい社会になりつつある印象を持っています。

■自己を成熟させていく過程を受容できる社会に

牛島 さて,そうした文化が拡がる中で,一人の人間の人格を成熟させていくのは並大抵のことではありません。医療者としては,臨床現場でどのようなかかわりを行っていけばよいでしょうか。

斎藤 現実的なのは,コフート的に成熟を促していくアプローチではないかと思います。

 具体的には,いろいろな自己対象と出会い,時間をかけて自己愛が成熟していく過程に寄り添うイメージです。1対1の面接場面を大事にすると同時に,診察室以外での経験を治療に生かすことも重視する。私は最近,主にひきこもりの人を対象に「人薬(ひとぐすり)」と称して,できるだけ安全に他者とかかわれる場面設定を多く作り,承認や受容される経験を経て,自己愛を立て直し,健全化していく方向をめざす試みをしています。個人的な技量だけで導くにはどうしても限界を感じますので,社会や人と人とのつながりがもたらす治療的な機能をできるだけ活用する方法が,私にとっては最もやりやすいです。

牛島 自己愛をゆっくり発達させている状況にある人を治療的に受け入れていけるよう,社会の受容の幅を広げていくことも考えていかなくてはなりませんね。

 決められたコースをたどって,早く一人前にならなければと焦る結果,心身のバランスを崩してしまうような若い人が今,たくさんいますから。

斎藤 そうですね。現状では,順調に学歴を重ね,安定した就労をして結婚する,というコースを一度逸脱してしまうと,立て直すための社会資源が非常に乏しい。最近は少し"逸脱"に寛容になったようにも感じますが,逆に「やりたいことを自由にやりなさい」と,少々歪なプレッシャーをかけすぎている印象もあります。

 自分のやりたいことを見つけられない人が多数を占める時代に「自分の欲求を極めなさい」というのも難しい要求で,そういう面でバランスをうまく取れないでいる人をなんとかサポートできたらとは,いつも考えています。

牛島 じっくり腰を据えて,人間関係を育て,自己を成熟できるような場を作り,見守りつつ時に手助けする。医療者に求められているのは,そういう役割かもしれませんね。本日はありがとうございました。

(了)


牛島定信氏
1963年九大医学部卒。ロンドン大精神医学研究所,福岡大などを経て,91年慈恵医大教授。2004年東京女子大文理学部教授。日本サイコセラピー学会理事長,日本精神分析学会会長,日本森田療法学会理事長,日本児童青年精神医学会理事長などを歴任。06年には森田正馬賞を受賞。『境界性パーソナリティ障害――日本版治療ガイドライン』『詳解 子どもと思春期の精神医学』(いずれも金剛出版)など編著書多数。

斎藤環氏
1986年筑波大医学専門学群卒,90年同大大学院医学研究科博士課程修了。専門は思春期・青年期の精神病理学,および病跡学。「社会的ひきこもり」問題の治療・支援に取り組むかたわら,ラカン派精神分析に依拠した評論・執筆活動を行う。『文脈病 ラカン/ベイトソン/マトゥラーナ』(青土社),『社会的ひきこもり』(PHP研究所),『「社会的うつ病」の治し方――人間関係をどう見直すか』 (新潮社)など多くの著書がある。