医学界新聞

対談・座談会

2019.06.24



【対談】

Nudgeで業務改善
行動経済学の知見からデザインする

大竹 文雄氏(大阪大学大学院経済学研究科教授)
小池 智子氏(慶應義塾大学看護医療学部准教授)


 職場の残業時間を減らそうと定時の退勤を呼び掛けてもいまひとつ効果が現れない。でもこれ以上,人手は増やせない――。

 適切な労務管理や健康支援,ワーク・ライフ・バランスやキャリア形成など,働きやすい職場環境の整備に向け,医療機関とその管理者は日々試行錯誤を重ねていることでしょう。職場ごとのさまざまな課題を前に,改善の有効な一手はないものでしょうか。

 そのような期待に応える新たな政策手法として今注目を集めるのが,行動経済学の知見に基づき人の特性を利用した「ナッジ」(MEMO1)です。本紙対談では,行動経済学の医療への応用について『医療現場の行動経済学』(東洋経済新報社)にまとめた行動経済学者の大竹文雄氏と,医療勤務環境改善にナッジの利用を提案する小池智子氏が,職場・職種の特性に応じたナッジの選択と設計について検討しました。改善に向け,そっと背中を押してくれるアイデアとは?


小池 勤務環境の改善に関するコンサルテーションを医療機関に対して行うとき,改善の意欲が高く,より良い勤務環境を自主的に構築できる施設がある一方,ベストプラクティスをどんなに紹介しても改善に向かわない施設もあります。

大竹 良い事例を知らせれば,当然皆が実践してくれる。そう考えたわけですね。

小池 はい。どうしてうまくいかないのかと疑問を持っていました。

大竹 私も同じフレーズを多くの医療者から聞きました。その一つが,『医療現場の行動経済学』を書くきっかけにもなった,医師によるインフォームド・コンセントの課題です。医師が患者に正しい情報を提供しさえすれば,患者は合理的な意思決定ができるとの前提でこれまで行われていました。同様のことは防災行動にも言えます。広島県は2014年に大雨による大規模な土砂災害があり,それ以来防災教育に力を入れてきました。ところが2018年の西日本豪雨で避難した人はほとんどいなかった。それはなぜなのかと,広島県知事から相談を受けました。

 コンサルテーション,インフォームド・コンセント,防災教育。この3つに共通するのは,「正しい情報を得たら人は合理的に意思決定する」という伝統的経済学による「合理的経済人」の人間像が想定されている点です。この30~40年で発展してきた行動経済学では,正しい情報が与えられても人は合理的な意思決定が必ずしもできないとの特性があると検証され,同じ情報でも表現の仕方次第で特定のパターンをもって合理性から逸脱することが明らかになっています。それにもかかわらず医療や防災の場面では,これまで批判の対象となってきた伝統的経済学による人間像をいまだに想定していたことに,私は驚きました。

課題解決のボトルネックは何か

小池 医療機関に改善策を一方的に紹介し押し付けるだけでは,かえって苦しめてしまうのではないかと,私もはたと気付いたのです。そこで,改善に向けてそっと背中を押すような仕掛けとして,行動経済学的特性を用いたナッジに注目し,昨年から業務改善や残業対策に生かせるナッジ事例を探索的に集めています。

大竹 どのような事例がありましたか?

小池 例えば,会議時間を短縮するため立ったまま行う会議をデフォルト設定としたり,勤務時間の終了を光や音によって知らせ,感覚に働き掛けたりするなどのアイデアです。

 残業時間の減少が検証された例として注目したのが,看護師のユニフォームの色を日勤帯と夜勤帯でそれぞれ赤と緑に分けることです2)。どちらの時間帯に働く看護師か視覚的にわかるため,本人たちは「違う色のユニフォームで遅くまで働くのが恥ずかしい」と感じて早く仕事を終わらせようとします。それに,周囲も残業している人に余計な仕事を任せずに済みます。

大竹 わかりやすく興味深い例です。確かに,勤務時間帯が替わったことが本人や周りの人からひと目でわかれば,気を付けなくても「帰る時間だ」「この人に頼んではいけない」と簡単に判断できますね。

小池 大竹先生から,医療現場に応用できそうなナッジ事例は何かありますでしょうか。

大竹 私が参画する,環境省の日本版ナッジ・ユニット連絡会議の報告で面白かったのは,警察官の有給休暇の取得率を高めた例です。それは,夜勤・宿直勤務があった次の日は有給休暇の取得をデフォルト設定にしてしまい,どうしても取れない場合のみ本人から申請するというものです。

小池 あらかじめ設定するのは,夜勤後に一定時間インターバルの確保を必要とする看護師も参考になりそうです。

大竹 他に,残業の申請を直属の上司だけでなく,その上の上司にも出すのが効果的とされます。大手商社の例では,夜間の残業申請はひと手間がかかるようにし,一方で超過勤務手当が支払われることを前提に早朝勤務の申請を簡便化したところ,全体の超過勤務が短くなったそうです。

小池 早朝に出社することがそもそもハードルとなる特性を利用し,残業を減らした面白い実践例です。

 では,医療現場の業務改善で効果的にナッジを活用するには,どのようなアプローチがあるでしょう。多忙な医療現場で働く看護師の中には,忙しい状況でも無理して頑張る自分やチームの姿を肯定したり,密度の高いスケジュールを過ごしていない,あるいは病室に空床のある状態が続くと怠けているような居心地の悪さを感じたりする傾向があります。そこで大竹先生に伺いたいのは,医療現場や医療者に合ったナッジをどのように設計すれば良いかです。

大竹 その職種ならではの特性を自覚することはナッジの効果を引き出す第一歩でしょう。その上で重要となるのが職場構成員の意思を把握することです。例えば,残業を減らすための方策を検討する過程で,皆が残業を減らしたいと思っているのか,それともあまり思っていないのか,どちらのパターンかを見極めます。

 次に,残業に対する状況を踏まえ課題解決のボトルネックを見つけて分析します。職場の中に「後でやる」と先延ばし傾向にある人や,「自分だけ早く帰れない」と考える平等主義タイプの人がいるかどうかなどです。

小池 どちらのタイプも看護師に多く見られます。職場の構成員の性格や傾向を把握した上で,適切なナッジを選択するわけですね。

大竹 その通りです。長時間労働になりがちなタイプの人がいると,職場全体がどうしても残業の多い風土になってしまいます。そのため,ボトルネックと考えられるターゲットを絞って改善策を練らなくては,職場全体にナッジの効果は波及しません。

長期的に確実な習慣形成に至るか,効果を検証する

小池 残業を減らしたいとの意思はあるけれども,仕事を後回しにしてしまう先延ばし傾向の人にはどのようなナッジの選択が考えられますか。

大竹 理想の行動と現実の行動にギャップが生じているのが原因のため,例えば出勤した時点で「今日は何時に帰る」と,自分でどこかに書いて決めるようなコミットメント手段が有効です。

小池 将来の行動をあらかじめ自分で決めてもらうわけですね。残業を減らすことに対する意識がそもそも低い職場はどうすれば良いのでしょうか。

大竹 「長時間労働は健康に良くない」「能率や効率が悪くなってミスも増える」と教育的に呼び掛けても浸透しにくいので,その場合は無意識にルールを守れるデフォルト設定を作ることです。帰る時間帯を光の明暗で自然に伝えることや,ユニフォームの色分けのように最初から組み込まれたナッジは有効でしょうね。

小池 多数の行動に倣う平等主義タイプの特性を利用して,「社会規範」に訴える方法はいかがですか。

大竹 帰るべき時間が社会規範として定まっていて,自分だけ残っているのが恥ずかしいと感じる状況にできれば効果が期待できます。行動経済学では他人の行動が参照点となって,その行動に従わないと人は損失を感じるとされ,多くの人がこの社会規範に従うことを好むと考えられています。

 省エネを推進する代表的なナッジ事例の一つに,周りの家の人たちの電力使用量に比べてあなたの家は多い/少ないと情報提供することが節電につながると知られています。ただ,残業時間を減らすために誤った社会規範を用いてしまっている例が多いのも事実です。「この部門はこんなに残業時間が長い」と組織内で公表するのはかえって逆効果です。

小池 それはなぜでしょう。

大竹 残業時間が長い部門が他にあるなら,うちの部門ももう少し残業していいんだ,と逆の社会規範を作ってしまうからです。残業している人の割合が10%以下の部門が組織全体の90%を占めるのであれば,「ルールを守っている部門が90%ある」と,ルールを守る人たちが多数派であるとの指標を伝えるほうが効果的です。

小池 医療機関で課題となっている手指衛生の遵守率の改善について,率の低い病棟を公表する方法では一向に良くならないのも,社会規範の誤った利用だからかもしれません。社会規範に加え,数値目標を達成したら表彰するといったインセンティブを与えるのはいかがですか。

大竹 それは,試してみないとわかりません。というのも,両方実行することで効く場合もあれば,インセンティブがなくなった途端効き目がなくなる可能性もあるからです。

小池 確かに,生活習慣病対策で,運動などの健康づくりの意欲を引き出すクーポン制を取り入れても,取り組みが終わり金銭的報酬がなくなると,運動を止めてしまう可能性がありますね。

大竹 そうなのです。さらに注意したいのは,インセンティブだけで誘導すると社会規範さえも壊してしまう可能性があることです。有名な実験に,保育園の子どもの迎えに親が遅れるのを防ぐため,遅れたら罰金を徴収するシステムを取り入れたものがあります。結果は,予想に反して遅れる人が増えてしまいました。親は,その程度の金額で遅刻して良ければお金を払いますよ,と。その後罰金の徴収をやめても,遅れて来る人は減らなかったのです。中途半端な金額による罰金制度が,社会規範を壊してしまった例と言えます。

小池 目先の効果にとらわれないナッジの選択が大切になるのですね。

大竹 はい。医療現場のように多忙な職場で働く人は,目の前の仕事をどうクリアするかに集中する場面が多いでしょう。労力を全てそこに費やしてしまうと,長期展望を考えたほうが仕事の効率が良くなるにもかかわらず,その余力がなくなってしまいます。そのため,短期的な目標の達成とともに,長期的に確実な習慣形成に至るかをよく考えたナッジの選択と効果検証が必要になります。

現場の特性を理解し,適切にナッジを選ぶ

小池 東京都足立区では,食事は野菜から取ることを推奨し,血糖値の急激な上昇を抑制して糖尿病予防につなげる「ベジファースト」という運動を行っています。このように,医療現場の業務改善でも病棟単位ではなく病院全体にデフォルト設定を大規模に仕掛けるのはいかがでしょうか。

大竹 一つの文化にしてしまうのは手です。社会規範とは,そもそも文化にしてしまうものですから。ただ,効果を検証するための比較対照群がなくなるのは課題です。ナッジがどれくらい効くかある程度予想できますが,何が一番効果的かは実験しないとわからないことが多いため,まずは小規模に効果を検証した上で大規模に実施していくのが良いでしょう。

小池 ナッジの効果検証を行う上で留意するポイントはありますか。

大竹 初めは単純なメッセージを用いることです。効きそうだと予想したAとBのナッジを同時に行うと複雑なナッジになり,効果検証ができなくなってしまう可能性があるからです。シンプルな事例を集め,それが職場にどう効くか検証します。

小池 集めた業務改善のナッジ事例はいずれ政策として発信し,社会実装されて普及することをめざしています。一方で,倫理面に対する懸念もあります。直感的思考(システム1)と論理的思考(システム2)の2つに大別される人間の意思決定システムのうち,ナッジは「システム1」に基づく仕掛けです。このため,ともすると知らず知らずのうちに経営者や管理者にとって都合の良いデフォルト設定を仕掛けられる可能性もあるからです。ナッジの正しい使い方をどう判断し取り入れれば良いのでしょう。

大竹 重要な論点です。前提として理解しておきたいのは,世の中で示される選択はどれもシステム1に働き掛けるデフォルト設定があらかじめ施されていることです。

小池 最初に大きな数字を見せられると他の数字が小さく見えるアンカリング効果などですね。

大竹 そうです。他にも日本では,臓器提供の意思表示を求める運転免許証の記載は,サインをしなければ臓器提供しないことがデフォルト設定ですし,社会保障の受給や義務教育課程の給食費の無償も申請しない限り給付を受けられません。そこで,ナッジを採用する意図を説明することが不可欠です。仮に,政府が何らかのナッジを仕掛けようとすれば説明責任が求められます。医療現場も同様に,説明がなされた上でどのデフォルト設定が望ましいかを議論し,選択の自由を認めることです。そして,どちらのデフォルト設定が望ましいか,より多くの人が適切と思うナッジを採用することが大切になります。

小池 本日はありがとうございました。医療勤務環境改善のコンサルテーションのエピソードを冒頭で紹介したように,論理的思考であるシステム2に働き掛けることが業務改善の“正攻法”だと,ナッジの存在を知る以前は思っていましたが,現場の特性を理解し上手にナッジを選ぶことで,業務改善を望む看護師の背中を押せるとの手応えを感じました。行動経済学と医療・看護の間で盛んな議論を今後さらに深めていきたいと思います。

大竹 医療現場の業務改善に対する興味深いナッジ事例を知ることができました。医師や看護師など医療者を対象とした行動経済学研究は世界的に見てもまだ始まったばかりです。今後も事例を収集し,長期的に安定して効果を発揮するナッジ開発を進めていただければと思います。

MEMO ナッジ(Nudge)

 ナッジとは,「軽く肘でつつく」意味の英語。2017年にノーベル経済学賞を受賞した米シカゴ大経営大学院のリチャード・セイラー教授らはナッジについて次のように定義する。「選択を禁じることも,経済学的なインセンティブを大きく変えることもなく,人々の行動を予測可能な形で変える選択アーキテクチャーのあらゆる要素を意味する」1)。行動経済学の知見をもとに,人間が自然と行ってしまう行動のクセや意思決定の特徴から強制させずに行動変容を引き起こすナッジは,医師と患者の意思決定や医療勤務環境改善など,医療現場への応用が期待される。

(了)

参考文献
1)リチャード・セイラー,他.実践 行動経済学――健康,富,幸福への聡明な選択.日経BP社;2009.
2)大平久美,他.残業削減の取り組み――ユニフォーム2色制の効果.看護実践の科学.2017;42(3):24-32.


おおたけ・ふみお氏
1983年京大経済学部卒,85年阪大大学院経済学研究科博士前期課程修了。同大経済学部助手,同大社会経済研究所教授などを経て,2018年より現職。博士(経済学)。専門は労働経済学,行動経済学。『日本の不平等』(日本経済新聞社)で05年日経・経済図書文化賞,同年サントリー学芸賞,06年エコノミスト賞受賞。同年日本経済学会・石川賞,08年日本学士院賞受賞。著書に『競争と公平感』『競争社会の歩き方』(いずれも中公新書),『医療現場の行動経済学』(東洋経済新報社)など多数。環境省日本版ナッジ・ユニット連絡会議に有識者として参画している。

こいけ・ともこ氏
1982年慶大医学部付属厚生女子学院卒後,同大病院勤務。2001年東京医歯大大学院保健衛生学研究科博士後期課程修了。博士(看護学)。同年慶大看護医療学部専任講師,05年より現職。専門は看護管理学,看護政策学。編著に『看護サービス管理 第5版』(医学書院)など。18年「医療勤務環境改善マネジメントシステム研究会」(会長=大原労研所長・酒井一博氏)の下部グループとして「医療勤務環境改善ナッジ・ユニット」を立ち上げ,ナッジ事例の収集を開始。今後「医療勤務環境改善×Nudge研究会(仮称)」にて開発・普及に向けた方策を検討していく。研究会では,ナッジ活用に関する講演会や研究報告会等を企画している。詳細は,研究会事務局(nudge@sfc.keio.ac.jp)までお問い合わせください。
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