医学界新聞

連載

2008.02.11



生身の患者仮面の医療者
- 現代医療の統合不全症状について -

[ 第11回 内面化する仮面 ]

名越康文(精神科医)


前回よりつづく

仮面の機能

 この連載では一貫して死,あるいは生死にかかわる重大な決断をする場に医師が立ち会うということにかかわる問題を取り上げてきました。僕にとって死の問題は個人的な思いいれがあると同時に,そこを考え抜かない限り,医療にまつわる今日的な問題には何一つ答えられないんじゃないか,という思いを持っています。

 たとえば30-40年前の日本の医療では,いわゆる「赤ひげ」「医は仁術なり」といった考え方が支配的で,そこでは「医者は人の命を救うもの」ということが大上段で認められていたといわれています。それこそ,自分や家族を差し置いてでも他人の命を救うというあり方こそが「医の本流」と信じて疑われない時代があったわけです。

 しかし,現在では「医は仁術なり」というお題目を正面きって主張することは大変難しい。医療過誤はもちろんのこと,これまでならその意義を疑われなかった治療法が,批判の矢面に立つようになりました。「過度な延命治療への批判」などはその一例ですね。これらの底流にあるのが,「医師といえども“人を救う”ことはできない」ということを,世間が感じ,医師自身も自認するようになってきた,ということだと思います。

 連載の第7回で,現在はあらゆるものの仮面がはがれ,生身が剥き出しになる時代ではないか,というお話をしました。教師のレッテルがはがれて学級崩壊が起こり,父親,母親,子どもの仮面がはがれて,家庭が崩壊しつつある。父親,医師,教師といった仮面がはがれた裏には何があったかというと,実はそこには確たる実体なんて何にもなかった。私たちは仮面を取れば,ヌエのような,どろどろとした,とらえどころのないものでしかなかった。「医者」「患者」といった仮面があって初めて,かろうじて規定されていた「医療」という機能が,仮面をはがすことによって大きく損なわれてしまった。仮面というのは「機能としての実体」であったわけです。仮面がはがされた生身の医療というのは,言ってみれば「機能が失われた医療」に過ぎなかった。

 何か本質のようなものがあらかじめあって,仮面がそれを隠していたわけじゃなく,仮面をかぶることによって初めて,医師としての機能が立ち現れていたのだということには,すでに多くの人が気づき始めているんじゃないでしょうか。

 これは,医師の内面にとどまる話でもなければ,抽象的な話でもありません。たとえば女性が医師の前で胸をはだけることができるのも,自分の身体に見知らぬ人がメスを入れることを許せるのも,まがりなりにもまだ,「医者の仮面」が機能しているからです。しかし,そこがゆらぎはじめている。

仮面なきあとの医療のかたち

 「そうはいっても,現に我々は医療の恩恵を受けているじゃないか」という方もいらっしゃるかもしれません。たしかに,仮面をはがされた医療は,劣化しつつも一定レベルの機能を果たしているように見えます。それはおそらく,「医は仁術」「命を救う」といった仮面がはがされたときに,個々の医師がそうしたものを内面化したからじゃないか,と僕は考えています。表面的にはもはや「赤ひげ」を気取るような医者もいないし,「医は仁術」「命を救う」といったお題目はどうしても空疎に響いてしまうのが今という時代ですが,一方で医者は医者としての仕事を果たしている。人の身体にメスを入れたり,死にゆく人のかたわらにいることができるのは,かつての公的に認められた仮面に変わる何ものかを,個々の医師がよりどころにしているからです。

 仮面がはがされていく過程で,それは個々の医師の内面に,深く入り込んでいくことになった。そうすればとりあえずその人は医師として機能できる。しかし,こうしたあり方はやっぱり不健全だと僕は思う。互いが内面化したのでは,議論の余地がなくなってしまいますからね。

 仮面が仮面として表面化しているときには,「医療とは何だ」「救うってどういうことだ」といった議論を交わすことができた。しかし今は,そうした本質的な問いは巧妙に回避されてしまう。そうした,医師というあり方を基礎付けるようなものがすべて個々の人間の中に内面化されてしまい,確たる共通基盤を失ってしまった。だから,これだけ医療批判の声が高まってきても,医師自身が「医療とは何か」という問いを自発的に問うことはほとんどない。

 隣の医師が内面化していることについては,だいたい想像がついても,はっきりはわからないし,お互い口出しできない。だから,医療批判に対してはっきりとした反論ができず,頭を垂れるしかなくなってしまう。個人的に思うところはあっても,公的に「医療とはこういうものだ」という共通基盤を築けないんです。

 実は,この傾向は20年前に僕が医学部生をやっていたときからずーっと,連綿と続いています。ある種の「膿の出せなさ」といっていいでしょう。一人ひとりの医師が,自分が医師として生きていくときに,こういう「膿の出せなさ」のような感覚をどうしても抱えてしまう。そういう時代の中で,医療が営まれている。

内面化による袋小路

 内面化のかたちは一人ひとり大きく違います。だから,施術ひとつとっても,何をどう考えてどう選ぶのかということについて,本当は誰一人,確固たる確信を持てなくなっている。たとえば精神科の分野では,SSRIを推進する動きと,批判的な動きとがあります。SSRIは僕も臨床で使いますが,薬を使うことには当然一定のリスクもある。でも,中にはSSRIで非常に状態のよくなる人も多くいらっしゃるわけですね。そういうとき,その医師がどういう形で「仮面」を内面化しているかによって,治療は大きく変わってしまう。また,医師同士の違いを自覚してしまうと,ものすごく心細くなったり,揺れ動いてしまう人もいるでしょう。でも,そこの部分はすごく個人的な感覚や人生観として内面化されているから議論することができない……そういう,何重にも入り組んだ葛藤がある。

 そういう葛藤に踏む込みたくないから,マニュアル至上主義が台頭する。技術論に終始する。EBMが流行った背景にも,この葛藤があるでしょう。でも,どんなものによりかかったところで,目の前で患者さんに死なれてしまったら,絶対にどこかで忸怩たる感情にとらわれると僕は思うんですよ。仮面を内面化してしまった時点で,どんなスタンスを採用していようと,医者は分裂的にならざるを得なくなったんです。

 昨年,病気腎移植の問題がありました。学会などはそれなりの見解を示したと思いますが,結局のところ,病気腎移植がダメなのかよいのか,はっきりした結論は見えなかった。医師同士がほとんど共通基盤を持っていない中で,何となく共有しているのは「医者は命を救うのだ」というテーゼくらいですが,これによりかかると,病気腎移植の批判って難しいわけですよ。病気腎移植をした医師の「患者が救われているじゃないか」という言葉に,断固として異を唱えられた人って,いなかったですよね。

 感覚的には,多くの医師が彼の手法に違和感を覚えている。にもかかわらず納得のいく判断はできない。ガイドラインを持ち出したり,「あれはちょっとやりすぎではないか」といったあいまいな批判に終始する。それぐらい,思想的基盤が共有できていないんです。

 そのような状況を,ひとたび医療を受ける,患者の側に立って想像してみるとすると,やはり不安じゃないですか。端的にいって,「医者に身体を預けるのは嫌だ」と感じる。この状況では,そう感じるのって,すごく自然なことだと思うんですよ。医療不信が問題になっていますが,医療事故だけを点で見つめるだけでは不十分で,根本には,仮面なきあとの医療の空疎感みたいなものが,根源的な不信感につながっているんじゃないか。僕はそんなふうに感じています。

この項つづく

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