死を前にしたひとのこころを読み解く 緩和ケア÷精神医学
精神医学を超えて、緩和ケア臨床の混沌を探しにいく
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終末期の不安やうつは治療できる? 患者の「自己決定」は本当にある?
──死を前にしたとき、ひとのこころには予測不能な現象が起こる。
精神医学はそれをどうとらえるのか。緩和ケアは何を、どこまで、できるのか。その先の混沌を探る、緩和ケア医と精神科医の濃密かつ親密なダイアローグ。
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序文
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まえがき
「死を前にしたひとのこころ」は人類が始まって以来の大きな関心事である。医学がいまのように人間社会に深く立ち入っていなかった頃は、哲学、文学、宗教学といった学問が「死」に取り組んできた。筆者は、ホスピスケアから医師の道に入り、時代の変遷とともに緩和ケアを担っている。医師としての主な役割は症状緩和であるが、死を前にしたひと(この文脈では患者さん)からいろいろな思いを投げかけられてきた。緩和ケアの関連する領域は幅広いが、疼痛学、心理学、精神医学、倫理学と学ぶ教材はいまやそろっており、教科書的な知識ならすぐに手に入れることができる。
しかし、だ。それぞれの専門領域の深さは通りすがりにみただけではわからない底がある。どの専門領域でも、先端に行けば行くほど実のところ何もわかっていないという混沌が待っている。本書は、「緩和ケアを精神医学で読み解く(÷(わ)ってみる)」がテーマである。サイコオンコロジー領域のパイオニアである明智龍男との対話を通して、基盤となる知識を整理しつつも、さらにその先にある混沌を探しに行くという試みに挑戦した。
本書のつくりとしては、まず、臨床事例を森田が紹介し、明智が「common sense of psychiatry(精神医学の常識)」として、関連する精神医学の知識を上手に整理してくれる。臨床に役立つ知識を得るという意味ではここまででも十分に有用である。ところが本書はそこを超える──超えられたかはわからないが、ちょっとは超えたい。「beyond psychiatry(精神医学を超えて)」と展開して、その医学の常識は本当なのかな? 医学としてはそうかもしれないけど、違う視点からみるとどうなんだろう? と投げかける。ここが本書のオリジナリティである。死を前にしたひとのこころという課題をめぐって、精神医学の限界もあちこちに登場する。各章の終わりには、日々の臨床に役立てるという観点で森田が臨床向けにまとめているが、その裏にただよう「え? それでおわりでいいんだっけ?」みたいな視点も楽しんでもらえるとありがたい。
意図していなかったことではあるが、明智も森田もそれぞれの領域では「EBMの旗手」と認識されているにもかかわらず、数字やデータよりも、文章や合間合間に展開される事例が多い。EBMを学べば学ぶほどその先端では、「そんなに単純じゃねぇな」という思いになり、これまた最先端の混沌といえなくもない。
最後に、筆者からみた明智龍男像を紹介したい。明智は、1990年代、何もなかったサイコオンコロジーを臨床と研究の両軸から文字通りかたちにしてきたひとりである。筆者が行き詰まって相談すると、ものすごい速さで的確このうえない返事が返ってくる(本書の執筆では交互に原稿を完成させていくスタイルであったが、森田が返事を書くやいなや明智の返信が来ることが一度ならずで、心底驚いた)。
明智は、いまベテランとなってからも「その場所において、最も働く」ことを信条としている。しかも、いつも丁寧で「サポーティブたつお」と呼ばれており、たつやとたつおのどっちが人気かというどうでもいいことを筆者が宴会で同僚に聞くと、おおむねたつおの勝利であった。そのくせ、酒が入ると、がんセンター(現 国立がん研究センター)ではじめての精神科医として臨床を始めた頃のことについて、患者さんをうつ病と診断したら「この患者はうつではない!!」と赤字でカルテに×××をつけられて、むっちゃへこんだと涙ぐむ。本書でも随所に登場するのだが、自分に自信がなく、すぐにもうだめだと思う情けないへなちょこ人間、という自己認識のようである。しかし、その自信満々でないところが、ちょっと変わったひとが多そうな精神科医の中で、「普通に話が通じる」(普通のひとの気持ちに近い)のだと筆者は思っている。
本書の読者としては、緩和ケアにかかわる臨床家を想定していますが、死を前にしたひとのこころを現代の精神医学がどうとらえているかに関心のある方にも興味を持っていただけると思います。
2024年5月 30年来の友情に感謝しつつ
森田達也
目次
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Part I 死を前にしたひとのこころ
1 精神科医がみる不安と抑うつの本質──悪いことなのか?
prologue
精神医学の常識
死を意識したときのこころの動きは、不安と抑うつに整理される
不安や落ち込みのある患者さんには、感情そのものに「手を当てる」イメージでかかわる
精神医学を超えて
適応障害(disorder)は病気という意味合いは少なく、適応反応症(disability)と呼ばれるようになった
不安と抑うつには合理的な・有用な面もある
終末期で注意が必要な精神疾患は、うつ病のみである
まとめ
epilogue
2 終末期の「うつ病」──何はすべきで何はすべきでないか?
prologue
精神医学の常識
自殺の背景には、まずうつ病がある
うつ病による健康損失への影響は、がん以上である
うつ病は治療が可能であり、がんでもうつ病は治療対象にすべきである
精神医学を超えて
終末期ではうつに対する積極的な治療が害にしかならないときがある
うつ病に「幻覚剤」がありかもしれない
まとめ
epilogue
3 終末期の「死にたい」──合理的自殺はあるか?
prologue
精神医学の常識
あって普通の「死にたい」と、精神医学的症状とみなせる「死にたい」がある
精神医学を超えて
終末期の「死にたい」背景は、精神医学の一般診療とはまったく異なる
コタール症候群の「死ぬことすらできない」という妄想は底知れぬ苦痛である
精神医学からみても合理的な希死念慮や自殺はあり得る
まとめ
epilogue
4 「スピリチュアルペイン」と呼ばれるもの──行きすぎた医療化?
prologue
精神医学の常識
精神医学にスピリチュアルペインという概念はない
精神医学の診断基準でスピリチュアルペインに近いものは、うつ病か適応障害になる
精神医学を超えて
スピリチュアルペインに似たものを扱った精神療法群がある
スピリチュアルペインは解決しようとせず、そうなんだ、と感じられることが目標になる
まとめ
epilogue
5 防衛機制と呼ばれるもの──置き換えられた怒りと投影された誰かの問題
prologue
精神医学の常識
怒りは防衛機制の「置き換え」としてみられる
怒りは信頼されているひとに向けられやすい
投影は、真の問題が誰のものなのかをみえにくくする
精神医学を超えて
患者に自分の問題を投影している場合、「患者の問題」は実は「自分の問題」である
まとめ
epilogue
6 悲嘆──死別後の悲しみも「病気」なのか?
prologue
精神医学の常識
死別は最も深刻なライフイベントである
死別後の抑うつは従来うつ病から除外されていたが、うつ病と同じく扱われるようになった
長引く悲嘆として「遷延性悲嘆症」の精神科診断名が加わった
精神医学を超えて
診断基準は精神疾患を科学的に研究する手段として有用だが、絶対的なものではない
専門家の中にも悲嘆(喪)を精神医学的診断として医学化しすぎているという批判がある
うつ病の診断を満たしても「正常反応」とみなすべき死別後の悲嘆はある
まとめ
epilogue
Part II 死を前にしたひとのこころを支えるための方法
1 支持的精神療法と共感──この最も困難なもの
prologue
精神医学の常識
支持的精神療法はこころを診療するとき基本となるものである
共感:「本当にわかる」ことではなく、「理解しようと努力する態度や姿勢」のことである
傾聴:「承った」程度に聞くのは見せかけの「ケイチョウ」に過ぎない
精神療法においては、声や表情などの非特異的要素が思いのほか大切である
精神医学を超えて
終末期では治療枠組みは柔軟にするべきで、「ひととひと」としての対話が多くなってよい
再び精神医学の常識
ボーダーライン心性のある患者さんとは、少し距離をおいた対応がよい関係を築ける
まとめ
epilogue
2 ディグニティセラピーと世代継承性──しかし、死はずっと見つめることはできない
prologue
精神医学の常識
ディグニティセラピーは世代継承性に対する精神療法として海外で広い患者層に適用されたが、日本では狭かった
「残したいもの」があるひとには、ディグニティセラピーがよいケアになる
精神医学を超えて
ひとは死にずっと向き合い続けられるものではない──太陽と死はじっと見つめることができない
まとめ
epilogue
3 ACTというケア──どうしようもないことは手放して、いまここを大切にすることの価値
prologue
精神医学の常識
ACTは、「どうにもならないことは手放して、いまここの価値があることに集中する」精神療法として登場した
進行がん患者さんの診療は、問題解決的思考だけでは対処できないことが多い
精神医学を超えて
終末期ケアにおいてACTから学べることには、「医療者としての無力さに自覚的になる」ことも含まれる
自分でどうしようもないことは手放して、いまここで価値を感じることに集中することは、終末期を生きる助けになり得る
まとめ
epilogue
Part III 患者・医療者関係と意思決定
1 精神医学からみた意思決定──「患者の自己決定」という思い込み?
prologue
精神医学の常識
意思決定における精神医学の役割として、意思決定能力の評価がある
「生き方」による治療拒否では、意思決定能力の評価という観点からの精神科医の役割は限定的である
精神医学を超えて
終末期では自律を柔軟にした緩和的パターナリズム(palliative paternalism)という優しさが必要である
インフォームド・コンセントは、患者さんの選択に見せかけたマイルドカツアゲになっていることがある
ヒポクラテスの誓いのほうが、自己決定に見せかけたカツアゲよりよい
まとめ
epilogue
2 精神医学からみた病状理解とACP──ひとは将来を考えられるのか?
prologue
精神医学の常識
多くの患者さんは病状を正しく理解していないが、背景にある否認(希望)はあって当たり前のものである
終末期における否認は適応的なことも多く、「希望」といってもよい
精神医学を超えて
人間は加齢とともに楽観的になっていく──本来はよいことでもある
終末期(人生の最終段階)が近づいてきたからといって、突然「現実をしっかりみる」方向転換はできない
まとめ
epilogue
あとがき
索引
書評
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精神科医が身体に関わるとは,どういうことか
書評者:兼本 浩祐(愛知医大名誉教授)
この本の著者の1人,明智龍男先生のお話は直接何度か聞かせていただき,同じ地域で働いていたこともあって,そのお人柄も良く知っているつもりでいたのだが,この本を通読して改めて思ったことがある。
まずは,「変えられるものを変える勇気を,変えられないものを受け容れる冷静さを,そして,変えられるものと変えられないものを区別できる知恵を」というニーバーの祈りのことである。以前,明智先生からそのお話を聞いて感銘を受け,ニーバーの本も購入したが,この言葉にどうして自分が惹かれたのか,今回の本を読んで改めて感ずるところがあった。この言葉は,精神科医が身体に関わろうとする時に,常に突きつけられる困難を集約している。死はもっとも端的に身体の問題であるのはいうまでもないが,たとえば評者が専門とするてんかんも,時に抗いがたい身体の問題として現れる。死は究極の変えることができない私たちの身体の宿命である。てんかんは多くの場合は幸いなことに「変えられる」が,しかし時には身体の論理が私たちを圧倒し,その時点では人の力では抗うことができないてんかんの発作も存在する。目の前にある苦しみが,変えることができるものなのか,それとも変えられないものなのかを見誤ることは許されない。しかし神ならぬ私たちはそれでも時として見誤るのである。だから,どうか間違いませんようにと祈らざるをえない。
もし精神科医が心の病は脳に原因があると自分は考えているのだから,自分は身体に関わっているのだと思っているのだとしたら,それは錯覚である。『緩和ケア÷精神医学』は,精神科医が身体に関わるということがどういうことなのかを終始穏やかで控えめな口調ながらも,直面化させてくれる迫力がある。すべての精神科医が身体に関わることが必要だとは思わないが,もしもニーバーの祈りを必要としない現場にいるのであれば,その精神科医は『緩和ケア÷精神医学』で問題となっているような身体には関わらない臨床を選んでいるのだということは知っておいても良いように思う。
本書を読んで改めて思ったもう1つは,自分がもし死を宣告されたときに,自分の傍らにいてもらっても良いと思えるような精神科医は,どうして,明智先生のように自らのことを無力で無価値だというたたずまいになるのかということだった。本書のもう1人の著者である終末期に関わる身体科医の森田先生が,「変えられるもの」は徹底して変えてくれるであろうという大きな信頼のもとでのことではあるとはもちろん思うのだが,しかし,究極の「変えられないもの」の1つである私たちの身体の死を目の前にして,しかも私の身体はあなたの身体ではないのだから,決して死にゆく人の気持ちは分からないという孤独を前にして,この無力な私があなたに何ができるのだろうか。死にゆく人に教える知恵など精神科医が持ち合わせているはずはないからである。だから「知」はそういう時に常に向こう側にある。おそらくそれは,サイコオンコロジーの領域に限らず,すべての精神科医がいくぶんなりかは共有しなければならない姿勢なのではないか。本書は改めてそう私たちに教えてくれている。少なくともすべての精神科医が一読すべき本であることは間違いない。