街を歩く神経心理学

もっと見る

いつも見慣れた風景や道も、いったん脳機能の障害にかかれば、未知の迷路と化す。こうした「街並失認」にみられる興味深い症例をもとに、さまざまな地理的失見当識の起こるメカニズムを探求する初めての書。「道の歩き方」「方向感覚と方向音痴」「地理的障害」「街の顔がわからない」などを具体的に呈示。街の神経心理学を学ぶために多数のマップとエッセイを付した。
*「神経心理学コレクション」は株式会社医学書院の登録商標です。
シリーズ 神経心理学コレクション
高橋 伸佳
シリーズ編集 山鳥 重 / 彦坂 興秀 / 河村 満 / 田邉 敬貴
発行 2009年07月判型:A5頁:200
ISBN 978-4-260-00644-6
定価 3,300円 (本体3,000円+税)

お近くの取り扱い書店を探す

  • 更新情報はありません。
    お気に入り商品に追加すると、この商品の更新情報や関連情報などをマイページでお知らせいたします。

  • 序文
  • 目次
  • 書評

開く

まえがき

 随筆を読むのが好きだ。それも,いわゆる随筆家よりも作家,学者,芸術家などの書いた作品が興味深い。著名な作家でも,その小説は読んでいなくとも随筆は大方読んでいることもある。彼らのふだんうかがい知れない日常や,思索過程を垣間見ることができるからかもしれない。
 向田邦子の随筆に「女地図」というのがある。「女は地図が苦手である。……教えるのも下手だし,習うのもうまくない」。初めて行く店への道を聞くために電話をして,電話口に女性が出ると「万事休す,という気持ちになる」。
 「(店の場所は)豊川稲荷のあたりですか」
 「そうそう,豊川稲荷,左へ曲がって」
 「左ですか,右だと思ってたけど」
 「え?あら,右?…」
 と方角がわからない。
 「右曲がるでしょ。そいでねえ」
 「角はなんですか。虎屋ですか」
 と,聞いてもそこにある建物がわからない。
 人に道を教える際のポイントがすでにこの随筆の中に示されている。
 著者によると「(女性は)地図を描くのに一番必要な客観性がないのであろう」ということになる。ただし,最後の部分に,「私が言う地図音痴は,戦前の教育を受けた女たちである」とのことわりがある。
 方向音痴という言葉は日常よく使われる。通常,道に迷って目的とする場所になかなか行き着けない人をいう。方向音痴の人とそうでない人との違いはどこにあるのだろうか。そもそも私たちが目的地に向かって道をたどるにはどのような脳内機構が働いているのであろうか。実は,こうした問題に関する研究はそれほど多くはない。「街を歩く」ための機能が脳内のどの部位でどのように働いているかについてはほとんど解明されていなかったのである。

 私が地理的障害の研究に取り組んだのは,一人の患者さんとの出会いによる。初めはとりつく島もない印象を受けた。症候をとらえるための方法を試行錯誤するが日々が続いた。その後,同様の症候を呈する症例が蓄積され,徐々に方向性が見えてきた。その過程で,道順障害の最初の症例を診察したときの感動は忘れられない。頭の中のモヤモヤしたものが一気に吹き飛んだような気がした。
 神経心理学は広範な内容を含み,なお拡大を続けている。地理的障害は行動の異常として現れる。それも「街を歩く」際の行動である。神経心理学のなかでも,最も広い空間を対象とする症候といえるのではなかろうか。本書に記載されていることは,地理的障害研究のほんの糸口にすぎない。いわば「入門書」である。今後,この分野の研究がいっそう活発になることを願ってやまない。

 本書は多くの方々の直接的,間接的な援助のもとにでき上がったものである。平山惠造先生(千葉大学名誉教授),河村 満先生(昭和大学神経内科教授)からは,それぞれ神経症候学,神経心理学の基礎を学ばせていただいた。酒田英夫先生(現東京聖栄大学教授)には学会などでお会いするたびに,専門の生理学の立場からさまざまなご助言をいただいた。私と地理的障害の患者さんとの数々の出会いを作ってくれた,千葉大学神経内科時代の同僚の古口徳雄先生(現千葉県救急医療センター・神経系治療科部長),榊原隆次先生(現東邦大学医療センター佐倉病院・神経内科准教授),片山薫先生(現成田赤十字病院・神経内科部長)そして福武敏夫先生(現亀田メディカルセンター・神経内科部長),さらに塩田純一先生をはじめとする当時の汐田総合病院神経内科の諸先生方に深謝する。

 最後に,計画段階から執筆終了まで,初心者の私が道に迷わぬよう常に的確な方向へ導いてくれた医学書院の編集者,樋口 覚氏にこの場を借りて謝意を表する。

 2009年6月
 高橋伸佳

開く

 まえがき

第1章 道を覚える
 1.見える範囲と見えない範囲
 2.道の歩き方
 3.方向感覚と方向音痴
 4.地理的障害

第2章 街の顔がわからない-街並失認
 1.歴史的背景
 2.街並失認との出会い
 3.街並失認の症候と病巣
 4.熟知視覚像の失認

第3章 方角がわからない-道順障害
 1.歴史的背景
 2.道順障害との出会い
 3.道順障害の症候と病巣
 4.非典型例

第4章 神経機能画像研究
 1.地理的機能に関する機能画像的アプローチ
 2.街並失認のイメージング
 3.道順障害のイメージング

第5章 「街を歩く」ための脳内機構
 1.地理的障害の解剖学
 2.地理的記憶の貯蔵庫はどこか
  A.街並の記憶貯蔵
  B.道順の記憶貯蔵
 3.「街を歩く」脳内機構
  A.街並失認はなぜ起こるのか
  B.道順障害はなぜ起こるのか
  C.まとめ:街を歩く脳内機構

 文献
 索引

開く

地理的失認の症例について詳述した,シリーズ異色の一冊
書評者: 酒田 英夫 (前・日大教授 神経・筋肉生理学)
 1960年代のはじめに時実利彦さんの『脳の話』と共に岩波新書のベストセラーになった『動物と太陽コンパス』の著者の桑原万寿太郎さん(動物行動学)はまえがきの中で「鳥の渡りや動物の帰巣性の問題は遠い祖先の時代から人々の関心の的であった。」と書いている。太陽コンパスとはムクドリが渡りの時期に太陽の位置から遺伝的に決まった渡りの方向を読み取る仕組みを指す。桑原さんは時刻に関係なく方位を読み取るには体内時計が必要であると論じている。当時まだ発見されていなかった体内時計は今では誰でも知っている時差ぼけの原因となる神経核で視床下部にある。渡り鳥や伝書鳩では方位を知らせる磁気センサーが発見されている。では,磁気コンパスのない哺乳動物はどのようにして巣に帰るのだろうか。

 1948年,実験心理学のTolmanはラットの迷路学習の訓練中にたまたま迷路の上に載せたラットが一直線に餌のある場所に走っていくのを見て,動物の頭の中に広い範囲の認知地図があるに違いないと考えた。それ以来,認知地図は本当にあるのか? あるとしたら脳のどこにあるのか? という議論が繰り返されている。1971年にラットの海馬に場所細胞を発見したO'Keefeは『The Hippocampus as a Cognitive Map』という本を書いて海馬に認知地図がある可能性が高いことを示唆した。しかし,実はそれよりずっと前の1918年にイギリスのGordon Holmesが,第一次世界大戦中に頭頂葉を撃ち貫かれた兵士の中に眼が見えるのに障害物にぶつかったり,病院の中で道に迷って自分のベッドに帰れない患者さんがいることに気づいて視覚的見当識の障害として報告した。

 著者の高橋伸佳さんが診たタクシー運転手の患者さんの症状はもっとドラマチックである。K駅前で乗客を乗せたときに突然行く先がどの方角かわからなくなり,営業所に戻ろうとして,やはり方角がわからないので,ほとんど交差点ごとに見慣れた街並みの記憶と照合しながらようやくたどり着いたということである。MRI検査で脳梁のすぐ後ろで右側の膨大後皮質にほぼ限局した病巣が発見された。左膨大後皮質の損傷でエピソード記憶の障害が起きることが知られているので,この領域は顕著な左右差があることがわかったのである。

 著者は1992年の日本神経心理学会で,地理的障害を二つに分けて,一つは道標となる建物や風景がわからなくて起きるので「街並失認」と,もう一つは目的地の方角がわからなくて道に迷うので「道順障害」と名付けられた。

 街並失認の典型例は,右海馬傍回に病変があり自宅の外観を全く思い出せないが,自宅から病院までの地図はかなり正確に描けるし,自宅の間取りも描ける。しかし自宅付近で道に迷うというケースであった。単純化していえば目的地の方角はわかるので,その近くまではいけるが最後に必要な家や通りの風景がわからないために目的地に着けないと考えられる。

 一方,道順障害の典型例として著者が挙げているのは病院内で道に迷うだけでなく椅子に背中を向けて座ることができないケースである。おそらくは直接目に見える空間の外の,広い空間の表象が失われたためと考えられる。病巣は楔前部を含む頭頂葉内側面であった。著者はこれらの症状のメカニズムを理解するために役立ちそうな脳機能画像の実験やサルのニューロン活動の記録などを紹介している。例えばRussel EpsteinとNancy Kanwisherが1998年に発見した海馬傍回場所領域などは屋内と屋外の情景の写真で賦活される領域で,街並失認の説明にはぴったりである。まだまだ謎の多い失認症ではあるが解決の糸口になりそうな研究が始まっている。冒頭に著者自身が所属していた昭和大学病院の地理的探索の実例を示してから,いろいろな地理的失認の症例についての詳しい記述を集めたこの本は神経心理学コレクションの中でも異色の一冊で,専門家にとって示唆に富むと同時に一般の読者にも楽しめる本である。

  • 更新情報はありません。
    お気に入り商品に追加すると、この商品の更新情報や関連情報などをマイページでお知らせいたします。