標準分子細胞生物学
- 序文
- 目次
- 書評
序文
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序
本書の前身として,『標準細胞生物学』がある.解剖学系の研究者が中心となって編纂され,初版は石川春律氏,近藤尚武氏,柴田洋三郎氏の編集のもと,23名の執筆者によって1999年に出版された.第2版は,石川春律氏が監修,近藤尚武氏,柴田洋三郎氏,藤本豊士氏,溝口明氏の編集のもと,26名の執筆者によって2009年に出版された.ミクロの組織学は,19世紀中葉に光学顕微鏡の発展を背景に,肉眼的な観察を主とする解剖学から分かれて一定の学問分野となった.20世紀に入って多彩な染色法が開発・応用されて知見を豊かにし,20世紀後半には電子顕微鏡が登場し,周辺の研究分野を巻き込んで超ミクロの世界を開拓し,細胞生物学を生み出した.前書は,そのような形態学を中心として発展してきた細胞生物学の歴史を背景に,細胞の構造・形態を幹として細胞生物学を説くというポリシーを貫いた優れた学習書であった.
本書『標準分子細胞生物学』は,生命の基本単位である細胞を研究対象とする細胞生物学 cell biologyだけでなく,生命現象の分子的な基礎を探究する分子生物学 molecular biologyをも視野に入れている.細胞生物学と分子生物学は,現代の医学のあらゆる分野において,最先端の研究を進めるために不可欠な武器と,医学者が情報を共有するための基盤となる共通言語を提供する.第一線の研究者たちは,それまで培ってきた経験と日々の研究を通して,最先端の細胞生物学と分子生物学の知識を身につけていく.しかし,医学を新たに学ぶ学生たちが,高度に発展してきた現代の細胞生物学と分子生物学を,初歩から学ぶのは容易なことではない.基礎医学の各分野に加えて臨床医学まで,医学生が学ぶべき医学の全体像を視野に入れながら,その基盤となる細胞生物学と分子生物学の基礎的な知識をわかりやすく教える学習書が求められるゆえんである.
細胞生物学も分子生物学も新しい分野であり,歴史を通して作り上げられた枠組みというものがない.これまでの医学における教育と研究をもとに,医学のテーマである人体,細胞,遺伝子の本質と相互関係を考え,医学の諸分野で扱われる研究テーマも踏まえながら,本書の構成を考えた.多岐にわたるテーマのどれをとっても一筋縄ではいかないものであるにもかかわらず,教育と研究に優れた実力をもつ方々に執筆をお引き受けいただけたのは,大きな幸いであった.
序章では,生命の単位である細胞を中心として,医学の主対象である人体との関係,および生命の情報を運ぶ遺伝子との関係がテーマとなる.生きている細胞はどのようなものか,人体の中で細胞はどのように生きるのか,細胞が世代を超えて生き続ける仕組みについて学ぶ.基礎医学のハブとして,関連する科目名を該当する見出しに付記した.
第1章では,細胞における情報伝達,すなわち生体内の細胞が種々の情報を受け取り,生命活動を調整する仕組みについて学ぶ.
第2章では,遺伝子の発現によって細胞の特性が決められる仕組みについて,①基本原理,②遺伝子の転写と翻訳,③エピジェネティクス,④遺伝子発現以外の調節の4点について学ぶ.
第3章では細胞の増殖と分化がテーマで,①細胞周期,②細胞の分化と個体発生,③細胞の異常による病気の3点について学ぶ.
第4章では細胞の分化と組織形成がテーマとなり,①細胞における物質の選別,輸送,分解,②細胞骨格,③細胞間の相互作用,④細胞外マトリックスの4点について学ぶ.
本書は,細胞生物学と分子生物学の学習書における新しいチャレンジである.まず,序章から読んで,医学と細胞生物学と分子生物学を俯瞰していただいてもよいし,詳しく知りたいトピックを読んで掘り下げていただいてもよい.どこをとっても,医学の最先端とそれを培ってきた研究の成果を学んでいただけるに違いない.その柔軟性と多様性が,現在の細胞生物学と分子生物学の姿そのものを現わしているのではないかと考えている.
2026年2月
坂井建雄・櫻井裕之
目次
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序章 人体,細胞,遺伝子
1 生命の本体としての人体
2 細胞は生命の基本単位である
3 遺伝子は生命の本質的物質である
4 人体・細胞・遺伝子の発見と研究の歴史
A 生きている細胞
1 エネルギーの調達
2 細胞内外の境界
B 人体の中で生きる細胞
1 細胞が生きるための物質と環境
2 細胞の働きを調節する
3 細胞が集まって組織体をつくる
C 世代を超えて生きる細胞
1 遺伝とは何か
2 細胞は増殖する
3 個体が増殖する
第1章 細胞は情報を伝達する
A 細胞内信号伝達の概観
B 細胞内信号伝達は主にタンパク質が行う
1 タンパク質の機能は立体構造により決定される
2 機能タンパク質の三次構造変化により活性が変化する
3 原子レベルでの弱い結合の変化が三次構造を変える
4 タンパク質の結合相手には特異性がある
5 他分子との結合や機能変化に関与する立体構造(ドメイン)
C 信号伝達のスイッチの仕組み
1 リン酸
2 プリンヌクレオチド(GDP,GTP,cGMP,cAMP)
3 カルシウムイオンCa2+
D 分子レベルでみた細胞内信号伝達
1 受容体や信号伝達タンパク質をリン酸化する機能的意義
2 信号増幅によって信号伝達タンパク質のスイッチとなるセカンドメッセンジャー
3 信号伝達の負のフィードバック
E 細胞膜の受容体からの主要な信号伝達経路
1 インスリンシグナル:ホルモンによる代謝の調節
2 低分子Gタンパク質:Rhoを例として
3 三量体Gタンパク質共役型受容体:アドレナリン受容体を例として
F 細胞の増殖・分化を変える信号伝達経路
1 Ras-MAPK経路
2 JAK-STAT経路
3 核内受容体
G 細胞どうしの直接接触によるコミュニケーション
1 発生の分岐点となるノッチ・デルタ経路
2 免疫細胞の活性化システム
H 物理的な力のセンサー
1 MET(mechano-electrical transduction)チャネル
2 Piezoチャネル
第2章 遺伝子の発現が細胞の特性を決める
A 細胞の個性を決める基本原理
1 体細胞と生殖細胞
2 細胞の個性を決める因子と過程
B 遺伝子転写,翻訳のメカニズム
1 遺伝子転写の仕組み
2 mRNAプロセシング
3 翻訳
C エピジェネティクス
1 エピゲノム制御
2 非コードRNAによる遺伝子発現調節
D 遺伝子発現以外の調節:タンパク質の修飾反応
1 タンパク質のリン酸化
2 タンパク質のアセチル化
3 タンパク質のメチル化
4 タンパク質のS-ニトロシル化
5 タンパク質のユビキチン化
6 タンパク質の脂質修飾
7 タンパク質の糖鎖修飾
第3章 細胞の増殖・分化とその異常・死
A 細胞の生と死
1 細胞周期
2 細胞老化とテロメア
B 細胞の分化が個体をつくる
1 系統発生と個体発生における細胞の分化
2 生殖細胞と減数分裂
3 初期発生
4 幹細胞(多能性幹細胞,造血幹細胞,iPS細胞)
5 細胞死
C がんの細胞生物学
1 がん細胞の特徴
2 ヒトがんの発生
3 発がん機序による分類
第4章 細胞が分化をして集まって組織をつくる
A 細胞における物質の選別,輸送,分解
1 タンパク質の合成と局在化
2 細胞内メンブレントラフィック
3 細胞内分解システム:プロテアソームとリソソーム分解
B 細胞骨格
1 細胞骨格とは何か
2 細胞骨格は組織学実習で観察できるか
3 細胞骨格の特徴と主な性質:重合と脱重合
4 異なる細胞骨格間の相互作用
5 微小管の構造と機能
6 マイクロフィラメントの構造と機能
7 中間径線維の構造と機能
8 細胞病理学:細胞骨格と疾患
C 細胞間の相互作用
1 細胞間接着とは
2 タイト結合
3 アドヘレンス結合
4 デスモソーム
5 ギャップ結合
6 その他の細胞間接着機構
D 細胞外マトリックス(ECM)
1 細胞外マトリックスは器官構築に必須である
2 基底膜
3 間質マトリックス
4 細胞外環境のリモデリング
5 細胞外マトリックスは細胞の外と内をつなぐ
6 細胞-細胞外マトリックス相互作用の破綻による疾患
和文索引
欧文索引
書評
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挑戦的な基軸と解像度で綴られた基礎医学書
書評者:池上 浩司(広島大大学院教授・解剖学及び発生生物学)
本書を開いて序章の1ページ目を見た瞬間,「何と挑戦的な構造だろうか!」と感じた。序章にあるとおり,基礎医学では長らく解剖学が基盤に据えられてきた。本書は,その伝統的ともいえる基礎医学の構造に“メスを入れ”,細胞生物学と分子生物学を基盤とした構造を提示している。観察技術が大きく進歩し,古典的な解剖学では捉えられなかった細胞の“ふるまい”や,それらを構成する分子の“姿”を実質的に観察できるようになった現代の実情をうまく反映した構造といえよう。医学教育の現状と照らし合わせても,基礎医学の最初に解剖学を履修するのが一般的であった過去から,細胞や分子を最初に学ぶ大学が増えつつある実態に合致しており,基礎医学の教科書としてリーズナブルかつ現代的なものになっているといえるのではなかろうか。
次に中身を詳しく見てみよう。序文で『標準細胞生物学』が「前身」として紹介されているが,本書はその「後身」というよりも全く別の新しい書籍として見るべきだと感じた。事実,序章の後,本章は4つに大きくまとめられ,細かく11章に分けられていた『標準細胞生物学』とは全く異なる構成となっている。
全体の5分の1近くのページ数を割いている序章も本書の大きな特徴であろう。序章には分子から人体までを俯瞰できる内容がしっかりとまとめられている。評者が特に感銘を受けたのは,随所で魚類や両生類など他の脊椎動物との比較が紹介されている点である。高校生物を学んでいない大多数の医学生にとって,ヒト以外の生物と対比させた解説は,真に人体を理解するために特に重要となるだろう。序章を読むだけで,解剖学,組織学,生化学,生理学のエッセンスに触れられるのが本書の魅力の一つといえる。
序章も素晴らしいものであるが,本書の真骨頂は第1~4章のメインコンテンツに他ならない。分子を起点に,細胞内の生化学反応による細胞の諸活動が非常に詳しく解説されている。細胞間の連携や細胞が組織を構築する分子的背景も,分子細胞生物学のバイブル“Molecular Biology of the Cell”に迫る解像度で深く説明されており,学部生だけでなく大学院生にとっても読み応えのある書籍となっている。
特に「分子レベル」の解説では,分子の姿が“ありのまま”描画されているなど,進展目覚ましい構造生物学の恩恵が随所にみられる。評者は新入生に基礎医学研究を紹介する講義の冒頭で「常に分子を意識しましょう」と話しているが,本書は評者の言をまさに体現してくれたものといえる。
基礎医学を学び始める学部生,また,これから基礎医学研究を始めようとしている大学院生の皆さんには,ぜひとも本書を手に取って,細胞と分子を基盤とした生命の実像に触れていただきたい。
「情報」という視点から「分子の言葉」で「細胞のふるまい」を理解する一冊
書評者:小林 直人(愛媛大医学部附属総合医学教育センター長)
「分子細胞生物学」というのはよくわからない学問である。ただし,「わからない」というのは,「何でも扱っているので何を扱っているのかよくわからない」という意味である。本書の「序」でも「細胞生物学も分子生物学も新しい分野であり,歴史を通して作り上げられた枠組みというものがない」と述べられている。
医学がヒトを扱う以上,ヒトの生命現象を理解することは医学を学ぶ者にとって必須であり,生命体が細胞や分子からできている以上,細胞や分子について理解することも必須である。とはいえ,分子細胞生物学というのはよくわからない。したがって,道しるべとなるべき優れた教科書を手に取ることが望ましい。
本書を手に取った時,評者がまず「いいな」と感じたのは,各章のタイトルが単語ではなく文章になっていることであった。これによって,読者が何を理解すべきかが明らかにされている。望むらくは,例外になっている第3章のタイトルもぜひ文章の形で表現してほしい。全章,疑問文でもよいかもしれない。
うれしい驚きだったのは,序章に続いて本書が,細胞にとっての「情報」を扱う章から始まっていることである。このような章立ては,これまでもありそうで,しかし他書にはなかった,画期的な企てだと評者には思える。もちろん,このことが読者の理解を促すであろうことはいうまでもない。
古代ギリシャ以来,生命現象を理解するためには基本的な3つの視点があった。「形態」,「機能」,「物質」の3つである。今でも医学生は,これら3つの視点から「解剖学」,「生理学」,「生化学」を軸として生命現象を学んでいる。もっともこの「生命現象を理解するための3つの視点」という考え方は,評者が順大で学位取得のための研究にいそしんでいたころ,本書の編者のお一人である坂井建雄先生に教えていただいたことなのだが。
ところが,21世紀に入ると歴史が大きく動く。2003年に「ヒトゲノム計画」の完了が宣言され,今では個人のゲノム情報を明らかにすることも可能になった。ヒトのゲノムの「情報」量は30億塩基対とされているが,これは3ギガほどの容量であり,そのくらいのデータ量であれば評者のスマートフォンにも保存できる。ところが,スマートフォンに保存された「情報」には「形態」がないし(「携帯」ではあるが),そのままでは「機能」もないし,そもそも構成する「物質」が違う。それでも,ゲノムの「情報」はピュアに「情報」として研究対象となっており,生命現象を理解するための新たな視点として先端研究を加速させているのである。
したがって,新しい分野の学問を解きほぐす教科書である本書が,新しい視点である「情報」からスタートしているのは,全く理にかなっているのである。読者は,第1章から「細胞にとって情報とは何か」について考えることになる。そして「情報」をキーワードとして,「分子の言葉」で「細胞のふるまい」への理解に導かれることだろう。





