医学界新聞

インタビュー

2009.01.05

【インタビュー】

新型インフルエンザ発生前のプレパンデミックワクチン接種は妥当か
1976年の豚型インフルエンザ騒動に学ぶ

西村秀一氏(国立病院機構仙台医療センター 臨床研究部病因研究室長・ウイルスセンター長)


 新型インフルエンザ対策の一環として,世界各国でワクチンの開発・準備が進められている。日本においては今年度,医療・検疫関係者6400人を対象に,プレパンデミックワクチン(MEMO欄参照)の有効性・安全性を評価する臨床研究が行われている。さらには,医療従事者や社会機能維持者1000万人への,新型インフルエンザが出現していない時期での事前接種も検討されており,政府は早ければ来年度にも実施したい構えだ。

 ところが,このプレパンデミックワクチンの事前接種については,専門家の間でも賛否両論あるのが実情だ。事前接種に対して慎重な見方を示す西村秀一氏に話を伺った。


――プレパンデミックワクチンの事前接種に,慎重な立場を示されています。

西村 新型インフルエンザ対策において,ワクチンが非常に重要な位置を占めることには異論ありません。プレパンデミックワクチンを備蓄することはもちろん賛成ですし,臨床研究の是非についてはこれも評価が分かれるところですが,大きな問題ではないでしょう。

 そもそも,私はワクチンの開発研究に携わっていたことがあるのです。1997年に香港で鳥インフルエンザのヒト感染事例が初めて報告された際には,国立感染症研究所で当時患者から分離されたH5N1株をもとにしたワクチン開発に取り組んでいました。ですからなおのこと,自分もかかわってきたワクチンがどのように使用されるのか,興味を持っていたわけです。

 そうしたなかで,2008年4月に突然,「1000万人を対象とした事前接種を検討する」という提案が政府から出されました。将来的には,希望するすべての国民への事前接種も検討されているようです。実際にまだ新型インフルエンザが出現していないWHO警報フェーズ3の現段階で,なぜそこまでやる必要があるのか。非常に強い違和感を持っています。

ワクチンに対する信頼が失墜してしまう

――プレパンデミックワクチンの製造・備蓄や臨床研究はいいとしても,新型インフルエンザ発生前の事前接種には否定的ということですね。どこに問題があるのでしょうか。

西村 現在検討されているプレパンデミックワクチンの事前接種の考え方は,実際にパンデミックとなってからでは,ワクチンの製造や供給,接種が間に合わないだろうという予測に基づいています。確かにこの考え方は一理あるのです。しかし,それには条件があります。それは,発生が予想される新型インフルエンザウイルスの亜型とワクチンの型が合っていること,そしてワクチンの効果が確かに期待でき,副作用の問題がクリアできることです。

――最近では,H5N1から新型インフルエンザが発生するという予測を疑問視する見方が広まっています。

西村 H5N1はあくまでも有力候補のひとつにすぎません。いつどの型が新型インフルエンザとなるのか,結局のところ誰にもわからないのです。わからないながらも予防策として積極的に実施するのか,わからないから実施しないのか,そこが問われています。

――国産のプレパンデミックワクチンの有効性についてはいかがでしょう。

西村 これも疑問符がつきます。治験で接種した人のデータを見る限り,HI抗体価は十分に上がっていません。通常のワクチンでは,HI抗体価40倍という値が「効果あり」とみなされる下限ですが,国産ワクチンのHI抗体価は15.9倍で,まったく基準に達していません。中和抗体価は確かに上がっていますが,上がった人が何%いたという話のみで,それがワクチンの有効性を担保できる程度のものかどうかは十分に検討されていない。欧米のワクチンと比べると,現段階の国産ワクチンの性能は明らかに劣ります。

――ただ一方で,「多少なりとも抗体価が上がるなら,接種して悪いことは何もない」という考え方もできます。現在の治験段階では,大きな副作用も報告されていません。

西村 現在は数千人規模の治験ですが,接種対象者が何千万人ということになると,重大な副作用が出てくる可能性は否定できません。さらに,それらの「真の副作用」に混じって,例えばワクチンを接種した翌日に原因不明で死亡したり,意識がかすれて事故に遭ったなどの「紛れ込み」と言われる,一見副作用に見える偶発事例が出てきます。ワクチンと因果関係がないことを証明できればいいですが,真の副作用と紛れ込みを即座に区別するのは実は難しいのです。

 もしH5N1が本当に新型インフルエンザの流行を引き起こし,WHOのフェーズ5-6の段階に達したならば,メリットとデメリットの比較の問題になり,副作用の出現もある程度は許容されるかもしれません。しかし,新型インフルエンザが発生していないこの段階で副作用あるいは副作用“もどき”が起きたら,ワクチンに対する信頼が一気に失墜し,伝家の宝刀として備蓄されているプレパンデミックワクチンが,肝心なときに使えなくなってしまう恐れがあります。

――では,今やるべきことは何でしょうか。

西村 ワクチン研究に全力投球するべきだと私自身は考えています。日本のワクチンの実力をもっと向上させるべきです。性能の高いワクチンを製造するために研究を促進させ,データを蓄積することが急務です。

――海外で,日本のようにワクチンの事前接種を検討している国はあるのでしょうか。

西村 私が知る限りでは,備蓄はするにしても,フェーズ3の現時点での接種を検討している国はありません。諸外国は,奇異な目で日本の動向を見ていることでしょう。アメリカも当然やりません。なぜなら,1976年のトラウマがあるからです。

「パンデミックは起こらず,訴訟だけが残った」米国の教訓

西村 アメリカには,1976年の豚型インフルエンザ騒動の教訓があります。ニュージャージー州の陸軍訓練基地で豚型インフルエンザの集団発生が起きたのですが,このウイルスはH1N1でした。1918年のスペインインフルエンザのウイルスと抗原性が類似していたため,専門家たちはパンデミックの再来を危惧しました。専門家や,それに引っ張られるかたちで危機感を抱いた厚生行政担当者から要請を受けた当時のフォード大統領は,全国民に豚型インフルエンザワクチンを接種するという緊急大規模予防接種を決断し,実行に移されました。

――今の日本と似たような状況ですね。

西村 そうです。ところが接種者のうちから死亡例を含む副作用の訴えが報告され始めました。中には,先ほど話した「紛れ込み」もあったのでしょうが,マスコミは興味を持ってそうした事例を追いかけ報道しました。こうしたなか,フォード大統領は大統領選で落選しました。

 さらに,ギラン・バレー症候群が報告されるようになり,調査の結果,豚型インフルエンザワクチン接種との関連性が高いことが判明しました。これが決定打となって,この事業は接種者が4000万人を超えた段階で中断となり,その後再開されることはありませんでした。そして,豚型インフルエンザは大流行を起こすことはなかったのです。「パンデミッ...

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