医学界新聞

寄稿

2008.03.03



【寄稿】

医師が学ぶヘルスポリシー

富塚 太郎(ロンドン大学衛生熱帯医学大学院・経済政治学大学院/ヘルスポリシー・計画・資金調達修士課程)

 「医療は医学の社会的適応である」と言ったのは戦後日本の医療制度に大きな影響を与えた元日本医師会長・武見太郎氏でしたが,サイエンスの側面のトレーニングを受け社会に出た医師が臨床の場で多く直面するのは,医学の知識のみでは解決できない,一筋縄ではいかない「社会的」な問題です。医師免許の付与・剥奪,診療範囲の規制が政府・行政機関によって行われていることで,基本的な存在条件自体が「政治的」な医師が,日常的に直面する医療や社会的な問題に関わる健康にまつわる政策とその周辺について知らないのは,少しナイーブかもしれません。

 私は政治家の得票を意識した発言やマスコミに煽られた「政治」ではなく,学問的な“ヘルスポリシー”を学ぶことで得られる洞察や知見によって,医師がよりよい診療・研究に集中でき,継続可能なよりよい医療制度の構築に貢献し,より多くの人の役に立てるのではないかと考え,英国で学んでいます。本稿で私が学んでいるヘルスポリシーの概要をご紹介します。

ヘルスポリシーとは

 ここであえて“ヘルスポリシー”としているのは,社会保障の枠組みで扱う医療政策・医療保険政策のみが健康に関わるわけではなく,経済状況,薬物濫用などの社会問題,労働・雇用・教育,はては個人の嗜好やライフスタイルなど複合的な要素が人々の健康に関わるという認識のうえで,「健康と病気」にまつわる政策を扱う分野として区別しようと意図したものです。社会における健康問題の特徴,政策上の問題設定と解決に至る枠組みや試みを学ぶ分野であるといってよいかもしれません。

 私の属するコースは,2科目の必修以外は各人のプロファイルと今後のキャリアプランに合わせて,個人的に割り当てられたチューター(指導教官)と相談し,受講科目を選択することができます。現在受講している科目を列挙すると「ヘルスポリシーの基礎と今日的課題」「ヘルスケアの資金調達」「医療システムと政策」「医療経済学」「ヘルスケアのコスト効率分析」「ヘルスポリシーにおけるプロセスと力関係」「健康に対するインパクトと決定分析」と広範にわたることがおわかりいただけると思います。内容例として最近学んだ2つのトピックを紹介します。

格差と健康

 医師が患者の病歴・徴候や疾患のみを追い治療することではよくならない患者の症状・状態に直面した時,「精神的なもの」や「ストレスでしょう」と片付けてしまわずに,「格差と健康」の関係を知り考えることが問題解決の一助となるかもしれません。日本でも表面化し,注目されている社会の中での「格差」はさまざまな国でも大きな問題として捉えられ,特に健康に関してはWHOやOECDにより1980年代から指摘・モニターされています。英国でも1980年のブラック報告による指摘から問題視され,政策上の課題としてその解消への努力を続けています。

 指摘されているのは性別や地域に加え,収入や社会的地位などが疾患の罹患率や寿命の長さと有意に関係しているという事実です。スコットランドの調査では,同じ都市内でも裕福な地域と貧困な地域では実に12年もの平均余命の差が指摘され,他に心血管疾患は約2倍,肥満や精神疾患,特にうつ状態やアルコール依存は社会的経済的状況が悪いほど罹患率が高いことが明らかにされています。その原因としては,低所得者ではより喫煙が多いなどの生活習慣・環境因子のほかに,劣悪な職場環境やサポートの得られない社会環境も原因として指摘されているのは,「社会構造」と「健康」の関係を再考させてくれます。

 また一方で注目に値するのは,収入のより低い人は,仮に医療が無料であっても,収入の多い人より医療(特に専門的医療)を利用できていない,という研究報告です。関連する要因として,受けている教育の低さや自分の要求を主張する技術の低さが医療の利用を妨げているとともに,医療提供者側の要因として,医療者が意識的にもしくは無意識的に,患者の収入や社会的経済的な状況などの違いに応じて,提供したり勧めたりする医療の内容を変えている可能性が指摘されており驚きです。

 さて,格差は測定によって観察できるものですが,いかに「公平」にするかを考えると,それはその社会の価値感によりますので,政治的には社会全体で「公平」に関する価値観の議論を踏まえたうえで,実際どう対策するかの話となります。臨床医としては,このような「格差と健康」の関係を知るだけで,患者がきちんと受診・再診しなかったり,コンプライアンスが悪かったり,自分の症状の重症度に無自覚であったり,納得が悪かったりしてやきもきイライラしてしまったりしても,その背景にある理由に思いを馳せ,少し踏ん張って,病状・治療理解への努力促しやサポート,受診・治療の励行推進が効果的ではないか,などと見る目や対応が変えられるかもしれません。

患者の選択と制限

 日本の医療は患者による医療機関の選択が自由であること,フリーアクセスであることを強調し,制限されることに敏感でありますが,一方で選択の制限がよりよい選択を生むことがある,という指摘も興味深いと思います。

 多くの人は自らが選択の権利を持って受ける医療を選択したいと考えていますが,上手な選択ができる条件として「判断に必要な医療機関の情報が十分に与えられていること」や「十分な数の選択肢が提供されていること」「なにが自分によってよりよい選択なのか価値判断が明らかなこと」が研究にて挙げられています。しかし一方で,高齢者にとっては先の条件が満たされても適切な医療の選択ができないことが多く,原因として記憶や判断力の低下との関連や情報へのアクセス能力の低下,また情報が十分にあっても活用できなくなっていることなどが明らかになっています。

 その解決法としては,選択を制限したうえで,よりシンプルで効果的な選択を提示するガイドの効果が示され,現在日本で話題の「後期高齢者医療制度」について考える際にも参考になり,誰が責任を持ってよりよい医療を受けられるようガイドするのか,というテーマに通じます。

ヘルスポリシーのすすめ

 大学院では上記のようなトピックについて文献を読み,講義を受け,セミナーで発表とディスカッションを繰り返し,理解を深めていきます。一緒に学んでいるクラスメートの背景は非常に多様です。官僚として自分の国の医療政策に関わりその理論を学びにきた人,コンサルタントやNPOで働き自分の職場で専門知識を活かそうという人のほかに,内科や産婦人科で専門医をとり臨床を十分実践してきた後に医療についてより知るために来ている人も多く,臨床経験から得た疑問をもとにさらに学び,自分の診療をより大きく捉え仕事することや自国の医療環境に貢献しようとしています。

 現在,日本の医療状況,特に医師の勤務状況は大変厳しくなってきていますが,それを「崩壊」などの言葉で片付けず,そこから学べる多くのことを利用して,医師たちが自律的に貪欲に改善に向かうことが期待されていると思います。ヘルスポリシーを学ぶには,日本では各大学,学生向けには日本医療政策機構による医療政策クラークシップ等がありますが,修士課程・博士課程レベルの教育はまだ発展途上です。海外の大学院でのヘルスポリシー学習・研究に皆さんにも今後の選択肢として興味を持っていただき,皆でよりよい日本の医療環境に貢献できる日が来るのを楽しみにしています。


富塚太郎氏
1999年京府医大卒業。北海道家庭医療学センターにて家庭医として地域医療・教育の実践を経て,上医治國を志向し,医療制度・ヘルスポリシーを学ぶために渡英。2007年より現職。

ブログ「医師が国政を目指す。」
http://blog.m3.com/Dotherightthing/

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