技法以前
べてるの家のつくりかた
べてるの家の「スタッフ用虎の巻」、大公開!
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「幻覚&妄想大会」をはじめとする掟破りのイベントはどんな思考回路から生まれたのか? べてるの家のような場をつくるには、専門家はどう振る舞えばよいのか? 「当事者の時代」に専門家が〈できること〉と〈してはいけないこと〉を明らかにした、かつてない実践的「非」援助論。
シリーズ | シリーズ ケアをひらく |
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著 | 向谷地 生良 |
発行 | 2009年11月判型:A5頁:252 |
ISBN | 978-4-260-00954-6 |
定価 | 2,200円 (本体2,000円+税) |
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●『シリーズ ケアをひらく』が第73回毎日出版文化賞(企画部門)受賞!
第73回毎日出版文化賞(主催:毎日新聞社)が2019年11月3日に発表となり、『シリーズ ケアをひらく』が「企画部門」に選出されました。同賞は1947年に創設され、毎年優れた著作物や出版活動を顕彰するもので、「文学・芸術部門」「人文・社会部門」「自然科学部門」「企画部門」の4部門ごとに選出されます。同賞の詳細情報はこちら(毎日新聞社ウェブサイトへ)。
●動画配信中!
著者・向谷地生良氏からのメッセージです(上野千鶴子氏 特別出演)。
序文
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かつて浦河では、統合失調症などをもった人たちは“七病棟の人”と呼ばれた。この地域で暮らすなかでもっとも惨めなことは、浦河赤十字病院の精神科病棟(七病棟)に入ることといわれた時代である。浦河べてるの家(以下、べてる)のルーツは、そこに入院経験のある統合失調症などをもつ若者たちが今から三〇年以上も前にはじめた自助活動にある。
べてるでは、精神障害というエピソードに凝縮された「人間が生きること」をめぐる悲喜こもごもをユニークな側面から切り取り、活字と映像に託し世に発信してきた。いまや、べてるが直接・間接に制作にかかわった出版物は映像も含めて二〇点を超え、今年(二〇〇九年度)だけでも五~六点が予定されている。
そのエネルギーの源は、なんといっても、べてるは「失敗の宝庫」だからである。私自身もこの領域で仕事をするなかで、決して味わいたくないと思われる事柄のほとんどを経験しつくしてきたという“自負心”がある。べてるの歴史も、「問題を見出し、それを解決し、克服してきた歩み」では決してない。常にリスクを先取りし、失敗しながら、その失敗のなかから新たなリスクを見出すという日々を積み重ねてきたのである。
その「順調に問題だらけ」という終わりのない日常を生き抜くために、べてるでは「過疎も捨てたもんじゃない」とか「幻聴さん、いらっしゃい」といった言葉の数々と、さまざまな暮らし方を編み出してきた。それは人のもつ猥雑(わいざつ)さと優しさ、人生の深淵と不条理のなかを、ワイワイガヤガヤと賑やかに生きるなかで見出された“庶民の知恵”でもある。その成果のひとつが、浦河からはじまった「当事者研究」という営みだった。
「当事者研究」に象徴されるような、精神障害をもつ人たちのユニークかつ混沌とした“経験”に潜む可能性に着目すること││これがソーシャルワーカーとしての私のスタンスである。べてるを紹介するにあたって、当事者自身の経験に力点をおくことを心掛けてきたのはそのためである。そのなかでときおり問われたのが、「私(向谷地)は何をしたか」ということだった。
べてるから発信された「非援助論」への共感が広まる一方で、非援助とは「何もしないこと」という一面的な理解がなされるようにもなってきた。しかし、たとえば 『べてるの家の「非」援助論』 (医学書院、二〇〇二年)を丹念に読んでいただくとわかるように、「非援助の援助」とは、ゆっくりであるが実に手間暇をかけた関係づくりのなかで見出されるものなのである。
それは、本書の最後に紹介したリンゴ農家、木村秋則さんの無農薬・無肥料のリンゴ栽培までの苦闘に似ている。「私が育てるのではない。私は見守るだけ」という眼差しの背後には、鋭い観察力と「何をしなければいけないか」ではなく「何をしてはいけないか」という発想がある。
本書『技法以前』は、一人のソーシャルワーカーとしての私の実践を、具体的な場面をまじえて著したものである。
私も、「何をしてはいけないか」を考えながら浦河で日々を重ねてきた。木村さんがリンゴと土の力を信じるように、私も〈当事者〉と〈場〉のもつ可能性を信じているからである。あらゆる問題解消の糸口は、「問題自身」と、「問題が起きている場」のなかに備えられている。それを信じることができないままに、問題解決の切り口をほかに探そうとするところに行き詰まりが生じるのである。
援助者の世界とは不思議なもので、この三〇年を振り返っても、精神障害をめぐる治療法や支援技法が、数年おきに一種の流行のように立ち現れてきた。多くの関係者が時代に乗り遅れまいと研修会に足を運ぶが、やがて時間とともに忘れられていく。さながら流行と廃れを繰り返す「ダイエット法」にも似ている。
しかし、多くの当事者は「人間として自分にぶつかってきてくれた感覚」や「同じ人間だと実感できる現実感」こそを、回復を促す条件として口にする。その大切な出会いを生み出すものは、おそらく「技法以前」にある何かである。それが一体どんな姿をしているのか、本書を通して探っていきたい。
目次
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第1章 形から入れ!
1 援助とは振る舞いである
2 「自分を助けること」を助ける
第2章 専門家に何ができるか
1 「当事者が主人公」の時代
2 「多材」と「多剤」の限界
3 二つの無力
第3章 信じるということ
1 根拠なく一方的に信じてしまう
2 私はなぜ信じることができるのか
3 突撃訪問と実験
4 心配も期待もしない信じ方
5 「現聴」にもがく当事者を信じる
第4章 「聴かない」ことの力
1 哲学とケア
2 話を聴いてくれない精神科医
3 「聴かない」という聴き方
4 開かれた聴き方へ
5 「一緒に考える」ということ
第5章 人と問題を分ける
1 生きる知恵としての「外在化」
2 軽くていい、軽いからいい
3 ナラティヴ・アプローチとの出会い
第6章 病識より問題意識
1 妄想は身体の知恵
2 困っていればOKだ
第7章 プライバシー、何が問題か
1 隠したいのは誰?
2 サトラレはサトラセたい
3 エンパワメントとしての「弱さの情報公開」
第8章 質より量の“非”援助論
1 キーワードは「仲間」
2 つながれるなら死んでもいい
3 援助における質と量
4 量的世界への媒介者
終章 「脳」から「農」へ
鼎談 リンゴのストレングスモデル
木村秋則(リンゴ農家)
川村敏明(浦河赤十字病院精神神経科部長)
向谷地生良
文献
あとがき
書評
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「当事者」不在の援助は本当の課題を解決し得ないケアの本質に迫るドキュメント(雑誌『看護教育』より)
書評者:長谷川 直人(山形大学医学部看護学科)
回復を促す援助者の雰囲気・資質がある
「当事者自身が“自分を助けること”を助ける」─私は看護師時代を振り返り,その理念を納得するだけで,ケアできていたつもりになっていたのかもしれないと切に感じた。
治療の主役は患者自身であり,看護師の役割はその支援であるという考え方に異論は少ないと思う。今まで患者自身の治る力を支援するためにさまざまな看護技術が開発されてきた。しかしながら,その通りに実践してみてもなぜか成果があがらない。同じことをやっているはずなのに,なぜかあの人がケアすると患者が変わる,ということを体験したことはないだろうか。言葉で表現するのは難しいが,患者が自信を取り戻し,回復を促すための援助者の雰囲気,資質のようなものがある。著者はそれが何であるかを考えさせてくれる。
本書では,著者がソーシャルワーカーとして精神障害等をかかえる当事者の方々を援助された具体的な事例や場面を紹介してくれている。読むことを通して著者が当事者に関わっている様子が頭に浮かんでくる。私は精神領域には疎いが,エピソードを拝見すると,どの事例も対応に頭を悩ませるものばかりだと思う。しかし,どの事例からも問題に取り組む際の苦労は感じられるが,結果として暗さはない。むしろその場の喜びや楽しさが伝わってくる。そこには当事者が自分の言葉で自分の体験を語り,自分で考え,自分で行動しようとする姿がある。
人間本来の治る力を信じる
ある当事者は,コンピュータゲームの中から「きみは全米プロバスケットリーグにスカウトされたよ!」と誘われているので,荷物を持って空港で保護されることを繰り返していた。著者は前向きに話題に乗り「採用が決まったのはすごい!」と声をかける。そこで返ってきた言葉は「本当は自信がないのと,飛行機の乗り方もわからないので行きたくないんです!」であった。その後,著者は一緒に断り方を考え,当事者は見事に断ることができたのである。このエピソードには続きがあるのだが,最も笑ってしまったところなので,ここでの紹介は控えさせていただきたい。
本書を通して,誰しもが持っている人間本来の病気を治す力の強大さ,そしてわれわれ医療職が,人が治ろうとする過程に携われることの素晴らしさをあらためて認識することができた。
私は大学で教鞭を振るわせてもらっているが,教育現場に置き換えると,学生が当事者,教員は援助者であろう。援助者としてはまだまだ駆け出しである。著者がワーカーとなる卒業生に現場の心構えとして「形から入れ」と声をかけたように,早速,形から入ってみたいと思う。
(『看護教育』2010年4月号掲載)
「?」から「!」へ 「ケアの原点」に帰れる本
書評者:中島 美津子(健貢会東京病院副院長)
虫かごの虫と自然の虫
唐突ではあるが,本書を読み終わり思い当たった出来事がある。私の幼少時代,大きな家庭菜園をひとり切り盛りしていた祖母のことだ。私は作業をしている彼女のそばに座り,よくお話をしていた。祖母はいつも,「感謝の気持ちを忘れたら,なぁ~んにも育たん」と言って,ブロッコリーについた虫に何かぶつぶつと話しかけながら,割り箸でつまみ出していた。虫をただ気味悪がる当時の私には,言っていることがよくわからなかったが,そのときの祖母の温かい笑みはとても印象に残っている。
大人になり看護の世界に入ってからというもの,臨床現場でのOJTが,そして大学での看護教育現場では,看護学生が,何故か虫かごの中にいるような閉塞感を覚えた。そんな思いを胸に抱いていたある時,とある研究会で,農学博士のTさんと出会った。穏やかな口調,そして温かく真剣な眼差し。いままでの思いから直観的に,「農業の営みって,看護の営みそのものですよね」とお話ししたところ,「おもしろい発想ですね」と大きくうなずいてくれた。それ以来Tさんとは農業と看護の共通性についてよく話をするようになり,とてもお世話になっている。
「ケア」と「農と脳」の重なり
なぜこのような話を思い出したかというと,著者の向谷地生良氏が,本書でケアと農の共通点について,いくつか言及しているからだ。
向谷地氏の人間としての「ケアの原点」に戻る活動をつづった本書は,改めてヒトはさまざまな他者との交わり――さまざまな要素を含む土壌のようなもので,一見雑草だらけの荒地のようであるが,そこには一つ一つの生き物の営みとそれを他者の経験として認めている立派な生態系がある――があって初めて,自己(ひとつひとつの生き物)を認識できるのだという土壌(多様な他者)の大切さを,実にやさしく書いている。
看護師は何をしすぎ,何をしてこなかったのか
本書では,今の現場で忘れ去られている真の意味での「当事者」意識を取り上げている。向谷地氏は「医学=囲学=囲う,看護=管護=管理,福祉=服祉=服従という言葉に象徴される精神医療の構造とそれを支える社会をいかにかえていくか」「当事者を一方的に支配したり,保護・管理することは,当事者から『苦労という経験』を奪い取ること」といった,あくまでも当事者が「決して解決を求めているのではない。現実の生きづらさに対処するための立ち位置を探している」という認識のもと,驕れる医療者の誘惑をいかに断ち切るかということについて語っている。
私が目を奪われたのは,まずい対応で治療困難となり,べてるの家に来た当事者たちをめぐってこれまでの常識を覆すようなべてるの家でのかかわりが語られた部分である。
著者は彼らの生き方を表現する中で,専門家が当事者を「根拠なく信じる」ことの大切さやこれまでの医療者の誤った思い込みや勘違いなど,「看護師は何をしすぎ,何をしてこなかったのか」についてやんわりと触れていく。
本書は,精神医療関係者のみならず,患者とかかわるすべての医療者に「ケアの原点」を再考させるきっかけとなるであろう。「良心的な精神科医ほど多剤大量に走る」「ケアの現場は聴きすぎていた」など,言葉だけでは「?」と思ってしまうような見出しが並び,どこから読んでもあっという間に引き込まれ,読後には必ず「ストンと胸に落ちる感」がある。
感動という言葉を使ってしまえば,あまりにも淡白だ。すっきり,いや,ほっとする,そのうえドキドキする,いったいなんと言い表せばよいのか。これこそ,今,看護の現場に不足していることを言い当てていると確信した。
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