白衣のポケットの中
医師のプロフェッショナリズムを考える

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医師という職業(プロフェッション)のあり方について、日常(診療)で遭遇しがちな問題や葛藤を取り上げた実践的な内容。気軽に手に取り、楽しんで読んでもらえるように、イラストなどを多用。当事者である臨床医が集まって執筆した「医のプロフェッショナリズム」に関する書は、本邦初。今後ますます重要性を増してくると予想される。『JIM』 2007年2月号~2008年1月号の連載をまとめた。
編集 宮崎 仁 / 尾藤 誠司 / 大生 定義
発行 2009年04月判型:A5頁:264
ISBN 978-4-260-00807-5
定価 2,640円 (本体2,400円+税)
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はじめに今,なぜプロフェッショナリズム?
尾藤誠司

 さて.
 今,なぜ,医師のプロフェッショナリズムについてああだこうだ言わなければならないのだろうか? 巷では「医療崩壊」が時勢のキーワードのように叫ばれている.今の医師は「働けど働けど,国民には理解得られず,じっと手を見る」の状態.正直,「こんな仕事,もうやってられるか」モードにある.
 われわれ医師には,今言い分がかなりある.自分の担当患者のために,家族の生活を犠牲にし,いつでも病院に駆けつける用意が身についてしまっている毎日.夜中に携帯が鳴り,タクシー代を自腹で出して病院に向かうことも習慣化してしまっている.自らの生活を削りながら患者のために尽くしている自分.そんな苦労も,患者からの「ありがとうございました」の一言があれば,なんとか乗り切ることができた.自分をつなぎとめておくことができた.今までは.

 しかしながら,どうやら世の中は急速に変わりつつある.患者は医療者に対し,完全な情報と完全なプロセス,そして完全な結果を求め出したように感じる.安全範囲内との認識の中で行っていたディスポーサブル製品の再利用は,某料亭が行った料理の使い回しと同じか,それよりも悪質な行為として世間を騒がせている.患者の回復を願い必死で行った医療職の努力の甲斐なく,一定の確率で起こる患者の不幸な転帰に対し,業務上過失の責任を問われることは,もはや例外的事例ではない.医療を提供する側と医療を受ける側との不信の連鎖は,ここにきて,ますます加速してきているように見える.
 現代の医療者-患者関係の最大の不幸は,お互いに被害者意識が芽生え,その不信を基にしたお互いへの態度と行動が,さらなる不信を増大させるところにある.どこか,お互いがお互いのことを得体の知れぬ敵としてしか認識できないような状況になっているのではないだろうか? 特に医師にとっては,その傾向が顕著であるようにみえる.自分を責め,自分に不利益を与えようとする患者に対して「モンスター」の称号を与えることで,医師の間での被害者意識は心地よく共有できるようになった.原則論的に考えるのであれば,モンスターとは自分たち,もしくは,自分たちが守る対象としているものに対して危害を加える存在である.医療職者にとって守るべきものは国民や患者の健康であり,本来のモンスターは病気や災害であるはずだ.もし,本来守るべき患者の中に一部のモンスターがいるのだとすれば,それはドラキュラに血を吸われたか何かかもしれない.だとすれば,その人たちもまた本来は守るべき存在なのかもしれない.いずれにしろ,守るべき対象の多くが怪物になるということにはどこかに構造的な問題がある.

 2007年から2008年にかけて,医師たちの中での流行語大賞は「医療崩壊」だった.確かに,イメージとして医療は崩壊しているようにみえる.医療崩壊という言葉の最大の功績は,わが国の医療が崩れていっているという認識を多くの人間が認識したこと,そして,なんらかの処方箋が必要であるという問題意識が医療を提供する側,受ける側,そして社会全体の中で生まれたことにある.医療の何が崩壊しているのか? ひとつには,救急医療へのアクセスや,医療提供のための人的リソースの配分が崩壊しつつある.医療を受ける側がもつ,医療への信頼も崩壊しつつあるかもしれない.そして,これからわれわれが自らの問題として問いたいのは,公正性を十分に加味したうえで,患者にとって最善の健康利益を希求する集団であるわれわれ医療従事者の職業責務感,すなわちプロフェッショナリズムも崩壊しつつあるのではないかということである.
 医療が崩壊しつつあるのなら,崩壊を食い止めるのは,もしくは再構築を行うのは誰だろうか? 政治か? 行政か? 司法か? もちろん行政や立法にもがんばってはほしい.しかしながら,この状況が誰のせいであったとしても,この国の医療モデルをよいものにするため第一に動くべきは,患者や国民の健康に対しての責任感をもち,医療提供の当事者である医療専門職であるべきだ.患者と医療者がお互い信頼しあいながら,国民が安心して医療を受けることができる状況を目指すためには,医療提供者側の事情もわかってほしいし,国民に対して,こちらの事情をわかってもらうような努力は必要だと思う.ただ,それと同時に,自分たち医療専門職は,国民の健康利益を第一義に考え動く集団であるということについての信頼を得るための自主的な努力も同時に行わなければ,「わかってほしい」という言葉に対する説得力は小さいであろう.不信の連鎖を断ち切り,もう一度国民の信頼を得るためにわれわれ医療専門職に必要なことは,自らを見つめなおし,変えるべきことは変えるという勇気である.

 専門職と呼ばれる人々は,それぞれの専門分野に関してプロフェッショナリズムをもっているはずである.美容師には美容師の,ソムリエにはソムリエのプロフェッショナリズムがある.専門職の中でも,卓越した技術をもち,世間からの注目を集めている専門家は,その専門職のアイコンという意味において,プロフェッショナリズムを背負って生きていることが多い.イチローは,高いプロフェッショナリズムをもったプレイヤーであることで知られているが,それは,彼の特別な離れ業を指しているのではない.むしろ,練習に取り組む態度,記録への考え方,審判への抗議なども含め,「野球人ならかくあるべし」という姿を積極的に背負い,意識的に観衆に向けて見せることで,野球,ひいてはプロスポーツの魅力や夢を彼は伝えようとしている.
 一方では,高級料亭や大規模な全国チェーンをもつファースト・フード店が起こす不祥事は,食品業界に対する国民全体の不安を生むものとなる.その意味において,専門職におけるプロフェッショナリズムの推進は,自分ひとりの問題としてとらえるよりは,専門職種の集団の問題としてとらえていく必要がある.医療専門職としてのプロフェッショナリズムは,プロスポーツや食品事業のそれとはまた別の特性があるであろう.「健康」という概念は,なんだかちょっとふわふわしてわかりづらい.また,社会保険で成り立っている(こんなに特殊な形態のサービスはほかにない)医療サービスがもつ特有のわかりにくさもあるかもしれない.ただ,こういうわかりにくさも含めたうえ,「われわれ医療専門職は,健康についてこう考え,皆さんの健康を守るためにこういう部分を背負っていきたいと考えている」という宣言を,専門職集団自らが集団として発信し,自らのプロフェッショナリズム推進について努力を行うことが,医療を提供する側と受ける側との相互信頼を回復させる最も本質的な処方箋なのではないだろうか?
 プロフェッショナリズムについて語り,プロフェッショナリズムを推進するための努力を行うことは,自分自身に負担をかける行為にほかならない.医師がこんなに凹んでいる時,さらに自分たちに負担をかけるような作業は,正直気の進むものではない.しかしながら,医療者-患者間の立ち位置が不安定なものになりつつある今だからこそ,医療専門職をリードするべき立場にある医師は,自らの役割と責務に対してガチンコに向き合うべきなのではないか?

 本書は,「プロフェッショナリズム」というとらえどころのない難物に対して,今の医療や,医療者-患者関係に問題意識をもっている医師たちが,なるべく具体的に,かつなるべく現場感覚を大切にしたうえでアプローチを行った試みの軌跡である.教条的なことを書いた本ではない.教条的な文書は医師会の倫理綱領を読めばよい.教条を提示するのみではおそらく行動は変化しない.国民は,立派な教条ではなく,医療専門職の意識と行動の変化を求めているのだ.患者の選択権尊重という名の専門職の責任放棄はあってはならないし,権利を振りかざして公益性を無視する健康資源消費者に対しては毅然とした態度をとるべきであろう.今,医師はどのような存在であるべきか,どのような役割や責任をもつべきか,これらの問いにおそらく普遍的な答えはないが,それでも最大公約数を模索しながら,自らのスタンスに共通認識をもち,よりよい意識と行動を目指す集団に私たちはならなければならない.プロフェッショナリズムについて考えることは,まさに立ち位置,構え方について考えることにほかならない.本書は,結果としての明確な立ち位置を示す表現は少ない.しかし,立ち位置を探し,決めるためのプロセスについては,かなりの紙面を割いた.おそらく,現場における具体的なケースを悶々としながら振り返り,省察することこそが,プロフェッショナリズム推進にとっては重要なプロセスなのだ.
 崩壊があるなら,再構築をするのがプロの役目である.再構築には医師の絶対数ももちろん必要だし,立法や行政による行動の変化も必要であろう.ただ,その中で,再構築に最も必要なものは,医療を受ける側と提供する側が,健康利益をめざすことを共有しあいながら,お互いの義務や責任,そして役割について理解しあう文化を再構築することであると信じている.医師・医療専門職のプロフェッショナリズム推進は,その最初の一手であるとともにその真髄でもある.

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はじめに-今,なぜプロフェッショナリズム?

Part 1 プロフェッショナリズムって何だろう
 プロフェッショナリズム概論
 新ミレニアムにおける医のプロフェッショナリズム(邦訳)
 「米欧合同医師憲章」の読み方とわが国での指針づくり

Part 2 プロフェッショナリズムについて考えてみた
 白衣のポケットの中の物語り
 バカンス旅行の最中に病棟から呼び出された
 患者に不適切な処方箋を出してしまった
 患者にとって不利益になる注射を打ってほしいと強く希望された
 患者が理不尽な要求やクレームをつきつけてきた
 患者・家族から転院のすすめを拒否された
 医学的には不要な検査を患者から強く要求された
 製薬会社MRが弁当,診療ガイドライン本をくれた
 後から訴えられないように過剰な処方をしておいた
 帰国を急ぐ海外駐在員が高熱を出して来院した
 職場で医療ミスが発覚した
 患者・家族が謝礼金をもってきた
 問題のある同僚医師を何とかしてくれといわれた

Part 3 プロフェッショナリズムを究める
 感情とプロフェッショナリズム
 鬼手仏心
 医療制度とプロフェッショナリズム
 臨床倫理とプロフェッショナリズム
 プロフェッショナリズムをどう教えるか
 おわりに-プロフェッショナルで行こう
 ふしぎなポケット-あとがきにかえて

 索引

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プロをめざす医療人に読んでほしい一冊
書評者: 黒川 清 (政策研究大学院大学教授・内科学/日本医療政策機構代表理事)
 この数年,「プロ」という言葉がどこの職業分野でも簡単に使われてきた。しかし,「プロ」とは誰か,その資格のありようは何か,誰が決めるのか,そんなことはお構いなしに安易に使われていたところがある。

 では,「プロ」の職業人のありようとは何か。ひと言で言えば,その集団の一人ひとりが,自らを律し,その集団全体が「内」からも,「外」の社会からも,どれだけ信頼されているか,評価されているか,であろう。グローバル時代になっては,この「内」も「外」も国内だけでないところも,この問題の背景にある。

 このような自覚と意識と,日常的な行動に裏打ちされた職業人の集団をめざす個人の集合であることが「プロフェッショナリズム」ということもできよう。

 医師は,歴史的にも一人ひとりが「プロ」であることを求められてきた職業といえる。しかも,仕事のありようは内科,外科,小児科,脳外科など多岐にわたり,また勤務形態も開業している者,病院勤務や管理職の者,大学で教育や診療,また研究に携わる者もいる。

 しかし,医師以外の人たちからは,いろいろな見方をされる。「Dr.コトー」「ブラックジャック」「神の手」「赤ひげ」などのイメージで受けとられ多様な医師像がある。社会から見れば,多くの人は自分や身内がかかわった身近な経験や,そこから比べてみる一人ひとりが持つ医師,医療機関などの実感と期待するイメージとの乖離もあろう。社会の変化もあって「クレーマー」「モンスター」患者も増える。「医の倫理」に始まり,この10年の「To Err is Human」などの「医療事故」に関する報告書や「医療訴訟」の急増,さらには「医療崩壊」などの背景にはこのような社会からの医師への作られたイメージと実態との乖離もあろう。

 素晴らしい臨床医は後進の育成にも熱心だ。それは自分たちがそのような人たちに遭遇し,育ててもらってきたという潜在的な意識があるからだ。優れた臨床指導医のお手本は多いが,「メジャーリーガー」とも呼ばれる優れた海外の臨床医が知られるような世の中になっているのは,プロ野球と同じグローバルな情報時代が背景にある。世界に通用するお手本が若者たちに見えるようになったのだ。

 しかし,医療も医師も「医師全体」として一般社会の評判が形成され,定着してくる。多くの場合,医師会とか,病院とか,大学の名前などで評判,名声などが定着してくることが多い。その「評判」はどのように形成されてくるのか。これは医療や教育制度が重要な社会基盤的なものである以上,医療制度も医師育成制度も,その社会の文化や価値観,歴史的,経済的背景などを受けたものであり,かなりの部分は個人的な経験の積み重ねから出来上がる。「プロ」といっても,このような枠組みでの「自己」の評価であったことは否定できない。

 テレビ,インターネットなどのメディア情報が双方向に世界に広がり,大勢の人が海外を見る,知る,住む,働く機会が増えれば増えるほど,それぞれの社会の文化や価値観,歴史的,経済的背景などを受けたいろいろな違いに気がつく。これらの背景の違いには考慮しなくても,人の命のことであり,不満や,羨望が生まれる。いわゆるグローバル時代に必然的な社会の変化の一つである。

 どのようにして「プロフェッショナリズム」が育成されるか。これはお題目ではない。医学教育,臨床研修のカリキュラムでもない。これは医師になる過程,医師になってからの臨床教育,研修,診療の現場で,日常的に周りの同僚,先輩医師,指導医,ロールモデル,反面教師,メンターなどと,多くの現場で出会い,感じ取り,仕事を振り返り,成長していくものであろう。とすればできるだけ多くの,多様な医師,指導医と臨床の現場で出会うこと,出会う機会を増やすことが若手育成の基本であろう。従来からの「タテ社会構造」での教育研修だけでは,将来への人材育成には不十分であろう。世界の医学教育研修の趨勢を見ればこのことはすぐにも理解できる。

 グローバルな世界がどんどん進んでいくからこそ,若いときから,多くの現場を知り,交流し,出会いを増やすことで,お手本となる「プロ」に遭遇する機会が増える。共通の目標となる,医師の世界,医療人の世界に「プロフェッショナリズム」が形成されていく。しかも世界から見られてもおかしくないものになっていく。このような医療人が多いことは,開かれた社会の,国民の誇りになる。これが理想であろうが,「プロ」は一人ひとりが理想をめざし,より高みへと研さんするのである。

 本書の編者とその仲間の若手を中心とした医師たちが,重層的に数年の交流,議論,研究,実践,行動を通じて築き上げてきた成果を,「この一冊」としてまとめてくれた。とても素敵な構成と内容に出来上がっている。この多くの方たちの問題意識と活動貢献は,私もよく知っており,いつも敬意を表してきた。この一冊の上梓はとてもうれしい。

 「プロフェッショナリズム」について,「今,なぜプロフェッショナリズム?」に始まる3部構成。Part 1「プロフェッショナリズムって何だろう」では経過や指針について,Part 2「プロフェッショナリズムについて考えてみた」では,日常的に遭遇するようないくつもの場面を提示し,論ずる。「フムフム」とうなずいて,「なるほど」,「でもねえ」と考えさせる例示が多い。Part 3「プロフェッショナリズムを究める」ではいくつかの興味深い考察と,納得させられる行動を促すメッセージがこもっている。

 わかりやすく実践的,医師にも,医学生にも,広く医療人(皆それぞれが「プロ」をめざしているのだから)の皆さんにもぜひ読んでほしい一冊である。「問題を認識する敏感さ,多様性や変化を受け入れる柔軟性,重要なことをやりぬける堅い意志が必要」なのであり,そのような人が周りにいる,遭遇する機会を増やすことも大事であろう。

 なぜ「ポケットの中」なのか? これは読んでのお楽しみとしましょう。
プロフェッショナリズムを現実的に考えさせる巧みさ
書評者: 岩崎 榮 (NPO法人卒後臨床研修評価機構)
 本書は「医師のプロフェッショナリズムを考える」として,医師という職業(プロフェッション)のあり方を問い掛けながら,プロフェッショナリズムは日常診療の中にあることを気付かせる。なぜ自分は医師を続けているのかを自らの問いに答える形で,「医師というプロフェッション」とは何かを明らかにする。それは実証的ともいえる探求に基づいた実に印象深い実践の書となっている。編者の一人尾藤氏は「教条的なことを書いた本ではない」と。「国民は,立派な教条ではなく,医療専門職の意識と行動の変化を求めているのだ」という。

 本書を手にしたとき正直言って,『白衣のポケットの中』という表題に,“それって何なの?”と思ったのも事実である。かつて医学概論の論者であり医学教育者でもあった中川米造さんとの白衣論議で,必ずしも白衣に対しては良い思い出がないからでもある。その中川さんは,「古典的にはプロフェッションとよばれる職業は,医師と法律家と聖職者の三つだけであったが,いずれも中身がわからない職業であるうえに,質の悪いサービスを受けると重大な結果を招くおそれのあるものである。」といっている。とかくプロフェッショナリズムという言葉からはヒポクラテスにまでさかのぼる医療倫理という堅苦しさをイメージさせたからでもある。

 だがそのような読み物となっていないところに本書の特徴がある。読者をして,日常診療の場で身近に起こり得る現実の問題に直面させながら問題解決をしていくプロセスの中で,プロフェッショナリズムを考えさせていくという巧みな執筆手法(むしろ編集といったほうが良いのかもしれない)がとられている。決して難しくもなく,そんなに易しくもなくプロフェッショナリズムが論じられている。

 本書の構成において,Part 1は大生氏の概論に始まり,永山氏による新ミレニアムが紹介され,いわば総論部分である。Part 2は宮崎氏がタイトルしたそのままの白衣のポケットの中からあふれだした医師たちの「物語り」である。それは今日的に医療の現場で起こっている事例をあえて想定問題として提起し問題解決型で考えていく記述となっている。必ずしも医師でなくとも専門職である読者に対して,プロフェッションとしてどう解決するかを問うパートである。目の前にいる患者さんの問題解決のためのヒントが与えられる。

 そしてPart 3は現代医療が抱えているすべての問題に果敢に立ち向かう医師の姿を追い求めて,解決への示唆に富んだ問題がプロフェッショナリズムとの関係性において十分な文献をも紹介しつつ学術的にも究めた論述となっている。最終のコラムは中途に組まれた尾藤氏,錦織氏のものを含め現状の日本の医療の中におけるプロフェッショナリズムが論じられていて興味深い。

 すべての医師をはじめ,ことに臨床研修医の皆さん,そして医師以外の医療職の方々,できれば一般の人たちにも必読の書としてお勧めしたい本である。
プロの医師は,失敗し,悩み,混乱する
書評者: 名郷 直樹 (東京北社会保険病院臨床研修センター長)
 『JIM』 に連載されていたときから注目していた記事が,連載時より格段にバージョンアップして,1冊の本にまとめられた。タイトルは「白衣のポケットの中」,副題が「医師のプロフェッショナリズムを考える」である。そして,本書のコンセプトは,裏表紙に次のフレーズに凝縮されている。

   医師の白衣には2つのポケットがついています.
   ひとつは,(中略)「確実性」のポケット.
   もうひとつは,(中略)「不確実性」のポケット.
    (中略)
   2つのポケットの中から飛び出した
   医師たちの「悩ましき日常」をめぐる冒険を
   どうぞお読みください.

 医師である私は,本書を読んでとても勇気づけられる。プロといわれても,医師だって生身の人間だ。むしろムカつくことが多い仕事かもしれない。そういう医師の現状が,「バカンス旅行の最中に病棟から呼び出された」というような,誰もが経験したことがある,いくつかの秀逸な例で語られる。さらにその現状を受けて,プロを究めるための対応策が,「プロフェッショナリズムを究める」という形で語られる。

 本書で一貫して語られるのは,技術合理モデルに基づくようなサイボーグ的なプロではない。むしろ,失敗し,悩み,混乱するが,それでもなお患者の問題に立ち向かおうとする,どこにでもいる医師像としてのプロである。失敗するプロ,悩むプロ,混乱するプロ。こう書くと,それはプロなのか,という突っ込みが入るだろう。しかし,そう思う人ほど,本書を手に取るべきではないだろうか。医師のプロフェッショナリズムは,失敗し,悩み,混乱する中にしか存在しない。

 本書は医師にとってとても読み応えがある。しかし患者にとってはどうだろうか。プロの医師というのは,こんなんだけどと,本書の内容を患者に紹介したときに,患者はどう思うだろうか。「プロの医師って,けっこう素人っぽいですね」,などと患者に言われそうでちょっと怖い。そうした問題が,本書の先にある,さらに大きな問題だろう。

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