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続 終末期の苦痛がなくならない時、何が選択できるのか?
苦痛緩和のための鎮静〔セデーション〕

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前著『終末期の苦痛がなくならない時、何が選択できるのか?』から5年、世界では鎮静の位置づけが見直されつつある。精神的苦痛への鎮静、苦痛を予防する手段としての鎮静の実践が報告され、さらには安楽死の代替手段としての鎮静について、大きな議論がある。
鎮静は苦痛緩和の最後の手段(last resort)にとどまり続けるか、鎮静の守備範囲は拡張されるべきか。自分なりの結論を得て、深い議論をするために。

森田 達也
発行 2022年09月判型:B5頁:248
ISBN 978-4-260-04972-6
定価 3,410円 (本体3,100円+税)

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はじめに

 本書は,『終末期の苦痛がなくならない時,何が選択できるのか? 苦痛緩和のための鎮静〔セデーション〕』(2017年)の続編にあたる。前著において,筆者は,終末期に緩和する手段がない苦痛が生じた時に選択肢となる鎮静(苦痛緩和のための鎮静,palliative sedation)について現状を整理し,解決するべき課題を提示した。あれから5年──世界では鎮静の位置づけを見直そうという動きが広がっている。もともと鎮静は,死亡直前期の耐えがたい身体的苦痛に長くても数日間行われるのが通例で,最後の手段(last resort)の位置づけであった。しかし今日,患者の希望に応じて,また,精神的苦痛に対して,さらには,まだ生じていない苦痛を予防する手段として鎮静を行う実践が報告され始めている。象徴的な出来事として,フランスでは「(治療中止と同時に)持続的深い鎮静を死亡まで行うこと」が法律に明記された。これらの動きは,死の権利,少なくとも死の過程をコントロールする権利を求める社会の動きを反映したものであるが,安楽死の代替手段としての鎮静に道を拓くともいえるため国際的に大きな議論がある。
 本書では,前著で検討が不十分だった点に加え,この5年間に新しく生じたことについてまとめた。その結果,向こう10年くらいの間,鎮静について,または,鎮静と安楽死のボーダーラインについては,これくらいをおさえておけば議論はできるだろうという集大成とすることができたと思っている。特に,国内法(刑法)における考え方,フランスにおける鎮静の立法化の私たちにとっての意味,「あれは鎮静か?これは鎮静じゃないのか?」のすれ違いの起きる理由に関するイギリス式鎮静・イタリア式鎮静という視点からの分析,耐えがたい苦痛としての精神的苦痛の区分,鎮静薬の投与方法の違いによって実際に患者や家族に生じる影響,50を超える文献の系統的レビューなど,新しい知見を著者の知る限り盛り込んだ。これをふまえて,最終的に,最も保守的に考えてできる鎮静と,少し幅を広げてできる鎮静を明示する試みを行ってみた(ここはすべてを書き終わったいまの段階でも,実はないほうが議論が進む上ではいいのかなという気持ちにもなっているが)。本書全体を通して,鎮静の背景に横たわる問題を多方面から見ることにつながることを期待したい。

 ところで,筆者が(よりにもよって)どうして鎮静を主な研究領域の1つにしているのかを少し書いておきたい。
 筆者は特段「鎮静」そのものに思い入れがあるわけではない。臨床医としての緩和ケア医のアイデンティティは「患者の望むように苦痛を減らすこと」である。苦痛を減らしたい,苦痛を減らしたい…これを日々考えていると2つの領域にたどり着く。
 1つは,個々の苦痛を最小にするにはどうしたらいいか? を突き詰めていく領域である。筆者の場合,臨床では,痛み,呼吸困難,悪心・嘔吐,せん妄,精神的苦痛が主戦場になり,研究領域としてはせん妄や実存的苦痛(いわゆるスピリチュアルペイン)を扱ってきた。痛みや呼吸困難はランダム化試験が必要なこともあり,あまり積極的に研究領域としては扱ってはこなかった(いま振り返ると,もう少ししておいてもよかったなとは思うが)。
 もう1つは「どんなにやっても苦痛が緩和しない時にどうしたらいいのか?」の領域である。特別な医学介入を行わないという決断をするにしても,臨床医として,取りきれない苦痛を前に「何かの決断」をしなければならない。ここに,鎮静の選択肢が登場する。研究者として見た時に,鎮静にはよくある医学領域とは違った特徴がある。それは,未知のことばかりである,多領域が複合している,解が1つではない,といった点である。鎮静は比較的新しく出現した医学領域であり,ゼロから考える内容(誰も調べたこと,誰も系統化したことがないこと)が多い。また,思考を進めるには,医学に加えて,倫理学,法学,比較人類学や医療社会学(っぽいそれぞれの地域での有り様)などの広範な学問体系の合わせ技が必要になる。医学だけでも,緩和医学,疼痛学,麻酔学,精神医学,心理学など複数の領域にまたがる知識を自分の中で統合していく必要がある。さらに,たどり着く正解が1つということはなく,複数の正解があってもよい。これを面倒だと思う研究者も少なくないが,筆者には「ややこしくて考えがいがある」領域であった。

 筆者が「鎮静」に初めて出会ったのは研修医の頃,「身体がだるくてだるくてしかたない,1日が長い,なんとかしてほしい」という方に,日中に3時間ほど就眠できるように睡眠薬を点滴で投与したところ,「気持ちよく寝れた,これはいい」と言ってもらえたのが印象的だった(いまでいうところのrespite sedationである)。あれから30年,社会情勢も緩和ケアを取り巻く環境も変わっている。本書が「これから」を進んでいく読者諸氏の参考になれば幸いである。

 最後になるが,本書の多くの部分は筆者だけで成り立ったものではない。専門外の知識について,数年間にわたり共に議論を積み重ねてくれた友人たちに感謝したい(どの内容をどなたと検討したかは各Chapterに記載しました)。あわせて,筆者の他の書籍と同じように,本書でも共同執筆者のごとくにサポートしてくれた医学書院の品田暁子さんに感謝します。

 2022年6月
 森田達也

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Prologue

Chapter1 鎮静をめぐる世界の動き
──死亡直前の他に緩和手段のない苦痛に対する最後の手段(last resort)から「患者の権利」へ?

Chapter2 フランスにおける「持続鎮静法」
──先見の明か天下の愚策か?

Chapter3 苦痛緩和のための鎮静の概念の違い
──イギリスとイタリアを比較すると何が見えるか?

Chapter4 安楽死・自殺幇助の合法化の国際的動きが鎮静の議論にもたらすもの

Chapter5 苦痛緩和のための鎮静の実態に関する系統的レビュー
──何がどこまでわかったのか?

Chapter6 鎮静は生命予後を短縮するのか? に関する医学的知見の蓄積
──本当に知りたいことは何か?

Chapter7 鎮静を「目に見える薬の使い方」で定義するという考え方の進展

Chapter8 鎮静中の患者の苦痛を評価する医学研究のチャレンジ

Chapter9 「耐えがたい精神的苦痛」に対する理解を深める提案
──精神的苦痛に対する鎮静の是非

Chapter10 法学における鎮静に関する議論の深化

Chapter11 鎮静をめぐる倫理的な議論の深化

Chapter12 終末期の苦痛がなくならない時,どこまでできるのか?

Epilogue

索引

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変わりつつある「鎮静」の今を知る
書評者:田村 恵子(大阪歯大医療イノベーション研究推進機構事業化研究推進センター)

 緩和ケア臨床において「鎮静」は,終末期において苦痛が緩和されない時の最後の手段(last resort)としてガイドラインに基づいて実践されているが,医療者にとっては正解が一つではなく常に悩みつつの選択である。一方,世界では死の過程をコントロールする権利を求める市民の声が高まりをみせ,その象徴的な出来事としてフランスでは治療の中止と同時に「持続的深い鎮静を死亡まで、、、、行うこと」が法律(クレス・レオネッティ法,2016年制定)に明記された。これを機に,世界では鎮静の位置付けを見直そうとの議論が広がっている。本書は,鎮静に関する新しい知見をふんだんに取り入れて,鎮静の背景に横たわる問題を多方面から解説し,読者の理解が進むよう整理されている。著者は聖隷三方原病院の森田達也先生,緩和ケア研究の第一人者である。

 まずは50を超える文献の系統的レビューに基づき,現時点での,しかも向こう10年間くらいの鎮静についてと鎮静と安楽死のボーダーラインについての議論ができる知見が解説されていることに驚かされた。しかも,なかなか一人では理解が困難と思われる論文について,どう読み解くかが,ポイントを押さえた図・表と共にわかりやすく述べられている。著者ならではの痒いところに手が届く解説とともに一語一語丁寧に文字を追っていけば,「なるほど,そういうことか」と納得できるだろう。

 本書は,「最後の手段」としての鎮静から「患者の権利」としての鎮静へとその守備範囲が拡張しつつあるフランスと世界の動き,イギリス・イタリア・ドイツそして日本との鎮静の概念の違い,安楽死・自殺ほう助の合法化の世界的動きがどう鎮静に影響しているのか,といった視角を次々に提示している。まず,鎮静に対する議論を深めるには,緩和できない苦痛があることを直視することが必要である。しかし読み進めるうちに,安楽死・自殺ほう助の合法化の動きは,患者の苦痛が緩和されないからだけではなく,自己決定や尊厳を求める世論に端を発しているという根幹が置き去りにされたままに論議されがちであることに気付かされた。 

 さらに本書は,鎮静は生命予後を短縮するのか,という疑問に関する知見や他の治療と同様に目に見える薬の使い方によって鎮静を定義するという考え方を詳しく解説している。加えて,精神的苦痛に対する鎮静の是非について,医学だけではなく倫理学や法学などの観点からも述べている。最後にまとめとして,「終末期の苦痛がなくならない時,どこまでできるのか(患者の状態に応じて,鎮静薬の投与を選択肢に入れるかどうか)」についての著者の解が示されている。特に「国内でとりうる最大限の解」については,将来のチャレンジとしてこれからの議論の深まりが期待される。

 鎮静についての議論をまとめるには,さまざまな医学領域,および広範な学問体系の知識を統合する必要があり,これができるのは森田先生しかいないだろう。本書が鎮静という医学分野の知的躍動を感じさせる一冊であることは間違いない。この熱量に素直に誘われてみることを皆さまにお薦めしたい。


臨床医による「ひとり学際研究」の手本として
書評者:田代 志門(東北大学大学院文学研究科准教授)

 本書は国際的にも鎮静の研究をリードしてきた著者による2冊目の鎮静本である。前著が出た際に,著者の集大成であり今後数十年間は古典として読み継がれるだろう,と予想した身としては驚きを隠せない。まさか5年後に続編が出るとは想像していなかったからである。とはいえ,本書は単なる前著の続きではない。前著があくまでも医学書の範囲に収まる内容だったのに対し,本書はその範囲に収まるものではないからだ。いわば前著がボクシングだったとすれば,本書は総合格闘技である。

 もちろん前著同様,医学的な研究の最新の成果は存分に網羅され,読者はこの5年間の専門的な鎮静研究の進展をまとめて知ることができる(おまけに今回は脳科学や麻酔学への「越境」もある)。しかしそれに加えて本書では,世界各国の鎮静や安楽死に関する法・指針や議論動向を整理しつつ,法学や倫理学の専門的な議論をかみ砕いて著者なりの解釈が提示されている。

 とはいえ,専門外の領域に手を出しているのだから,専門家からすると細部の表現でひっかかるところはある。しかし著者がすごいのは,そうはいっても本質的なところは決して外さない,という点である(少なくとも私自身の専門が近いところの記述ではそう思う)。では,なぜ著者は肝心なところを外していないのだろうか。

 その理由は2つあると思う。1つには著者自身が書いているように,本書の執筆に先立ち徹底的にその分野の専門家と議論し,自分の理解が「外して」いないかを検証しているからである。この点は前著との違いでもあり,実際各章末尾には多様な分野の専門家への謝辞が書かれている。なお,私もこの過程で様々な専門家を著者に紹介してきたのだが,とにかく毎回相手の専門性から徹底的に学ぼうとする著者の姿勢には圧倒された。

 もう1つは,そうはいっても最終的にこうした知見をまとめ上げる際に,著者が臨床医としての立場から決して離れない,という点である。一見現場とは関係なさそうな話題も,あくまでも「臨床医として,取りきれない苦痛を前に『何かの決断』をしなければならない」(v頁)地点に戻ってきて吟味される。ここは大事な点で,もしここで視点がぶれていれば,多様な専門的知見は統合されることなく,単なる知識の羅列に終わっていただろう。その意味で,この本は「ひとり学際研究」(森岡正博)の成功例でもある。

 ところで,結局のところ本書は,ある臨床医が臨床現場の問題を考え抜くなかで,それが必然的に社会の問題であることにも気づき,関連する学術的知見を総合していった結果の産物である。評者は冒頭で,これは医学書の範囲を超えていると述べた。しかし,医学が本来持っている社会性を考えれば,実はこれこそが医学研究のあるべき姿なのかもしれない。

 その意味で,本書を一つのきっかけとして,臨床に根ざしつつも同様の広がりをもった書き手が次々と登場してくることを期待したい。


終末期の苦痛と鎮静に関するモヤモヤを解き明かす
書評者:今井 堅吾(聖隷三方原病院ホスピス科部長)

 終末期の臨床では苦痛がなくならない時があり,最後の手段として苦痛緩和のための鎮静がしばしば必要となります。鎮静により苦痛は軽減するものの意識が低下したまま最期を迎えることや,余命の短縮が懸念されることで,鎮静は医療行為にもかかわらず,その実施は各医療者の信念に大きく依存する場合があります。そして鎮静の議論をすると何かモヤモヤした気持ちになったり,議論が噛み合わなかったりすることが多くありますが,本書はそのすっきりしない部分に焦点が当てられています。
 著者の森田達也先生は,20年以上前から終末期の鎮静に臨床・研究両面で携わり,鎮静の定義を世界に提案し,鎮静ガイドラインの作成に取り組んでこられました。鎮静を深く考えるためには,医療のみならず,倫理,社会,法律的側面の理解が必要です。本書には,医療以外も含めて各分野の専門家や海外の研究者との勉強会や交流から得た知見も盛り込まれており,おそらく世界で最も包括的に終末期の苦痛と鎮静を俯瞰した一冊ではないかと思います。各分野の勉強会に森田先生と一緒に参加しましたが,印象に残っているエピソードを本書の内容と絡めてご紹介します。

 Episode1:法律家との事例検討で,「この鎮静を行うと余命が縮まることを予想はしていたが,意図していなかった」と伝えたところ,「1分でも余命を縮めた場合は,殺人罪に該当する可能性がある。余命は縮まるかもしれないと認識していたなら未必の故意はあり殺人罪,認識していないなら過失致死罪が成立する可能性がある」と回答があり,大いに汗をかきました(もちろん即刻有罪という訳ではありません)。鎮静が生命を短縮するのなら,鎮静をすることは何らかの罪に問われるのではないかと漠然と不安に思っている医療者にとって,法律家のこの一言は衝撃的です。刑法で罪になるとはどういうことなのでしょうか。そして,そもそも鎮静は生命を短縮するのでしょうか。

 Episode2:緩和ケア医は,「鎮静は安楽死とは違う!」と普段から強調しているのですが,法曹界での安楽死とは,「苦痛を緩和し安らかに死を迎えさせる行為」全般を指すと教えてもらいました。もし鎮静が余命を短縮するなら「間接的安楽死」とされ,これが法的に許容されるためには「積極的安楽死(致死性薬物を投与して死期を早める)」とほぼ同じ条件が必要とのことでした。余命を短縮しない場合は「純粋安楽死」と呼ばれることを知り,「法的には私たちは日々純粋安楽死(時に間接的安楽死)を行っているんだー」と苦笑いしていました。法律における「安楽死」の定義と,医療者がとらえるそれはどこまでが同じで,どこからが異なっているのでしょうか。「安楽死」というだけで私たちはぐっと身構えてしまいますが,そのあたり法律では少し異なるようです。

 Episode3:鎮静の倫理的中核をなす相応性原則について,例として湾岸戦争が妥当かの判断にも相応性が用いられると,倫理の先生が教えてくれました。相応であるためには,方法(米軍のイラク攻撃)が目標達成(より良い世界平和を達成する)をもたらすと見込まれる選択肢の中で最も害が少なく,必要を超えない最小限でなければならない(イラク全土にミサイルを撃ち込むのはやりすぎ)といった話でした。相応性の考え方は他分野でも多様に用いられているわけですが,さて,鎮静を妥当化する倫理を相応性に求めた場合にはどうでしょうか。苦痛が緩和されれば,どの程度まで意識の低下や生命の短縮が許容されるのでしょうか。倫理的な深い議論が必要となるところです。

 こういったエピソードが整理されて本書には盛り込まれています。終末期の臨床にかかわる方々に特にお薦めしますが,誰もが経験する人生の終末期がどのようであってほしいかを考えるために,多くの皆さまにご一読をお薦めします。

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