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DVD+BOOK 認知行動療法、べてる式。

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心の中を見つめない。原因を探さない。にもかかわらず笑う--べてるの家のそんな活動に、認知行動療法家は目を奪われた! 世界のスタンダードである認知行動療法と<べてる>の意外で幸福なコラボレーション。「世界最先端の実践」「新時代到来を告げる快著」「元気が出る認知行動療法」と話題騒然のDVDブック。「自助の援助」を目指す、すべての援助職に! ●動画配信中! DVDより一部をご紹介します。
伊藤 絵美 / 向谷地 生良
発行 2007年09月判型:四六変頁:240
ISBN 978-4-260-00527-2
定価 5,500円 (本体5,000円+税)

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長いまえがき-私たち認知行動療法家がべてるに興味を持つ理由
伊藤絵美

 私(伊藤)は認知行動療法を専門とする臨床心理士であり、認知行動療法をはじめとする心理学の研究者の端くれでもある。私は一個人として「浦河べてるの家」(以下「べてる」あるいは「べてるの家」と表記)のあり方や活動に興味があるのと同時に、現場で臨床実践に携わる一人の認知行動療法家として、そして認知行動療法にかかわるさまざまな研究活動に従事する一人の心理学者として、並々ならぬ関心をべてるに抱いている。
 私がどのようにしてべてるに興味を惹かれ、べてるとおつきあいさせてもらうようになったか、その経緯を書くことがそのまま本書の紹介にもなると思われるため、以下にまとめてみる(なお、認知行動療法については第1章で具体的に紹介する)。

 私は臨床心理士として、長らく精神科診療所にて個人療法や家族療法を担当していた時期がある。また同じ診療所にて精神科デイケアを立ち上げることになり、その立ち上げからプログラム運営まで全面的にデイケアの仕事にもかかわっていた時期がある。私は学生時代から認知心理学や認知行動療法を中心に勉強や研究を続けていたので、臨床現場でも当然のように認知行動療法を志向して心理療法やデイケア運営を試みたのであるが、私が現場で仕事を始めたころの日本は、認知行動療法を現場で実践するためのトレーニング環境がまったく整っていなかった。新米心理士の私にとってそれはたいへん心細い現実であったが、現場で試行錯誤しているうちに、はっきりと気づいたことがあった。それは「迷ったら当事者に相談すればよい」ということである。

 認知行動療法家として多少経験を積んだ今、私は初心者の方々のスーパーバイズを行うことがあるが、初心者のなかには「こんなことを言ったら、自分が認知行動療法家として未熟だと、クライアントに思われて(バレて?)しまうのではないだろうか」と心配する人がいる。
 しかし初心者のころの私はなぜかそのような心配をすることがなく(単にプライドがなかっただけかもしれない)、また日常的に相談できるスーパーバイザーが身近にいなかったこともあり(単にスーパーバイザーを探し出す努力が足りなかっただけかもしれない)、セッションの進め方に迷いが出た場合、まずその迷いを紙に書き出し、その紙をクライアントに見せて、「○○について、私はこういう理由から、こんなふうに迷っているんだけど、△△さん(クライアント)はどう思いますか?」「○○についてどうしたらいいか、考えれば考えるほど、よくわからなくなってきちゃったんだけど、△△さんの考えを聞かせていただけますか?」などと、クライアント本人に相談することにした。自分が未熟であると思われる心配よりも、未熟な自分が独りよがりな認知行動療法をクライアントに押し付けてしまうことのほうが、よほど心配だったからである。
 すると自分のことを相談されているのだから当たり前と言えば当たり前なのであるが、クライアントは皆、いちおう“専門家”の立場である私から相談されて、「専門家のくせにクライアントである自分に相談をするなんて」と反発することはまったくなく、皆さん快く、むしろ積極的に私からの相談に乗ってくれるのであった。
 認知行動療法では“協同的実証主義”という態度を重視する。また私は自分の研究を通じて、「認知行動療法とはセラピストとクライアントによる“協同的問題解決”である」と定式化しているが、ではそれを現実の臨床場面でどう実現するか、ということについて、当時、具体的なことが書かれてあるマニュアルはほとんどなかったように思う。だからこそ私は上記のようにクライアントに直接相談することにしたのであるが、やってみるとそれは非常に手応えがあり、クライアントと私はまさに対等な立場で協力しながら問題解決に取り組んでいる、という実感を持つことができた。
 そして華々しい成果を上げるわけではないが、クライアントと一緒に「ああでもない、こうでもない」と試行錯誤しているうちに、どこか落としどころが見つかり、「まあ、こんな感じでやっていけそうだ」という見通しを共有したうえで、ほどほどに満足してケースを終結にできるということもわかってきた。

 デイケアの運営にしても同じである。デイケアでの勤務経験のまったくない私が、デイケアを立ち上げ、運営する責任者になってしまったのであるから(しかも他のスタッフも皆デイケア初心者であった!)、それこそ“精神科の患者歴”の長いメンバーに相談し、メンバー主体でプログラムを組んだり、プログラムを実践したりするのが当然のことと思われ、実際にそのようにしたところ、それで何の問題もなく、非常に生き生きとした日常がデイケアで展開されていたように思われる(もちろんちょっとした事件は日常茶飯事であったが)。

 精神科デイケアで日々接するメンバーには統合失調症の方が多く、私は全メンバーの受入れ面接を担当していたのであるが、統合失調症の方々との面接のなかで病気について聴取すると、ごく当たり前のようにこれまでに体験した、あるいは今現在体験中の妄想や幻覚の話が出てきた。また私はデイケアのメンバーと散歩に出かけるのが大好きだったのだが、散歩中の世間話のなかで自分の幻覚や妄想について話をするメンバーも多かった。
 そこで私は「あれっ?」と思い始めた。それは、当時(今でもそうかもしれないが)私の受けた臨床心理学の教育では「統合失調症のクライアントの妄想や幻覚についての話は、症状を増悪させるから聞いてはいけない」とされていたからである。
 しかし「聞いてはいけない」も何も、デイケアという一種の日常のなかで、メンバーは自らそれらについて語るのである。私はただそれに耳を傾けるだけであったが、それでメンバーの症状が増悪することもなく、また、彼らの妄想や幻覚の世界が実に豊かであること、またそれぞれが自分のそのような症状に対してそれぞれのつきあい方をしていることが理解され、それは私にとって非常に新鮮な体験であったと同時に、当時の臨床心理学における妄想や幻覚の扱い方に疑問を抱くようになるきっかけの一つにもなった。

 以上をまとめると、セラピストは認知行動療法を進めるにあたって“協同的問題解決”の理念にのっとりクライアント当人と相談しながら進めることができること、統合失調症のデイケアメンバーが幻覚や妄想について自発的に話す場合、その話をデイケアスタッフが聞いても何か大問題が起きるわけではないこと――この2点が、精神科診療所に勤務している間に私が学んだ大きなことであった。
 そして当時の私は相変わらず正式なスーパーバイザーが不在のまま、認知行動療法を自ら学びながら実践に生かし、それをさらに自らの学びに返す、という作業を一人続けていたが、そのなかで、たとえば《ソクラテス式質問法に基づく双方向的コミュニケーション》《全体像のアセスメント》《外在化とその共有》《メタ認知機能の強化》《セッションの構造化》《コーピングレパートリーの拡大》《日常生活の重視》といったことが(これらについては後ほど具体的に述べる)、認知行動療法の個々の技法よりはるかに重要であることを痛感するようになった。
 今挙げたこれらのことは、すべて認知行動療法を通じてクライアントの自助を援助するための個々の“しかけ”である。このようなしかけが効いて初めて、認知再構成法や問題解決法、曝露法やリラクセーション法など、認知行動療法でよく用いられる数々の技法が役に立つ。逆に、これらのしかけがきちんとしかけられていないと、いくら技法を使ってもクライアントの役に立たない。それどころか逆効果になる場合もある。このようなことを学びつつ現場での実践を重ねながら、私なりの“認知行動療法像”のようなものが少しずつ固められていったのである。

 さて、ここで「べてる」である。
 その後私は精神科診療所の常勤職を辞してある民間企業に就職し、認知行動療法やストレス心理学の理論と方法に基づいて、従業員のメンタルヘルスを支援する仕事をすることになった。たまたまちょうどそのころ、新聞記事でべてるのことを知り、非常に興味を持ち、数々のべてる本を読むようにもなった。驚いたことに、上記の私の“認知行動療法像”とべてるの活動が、私にはぴったりと重なるように思われた。人が人として、自分を助け、他者と助け合って生きていくための数々のしかけが、べてるにはたくさんあるように思われたのである。また、べてるにおける妄想や幻覚の扱い方も、上記の私の疑問に対する一つの答えであるように思われた。
 一方、企業に勤めるビジネスマンやビジネスウーマン、すなわち“健常者”といわれる人々を対象に仕事をし、彼ら彼女らの抱える悩みや問題を共有させてもらううちに、その悩みや問題は、精神科を受診するクライアントたちと何ら変わりはないこと、それどころかべてる本に出てくる“精神病を抱えて苦労している人々”と、ビジネスの第一線でしのぎを削っている人々が、本質的に同じ存在であることを、理屈ではうまく言えないのであるが、なぜか私の中では深く実感されたのである。「腑に落ちる」という表現が一番ぴったりくるであろうか。
 後づけになるが、それが第1章で述べるヴィクトール・フランクルの「われわれが人生の意味を問うのではなくて、われわれ自身が問われた者として体験されるのである」[フランクル1961]、「人生が私たちに出す問いは、たんに、そのときどきに応じてちがったものになるだけではありません。その人に応じてもまたちがったものになるのです。人生が出す問いは、瞬間瞬間、その人その人によって、まったくちがっています」[フランクル1993]ということなのだろう、と今の私は考えている。

 私は「現場大好き人間」なので、べてるの現場をこの目でぜひ見てみたい、と強く願うようになった。べてるの講演会が東京などで頻繁に開催されているのは知っていたが、べてるの活動が日々繰り広げられている現場、すなわち北海道の浦河まで出かけていって、上の私の実感が本当に合っているかどうか、確かめたいと強く願っていた。幸か不幸か2003年の夏、私は上記の民間企業を辞めることになり、失業してしまった。そこで「これはチャンスだ」と考え、浦河まで行き、2日間にかけてべてるを見学させてもらうことになった。

 当時、見学から戻って作成したレポートおよび2005年に再度べてるを見学した際に作成したレポートは、付録として本書の最後に掲載したので具体的にはそちらを参照していただきたいが、数日間のわずかな滞在ではあれ、べてるの現場をこの目で見て、また数々のミーティングやSSTのセッションに参加させてもらって、上の私の実感は間違っていないこと、いや間違っていないどころか、べてるの活動には認知行動療法のエッセンスが詰まっていること、しかも私たちが実践する認知行動療法よりはるかに豊かで楽しい実践が繰り広げられていることを知り、私は心から感動し、かつ大いにわくわくしてきた。
 私たちの認知行動療法をもっと豊かにするためのヒントをべてるからいっぱいもらえそうな気がした。たとえば向谷地悦子さんがリーダーを務めたSSTを見学させてもらったが、セッションの構造を守りつつ、むしろ構造を“しかけ”として豊かに生かした形で、本当に楽しくかつ実のあるSSTが展開されているのを見て、「認知行動療法を楽しくやるって、こういうことなんだな」と実感したのを今でも鮮明に覚えている。

 また、2003年の見学の際、私は今は亡き林園子さんに出会い、「当事者研究」について詳しく教えてもらう機会を得た。第1章および第2章で述べるように、当事者研究はまさに認知行動療法のエッセンスであると私は考えているが、それは林さんから当事者研究について教えていただいたことがきっかけになっている。当事者研究をライフワークにしていた林さんから直接お話を聞けたことは、私にとっては幸運だったとしか言いようがない。そう思うと、2003年の夏に自分が失業したこと自体が幸運に思えてくるのだから、不思議というか、まさに「べてる」的である。
 また2003年の初訪問の際、荻野仁さんから、「全国からべてるに入りたい、べてるに入るにはどうしたらいいか」という問合せがひっきりなしにあるが、浦河町およびべてるのキャパシティからそのすべてを受け入れることはできず、断り続けている状況だというお話を聞いた。
 そこで私が考えたのは、「べてる的活動は、この浦河でなければ、向谷地さんでなければ、べてるの当事者でなければできないものではないはずだ。誰もが自分の現場でべてる的活動ができれば、どこでもべてる的な場になり得るはずだ。しかしべてる的活動を、どういう考え方に基づき、どういうやり方でやったらいいか、それを示さなければ、『べてる的にやればよいのだ』と言われても、当事者や周囲の人は困ってしまうだろう。私たちの専門とする認知行動療法が役立つとしたら、この点においてなのではなかろうか」ということであった。
 つまり、べてるのあり方や活動を、認知行動療法という視点から定式化することで、“べてる的”とはどういうことかを具体的に提示することができ、べてる的活動を目指す方々のお役に立てるのではないかと考えたのである。また、そのような視点からべてるについて考えることで、私たちの実践する認知行動療法がもっと豊かなものになるのではないかとも考えた。

 格好つけて言えば、それは「べてると認知行動療法のインタフェース」ということになるが、とにかく私はずっとこのテーマについてあれこれと考え続けていた。そして2004年4月に「洗足ストレスコーピング・サポートオフィス」という認知行動療法を専門とする民間機関を立ち上げた際、スタッフに呼びかけて「べてるプロジェクト」を結成した。
 またその後もべてる祭りに参加したり、再度浦河までフィールドワークに出かけたりもした。2005年に訪問した際には、図々しくも向谷地さんに時間をとってもらって話をうかがい、また私たちの考えをお伝えする機会を得た。それどころか川村先生にもインタビューさせてもらった。
 あらためて見学したべてるの活動は、それを認知行動療法の視点から定式化することで、私たちがべてる的であろうとする人々の役に立てるのではないかと確信した。そのための足がかりとして、2006年11月に福岡県で開催された日本心理学会第70回大会にて、《「浦河べてるの家」を研究する (1):「当事者研究」と認知行動療法との接点》というワークショップを企画し、私たちの「べてるプロジェクト」の趣旨を説明するとともに、吉野雅子さんにご自身の当事者研究について話題提供をしていただき、さらに向谷地生良さんに指定討論をしていただいた。
 そしてその後も向谷地生良さん、向谷地宣明さん、浦河赤十字病院の川村先生、医学書院の白石さんと議論を続けるなかで、「べてると認知行動療法のインタフェース」について具体的に論を進めていった。こうしてまとめられたのが本書である。

 本書の構成について説明する。
 第1章では「べてると認知行動療法のインタフェース」の全体像について伊藤が概説する。まず、認知行動療法について事例を交えて簡単に紹介したうえで、べてると認知行動療法のインタフェースについての全体像を概説し、べてると認知行動療法に共通する“問題志向”という理念について論じる。なお、べてるの活動についてはここでは詳細に説明しない。読者の多くはべてるの活動についてよくご存知であると思われるし、あるいはそうでない方には、べてるの家が作成した書物やビデオを見ていただくほうがはるかに役立つと思われるからである。
 第2章以降は各論である。第2章では引き続き伊藤が、べてるの当事者研究について認知行動療法のアセスメントに関連づけて論じる。第3章では山本真規子が、べてるのSSTについて、主に認知行動療法の問題解決法に関連づけて論じる。第4章では森本幸子が、べてるにおける幻覚や妄想の扱い方と、統合失調症の認知行動療法について比較検討する。第5章では吉村由未が、認知行動療法においてクライアントの日常生活をセッションに組み込むための重要なしかけであるホームワーク(宿題)と、べてるの活動が展開されている現場(すなわちべてるの日常)とを比較検討する。第6章では津高京子が、認知行動療法におけるセラピスト-クライアント間のコミュニケーションのあり方と、べてるにおけるコミュニケーションのあり方について比較検討する。
 本書が、べてる的活動および認知行動療法に関心を持つすべての方々のお役に立てれば幸いである。
 最後に、本書の執筆および取りまとめにあたり、きめ細かくおつきあいくださった医学書院の白石正明氏に対し、心から感謝の意を表したい。ありがとうございました。

 2007年7月吉日
 伊藤絵美

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■DVD目次(95分)

I 「べてるの家」のSST
II 服部洋子さんのセッション-SSTバラバラの会
III 「べてるの家」の当事者研究
IV 沖田操さんのセッション-SSTこれデイーの会
V 横浜市鶴見区での講演


■テキスト目次(240ページ)

長いまえがき-私たち認知行動療法家がべてるに興味を持つ理由(伊藤絵美)
「浦河べてるの家」とは

第1部 「べてるの家」と認知行動療法
 第1章 「べてるの家」と認知行動療法のインタフェース
 第2章 アセスメントと当事者研究
 第3章 問題解決法とべてるのSST
 第4章 幻覚・妄想へのアプローチ
 第5章 セッションと日常性
 第6章 コミュニケーション

第2部 読むDVD-紙上完全再録

付録
 「べてるの家」訪問レポートその1[2003.8.25~26]
 「べてるの家」訪問レポートその2[2005.9.27~29]

あとがきにかえて-向谷地生良氏にきく

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人ってすごい,人っておもしろい (雑誌『看護学雑誌』より)
書評者: 原 千晴 (北海道大学病院看護師・糖尿病療養指導士)
◆認知行動療法は「魔法のツール」?

 精神科領域に従事していないものにとって,「認知行動療法」とは何やら魔法のツールのような響きがある.筆者は糖尿病療養指導士(CDE)だが,糖尿病のような慢性疾患を持ちつつ生きていく生活は,多かれ少なかれ「やってはいけないこと」「やらなくてはならないこと」の連続であり,患者も医療者も「わかっちゃいるけどやめられない」「やらなきゃいけないのにできない」の壁にぶつかっては弾き飛ばされる毎日である.

 決められた薬を飲まなくちゃ,定期受診をしなくっちゃ,タバコを止めなきゃ,ケーキを減らして,お酒も控えめ,あ,運動もしないとね,ストレスも溜めこまないで……あらためて書き出してみると,今の世の中,健康な人でもそんな生活は送れないのは明らかだ.だから患者さんの気持ちはわかるけど,それが「できる!」にならないと,患者さんの病気は悪くなってしまう.そんなジレンマを抱えながら日夜苦戦を強いられている看護師は私に限らず,さまざまな領域におられるはずだ.そんななか,物事のとらえ方「認知」と対処方法「行動」にアプローチして変容を促すテクニックである「認知行動療法」の存在を知れば,そのエッセンスだけでも身につけたい,と思うのが自然だ.「認知行動療法」になにか私の知らない秘訣があるのじゃないか,と

 『認知行動療法,べてる式』は,北海道の精神障害者の自助組織である「べてるの家」における実践を中心に,認知行動療法の実際を紹介した本だ.読んでみると,どうやらそんな甘いものじゃない,ということはすぐにわかる.魔法のツールどころか,臨床心理の専門家が四苦八苦しながらやっている.私は精神科も心理療法についてもまったくの素人で,フロイトとユングの違いさえわかっていないのだが,読みすすめていくうちに,待てよ? これは自分たちCDEがやっていること(やろうとしていること)と同じなんじゃないか,という気がしてきた.

◆認知行動療法と,CDEの実践

 まず,「認知行動療法は援助者と当事者による協同的問題解決の試みである」という.CDEの実践も(できている,できてないはともかく),同じだ.生活習慣を変えるのは本人であり,援助者は協同して解決の道を模索する,少なくともそういう心がけでやってきた.次に,「最初に問題を明確化することが大事」とある.「問題志向」と表現されているが,解決を試みる前に問題を理解することが重要であり「今ここにある問題とは,いったいどのようなものなのか」という問いを立て,それを具体化していくのだという.私は,糖尿病患者さんと面談をする際には「糖尿病のある生活で今一番困っていることは何ですか?」という質問を最初に行なっている.さらに,その困っていることに対する感情を聴いたり,その行動に対する利益と不利益を聴く,といったことを日常的に行なっている.私のこうした面接のやり方は,本書を見ると,認知行動療法で多用されるコミュニケーション技法「ソクラテス式質問法」の,「当事者の自問を促し,さまざまな気づきが生じるようなやりとり」につながっていると感じた.

 もちろん,こうした類似点は印象に過ぎないのだろうけど,ほかにも「似ているなあ」と感じることは多くあった.たとえば,アセスメントされた内容をアセスメントシートやコーピングシートを使って外在化するという手法.本書では「ちょうどよいとっかかり」とか「ねた」と呼んでいておもしろいと思ったが,これは筆者がよく糖尿病の面接で用いているPAID(Problem Areas in Diabetes Survey;ジョスリン糖尿病センターが開発した質問紙)に近いかもしれない.ただ,認知行動療法で使われているものはPAIDよりももっと具体的に問題を理解する過程が,当事者だけでなく援助者にもよくわかるように作られている.問題を理解する過程を形に残しておくことを,本書では「地図」とも呼んでいたが,援助者・患者が道に迷わないためには必要だと感じた.CDEも,こういったものを活用したほうがよいと思う.

 さて,ここまできてやっと問題解決への扉をたたくことができる.「問題志向」から「解決志向」に移り,コーピングと呼ばれる「じゃあ,どうすればいいんだろう」を考え,SST(Social Skills Training:生活技能訓練)といった技法を取り入れていく.糖尿病患者教育でいえばアクションプランを立てる段階といえるだろう.小さくてもできる目標を立て,自尊感情を上げていく.できなかったら個人を攻めず,プランを見直していくことを繰り返していく.

 ここからのべてるの取り組みはすごいと思った.問題を,「生きていくうえでの苦労・課題」と位置づけ,「三度の飯よりミーティング」のモットー通り,仲間で問題解決に取り組んでいる.「幻聴さん」や「お客さん」といったネーミングに限らず,ユーモアを忘れず相手の良いところを見つけていく.DVDからは笑顔やパワーがあふれ出ており(それでも,「1週間後に入院した」なんていうテロップが出ると,そう簡単にはいかないのだなと思うが),ピアサポートというのは本当にすごい力を持っているのだと感心した.集団教育のときに,結局かき回されておしまい,なんてことの多い私は反省しきりである.場面設定をして「練習してみる」,宿題を実生活で「やってみる」,結果を発表して次にどうするのかみんなで考え,自分で決める.その過程をさらに「当事者研究」として発表する.付属のDVDをみると文章を読んだだけではつかめない,認知行動療法の基本と発展系が見えてくる.

◆人ってすごい,人って面白い

 最後に,筆者の忘れられないエピソードをひとつ紹介したい.

 統合失調症患者であるAさんが悪性リンパ腫になってしまい入院してきた.化学療法の副作用で嘔気・嘔吐が強くなったとき,Aさんは言った.「誰かが僕の食事に毒を入れている!」.それ以来,Aさんは病院の給食にほとんど口をつけず,缶詰を好んで食べるようになった.ところがある日の昼食時,Aさんの部屋からナースコールがあった.「どうしましたか?」と部屋を訪室してみると,床一面に広がったラーメンの吐物の中にAさんが立ちすくんでいた.「すいません.好物なので食べてしまいました…」

 「ラーメン,被害妄想に勝つ」

 私は後片付けをしながら,なにやらおかしくて,笑いをこらえるのに必死だった.以後,彼は好物が出ると「ちょっとだけ」食べるようになった…

 被害妄想にとらわれているように見えたAさんだが,自分で自分なりに「認知行動療法」をやっていたんだな,と思う.考えてみれば,私たちも知らずに「ぷち認知行動療法」を自分自身で日々,やっているのかもしれない.その日常の延長線で,あまり構えずに「認知行動療法」を自分たちの看護や生活に取り入れていくとよいのかもしれない.人はそうやって自分を癒していく力も持っているのだから.

(『看護学雑誌』2008年4月号掲載)
書評 (雑誌『精神看護』より)
書評者: 岡田 佳詠 (淑徳大学看護学部)
 最近、精神科看護師の皆さんと接するなかで、じんわりと、しかし確かに感じとれることがあります。それは多くの精神科看護師が、何かこれまでとは違うケア、別の視点からのケアを探し求めているということです。これは、私が集団認知行動療法に関する研修などに携わるなかで、また、認知行動療法に関心を寄せる看護の方たちとお話をするなかで実感することです。

 これまで精神科の看護師は、患者-看護師関係のプロセスを大切にしながら、患者のセルフケアを含む社会生活の改善に向けて援助を行なってきた点で、非常に大きな貢献をしてきたと思います。しかし、これは私自身思い当たることですが、気がつかないうちに、患者の考えをあまり聴こうとせず、看護師のほうが主導権を握ってケアを進めてしまうことはないでしょうか。そうなるとレパートリーの少ない精神科看護のケア技術を前に、「どうしたら患者はよくなるのだろう……」と悶々と考え込んでしまうことになります。

 また、これまでの精神科看護では、統合失調症患者の幻覚・妄想について詳しく聞いてはいけない、否定も肯定もしないなどの消極的なかかわりが強調されてきたこともありました。そのことでどうにも身動きがとれないといった経験をされた精神科看護師の方も多いのではないかと思います。

◆行き詰まりに風穴を開けるものとして

 こうした精神科看護の、ある意味での行き詰まりにひとつの風穴を開けてくれるのが、私は認知行動療法ではないかと考えています。

 認知行動療法では、認知(物事をどうとらえるか)が、行動(セルフケアなど社会生活活動全般)や気分、身体状態などに影響するという基本的な考え方のもと、認知と行動の両側面にはたらきかけます。この点で、これまでの精神科看護では、さまざまな行動などの背景にある認知に、直接はたらきかけることが少なかったように思います。また、認知行動療法を進める上で大切なのは、患者と協同関係を築くことです。これはセラピスト側が、患者のかかえる課題・問題を一方的にかかえ込むのではなく、患者と同志のようにスクラムを組みながら、一緒に取り組む点に特徴があります。このような患者との関係性は、将来患者自身が自分で問題に対処するために重要で、これからの精神科看護にも求められると考えます。

◆見てから学ぶか学んでから見るか

 本書は、95分間のDVD編と、240頁のテキストの二部構成になっています。認知・行動をみつめ変化をもたらすためにはいくつかの方法があるわけですが、その実践例を、“浦河べてるの家”の活動を通して見ることができるのが本書のDVD編であり、そこで行なわれていることの認知行動療法としてのテクニックを学習できるのが本書のテキスト編になります。

 認知行動療法を学習することは、看護者のケア技術の幅を広げ、看護者主導のケアから、患者とともに取り組むケアへの変容をもたらします。私自身、認知行動療法を学ぶようになり、以前のような無理なかかえ込みが少なくなったと同時に、私たち看護師には持ち得ない、病気をかかえた患者だからこそ持てる力や、患者自身がそれまでの人生で培ってきた本来の力を、それまで以上に信頼できるようになれたと思っているところです。

◆なぜ私たちは“べてる”にハマるのか

 私も含めて、精神科看護師の方のなかには浦河べてるの家のファンが多いのではないか、と思います。「べてるへ見学に行ってきた」という話はあちこちで聞きますし、関連する書籍やビデオなどを購入している方も多いでしょう。私自身も約10年前にべてるに見学に行き、非常に衝撃を受けた覚えがあります。

 なぜ私たちはべてるに惹かれるのか。それを考えるとき、私は前述したような、これまでの精神科看護の行き詰まりを払拭してくれる要素を、べてるがもっているからではないかと考えます。

 例えば「昇る人生から降りる人生へ」など、これまで患者はもちろん、医療者も口に出せなかった新しいものの見方・考え方(すなわち「認知」の変容)と、幻聴・妄想に賞を与えるなど、誰もできなかったこと(すなわち「行動」の変容)を見事にやってのけている点です。さらにべてるでは専門職が治すという感覚はなく、患者-専門職者間では決して超えることのできない、当事者中心の集団の作用が、互いの回復に非常に貢献していると考えます。

 このように、新しい認知・行動、そして当事者と専門職者間の限定された関係性を超えた集団の作用は、これまでの精神科看護の限界を突破し、価値観を180度変えてしまうところに存在するため、目からウロコが落ちるようにべてるにハマってしまうのだと思います。そして、だからこそ、これまでにはない精神科看護のあり方への希望も湧いてくるのだと思います。

◆「問題志向」という言葉に衝撃
 今回私は、テキストのなかの伊藤絵美氏の記述にさらに衝撃を受けました。私自身、精神科看護の行き詰まりから抜け出したいとの思いから、ベックの認知療法(認知行動療法のひとつ)に、また同時にべてるにもハマってきたわけですが、それが、本書に出会うことでしっかりとつながったように思えたからです。つまり認知行動療法を、べてるでは当事者同士の集団を基盤とする実生活のなかで、見事に展開していたのです。

 また、本書のなかに重要なキーワードを発見しました。“問題志向”です。これまでよく使われてきた“問題解決志向”とは違います。“問題解決志向”では、何らかの問題を解決することを目的とするものでした。しかしべてるでいう“問題志向”は、問題や苦悩そのものをそのまま受け止め、それらを当事者と専門職者がともに考え続けるというあり方です。

 私も含めて、多くの精神科看護者は、患者のかかえている問題や苦悩をともに考え続けることよりも、解決することに、これまで随分と力を注いできたのではないでしょうか。この“問題志向”という言葉は、私自身の考え方を変化させる言葉でした。私自身のなかで、認知行動療法でいうところの認知再構成(考え方の変容)が起こったといえます。

 加えて伊藤氏は、“問題志向”について、フランクルの提唱した「意味を探求する思想」、すなわち「我々は人生から意味を問われる存在である」という考え方とも共通することを述べています(フランクル:『夜と霧』の著者で、実存分析を提唱した精神科医)。私はここで、現在の精神科看護を支える対人関係論のうち、『人間対人間の看護』の著書で知られるトラベルビーの看護論を思い出しました。これはフランクルの思想を基盤とするもので、看護師は、「患者が病気や苦悩の体験のなかに意味を見つけ出せるように援助する」という考え方です。このような考え方が、これまで精神科看護の根底に流れていたにもかかわらず、私たちはそれをどこか脇において、“問題解決”の方向ばかりを見つめてきたのかもしれないと思ったのです。

 「意味を見出す」プロセスは、「認知を再構成する」ことと読みかえることができます。これから私たち精神科看護師が、認知行動療法という、これまでとは違う側面から現象をとらえ、アプローチを展開する方法を通して、脇においてきた、患者とともに患者の苦悩に向き合う関係性を再び取り戻すことができるのではないかと期待しています。その際、本書が一助となることは間違いないでしょう。

(『精神看護』2008年3月号掲載)
形から入れ! 中身は後からついてくる!!
書評者: 松王 強 (財団法人河田病院(岡山市)/医師)
◆認知行動療法が進化した姿

 浦河べてるの家に関心のある者にとって役に立つ新しい本が現れた。伊藤絵美+向谷地生良編著『認知行動療法、べてる式。』である。この本はべてるの家で行われているさまざまなことを、心理療法の一つである認知行動療法の視点から解説する。ひとことで言うと、べてるで行われていることは認知行動療法が進化した姿であり、我々は認知行動療法に関してべてるから多くのことが学べるというのだ。

 伊藤氏は「長いまえがき」のなかでこう書いている。

《べてる的活動は、この浦河でなければ、向谷地さんでなければ、べてるの当事者でなければできないものではないはずだ。……しかしべてる的活動を、どういう考え方に基づき、どういうやり方でやったらいいか、それを示さなければ、「べてる的にやればよいのだ」と言われても、当事者や周囲の人は困ってしまうだろう。私たちの専門とする認知行動療法が役立つとしたら、この点においてなのではなかろうか》

◆「内面より形」のすがすがしさ

 たしかにこのDVD付きの解説書を読めば、だれでも形だけは当事者研究やSSTを始めることができると思う。

 いま「形だけは」と書いたが、否定的な意味でいっているのではない。なぜなら向谷地氏は『精神看護』2007年3月号の「技法=以前」という連載でこう書いているからだ。「形から入れ」と。そして「中身はあとからついてくる」と。

 そうか、形だけでいいんだ。なんだか希望がわいてくるなぁ。練習すればなんとかなりそうだし。精神科領域なのに、べてるは心の中に踏み込まないからいい。メンバーの松本寛くんも「頭のなかでいくら人を恨んだり、ぶっ飛ばしたりしても大丈夫。おこないさえしなければいいんだよ」と言っている。

 この「内面より形」という一見逆説的な表現は、当事者だけでなく私たち専門家の心をも軽くしてくれる。いかにもべてるらしい不思議な言葉だと思う。

◆いつの間にか「べてる的な精神」が……

 本書でも詳しく紹介されているSST(Social Skills Training)について向谷地氏は、「じつをいうと、学生時代から私はこの手の“アクション・メソッド”が大嫌いな人間である。こんな子どもだましのようなロールプレイが、人のかかえる人生課題の解消に役立つはずがない」と思っていたそうだ。

 私も長い間、なんでSSTなんてものをするのか、いまひとつ理解できなかった。そして、「本やビデオを見たり研修に参加すれば、見よう見まねでべてる的な活動を始めることは可能かもしれないが、地域全体にべてる的な考えが浸透しなければ成功しないはずだ」と思い込んでいた。

 しかし、『認知行動療法、べてる式。』を手にした今はこう思う。形だけを真似ることによって、「べてる的な精神」までがいつの間にか身に付いていることに驚くときがくるかもしれない、と。
認知行動療法のすばらしい範例
書評者: 池淵 惠美 (帝京大学医学部精神神経科学講座教授)
◆認知行動療法はなぜ支持される?

 本書は認知行動療法のすばらしい範例といってよいであろう。

 認知行動療法が注目を浴び続けている理由の一部は、多量の効果研究を生み出している点にあると思われる。科学的な根拠=エビデンスに基づいた治療法が求められる時代に、認知行動療法は豊富なエビデンスを提供しているのである。そのためにアカデミズムの世界にサポーターがいる。

 それと同時に、理論と技法が明文化されてシンプルであるがゆえに応用可能性が広く、さまざまな精神障害にそのシンプルな図式を適用して、複雑な症状を読み解いたり、解決策を模索したりすることが可能である。このことも、認知行動療法が流行する理由の一つとなっている。これまでの精神療法からすると、ずっとわかりよい、のである。その応用のしやすさから、多彩な技法を次々と編み出す生産的な試みが世界中で行なわれている。臨床の現場にもサポーターがいるのである。

 さらに言えば、専門家と当事者(クライエント)がその図式を共有して、共同作業で障害を乗り越える道具とすることができる。今の時代、こうした姿勢は多くの共感を得ている。したがって、当事者(クライエント)の中にもサポーターがいるのである。

◆同じ技法のはずなのに
……創造性にあふれた楽しめるセッション

 このように、認知行動療法が支持される背景はいろいろであるが、本書『認知行動療法、べてる式。』は、実践的な臨床家サポーターと当事者サポーターとのすばらしいコラボレーション作品である。

 堅苦しいアカデミズムの世界で語られるのと同じ技法を使っているはずなのに、本書でみる認知行動療法は、生命力と想像力と諧謔の精神にあふれていて、きわめて魅力的である。病院でみる認知行動療法が、少し窮屈だったり、図式的すぎると感じている人にとっては、認知行動療法の本質的な理論や技法をそのまま残しながらも、こうも楽しいセッションができるものか、と驚かれるのではないかと思う。精神障害の中でも、社会生活における重い桎梏【ルビ:しっこく】となりやすい統合失調症をかかえた人たちが、なんだか言葉で聞くと忌避されそうな幻覚や妄想と生き生きつきあっている様が、DVDと解説書の中にあふれている。

 実践家サポーターの伊藤絵美氏の解説は、平易な言葉でありながらも、物事の本質をよくとらえていて、なぜ本書が魅力的であるかを、見事に解き明かしてくれている。これは「べてる式」に伊藤氏が惚れ込んでいる故だと思われる。

◆認知行動療法だけでは語り切れない「深さ」と「おもしろさ」も

 「浦河べてるの家」では、社会福祉法人と有限会社を併せて100人以上の当事者が生活し、活動している。浦河町という過疎の町に密着して、統合失調症、アルコール依存症、人格障害などをもつ人たちが、昆布とともに、「障害と共に生きる」創造的な取り組みを「商売にしている」のである。

 このべてるの家の活動は、認知行動療法という切り口だけでは語れない深さがある。「安心してさぼれる会社づくり」「昇る人生から降りる人生へ」などの数々のスローガンや、“幻聴さん”などなどのユニークな症状のネーミングでもわかるように、障害への逆転の発想が息づいているとでもいえるだろうか。共著者である向谷地生良氏のべてるの家の活動についての多くの語りもおさめられていて、精神障害に関わるおもしろさに目覚めさせてくれる本である。
認知行動療法の「あるべき姿」を知る絶好の入門書
書評者: 石垣 琢麿 (東京大学大学院総合文化研究科准教授・精神科医)
◆「べてる」でなければできない?

 べてるの家の活動は,本書とセットになっているDVDでも見ることができるし,向谷地氏や当事者自身が出演するさまざまなメディアや講演会によって見聞きされたことのある諸氏も多いことと思う。彼らの活動で皆がまず驚かされるのは,登場するべてるメンバーの「明るさ」と,彼らのコペルニクス的「発想の大転換」である。また,それを「べてるでは当たり前のこと」とさらっと言われてしまうことにも。私のような凡庸な精神科医は,彼らの姿に自分の発想の貧困さを再認識させられ,気分が滅入ってしまいがちである。べてるの活動は,当事者がもつ生活者としての能力を引き出し,彼らが真に希求する「生の」生活のなかでの具体的援助をめざしている。

 では,発想が貧困で時間のない私には,慣れ親しんだ人間関係や土地から離れられない当事者とともに「ここ」で何ができるのか?


◆なぜ「腑に落ちる」のか

 本書のなかで伊藤氏は,べてるの活動の基本は「問題志向」であり,認知行動療法も同様だと説く。問題志向とは,日常生活の「しょぼい問題」であっても,「問題解決」をあえて考えないで他者とともにまずはじっくり見つめること。その問題は,あくまでも患者さんの生活体験から提示されるものでなければならない。

 問題解決を図るときも,日常性のなかでそれが扱われなければ,患者さんの腑に落ちない。多くの患者さんは,この「腑に落ちる」感覚を体験することに困難があるのだが,治療上きわめて重要な体験であろう。

 それを現実生活のなかで獲得してもらうという意味では,べてるの活動や認知行動療法は「生活療法」の発展型とも考えられる。認知行動療法は,ともすると用いられる技法や,数字による実証性だけに注目が集まり,皮相な評価が下されることもある。本書は,認知行動療法のあるべき姿を知る絶好の入門書でもある。


◆「当事者研究」成功の鍵――家族とコメディカルに開けるか

 また,べてるの「当事者研究」は当事者がみずからを理解するきっかけを与える「しかけ」だが,臨床上の重大な知見も示してくれる。

 向谷地氏によると,当事者研究は「SSTに乗らない難しい問題を互いに共感しつつ語らうことから始まった活動」とのことである。当事者研究の中身は,認知行動療法が重視するアセスメントとケース・フォーミュレーションに多くの共通点がある。サポートを受けながらみずからの問題を外在化し理論化する作業は認知行動療法で一般に行われているが,統合失調症の患者さんの一部には非常に有益だという実感を私ももっている。

 問題は,べてるの当事者研究の背景として不可欠な「メンバー間の自然な共感」を,我々の治療者―患者の二者関係内で充足できるか,という点である。外来診療でこれを解決する方略は,認知行動療法の手法に家族を巻き込むことと,外来チーム医療を充実させコメディカルのパワーを十分発揮してもらうことだろうか。


◆べてるに学び,自分たちの方法を探そう

 本書に示された,べてるの活動を認知行動療法の枠組みで捉え直そうとする姿勢は大いに共感できる。ベてるに学びつつも,「べてる式」ではない,みずからが直面する現実に即した「伊藤式」認知行動療法を探求しつづける伊藤絵美氏の態度自体が認知行動療法のモデルではないか。

 私たちに地域社会を巻き込んだ起業ができなくても,「幻覚&妄想大会」を開くことができなくても,認知行動療法の基本的姿勢によって,患者さんとともにできることのヒントを本書は数多く示してくれる。

 認知行動療法とか統合失調症とかという枠を越えて,豊富な臨床のアイディア,生活のアイディアを示してくれる本書を,認知行動療法を専門としていない方々にもぜひ読んでいただきたいと思う。

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