医学界新聞

寄稿

2018.01.08



【新春企画】

♪In My Resident Life♪
困難に挑戦し続ける


 研修医のみなさん,あけましておめでとうございます。研修医生活はいかがでしょうか。手技がなかなか上達せずオロオロしたり,先輩に怒られてクヨクヨしたりすることもあるでしょう。そんな日々の中で,失敗を恐れて何かに挑戦するのをためらってはいませんか? でもそれでは成長にはつながりません。真の失敗とは,開拓の心を忘れ,困難に挑戦することに無縁のところにいる者たちのことを言うそうですよ。

 新春恒例企画『In My Resident Life』では,著名な先生方に研修医時代の失敗談や面白エピソードなど“アンチ武勇伝”をご紹介いただきました。

こんなことを聞いてみました
①研修医時代の“アンチ武勇伝”
②研修医時代の忘れえぬ出会い
③あのころを思い出す曲
④研修医・医学生へのメッセージ

森田 達也 仲野 徹 野村 幸世
小野 正博 忽那 賢志 北 和也


ベテラン看護師さんに正座させられる

森田 達也(聖隷三方原病院副院長・緩和支持治療科部長)


①忘れもしない研修医2年目。志願して研修したホスピス病棟,「よかったねえ……こんな若い先生に診てもらえて」と周囲におだてられているのにも気付かずにその気になっていた頃,それは起こった。

 受け持っていた80代のご婦人は,がんの痛みや苦痛はとてもよくコントロールされていて,「平穏な終末期」が続いていた。このまま穏やかな最期が迎えられるだろうな,誰もがそう思っていた。しかし,夜間,突然の痙攣。終末期に痙攣を起こすことはままあることで,ジアゼパム,フェニトインと当時の標準的な方法で臨むが,止まらない……。全くといっていいほど,痙攣が止まらない。トレーにどんどん増えていくアンプル,積み重なるアンプル……。それでも痙攣は止まらない。結局,痙攣が治まることなく,患者さんは息を引き取られた。

 筆者の年齢の倍に近い,受け持ちだったベテラン看護師さんから,「センセイ,ちょっとお話があります。あとで,家族室に来てくださいますか」と静かに声を掛けられる。家族室というのは数室あった畳の部屋で,ちょっとした打ち合わせによく使っていた。

 「あのう……,来ましたが」と見ると,部屋の真ん中に座布団がひとつ。「ソコニスワッテクダサイ」。正座するわたし。「森田先生は,○○さんの死について,どう思われているのですか」と問い詰める彼女の目は真っ赤になっていた。苦しまず最期を迎えたい,患者も家族もそう望んでいた,でもかなわなかった。その悔しさが全身から伝わってきた。

 いや,標準的な治療はしてたし……そもそも意識が低下していたから苦しさはなかったんじゃないか……。数年経験を積んだ頃ならそれらしい言い訳が頭に浮かぶことだろう。でも当時の僕が思ったことをそのまま書けば,「ああ,そうか,僕が何かもうひとつ工夫していればよかったのか。もっと頑張らないと」だった。研修医のいいところは,何でも素直に吸収できることだと思う。素直に「うん,自分の努力が足りなかった」と思える。

 これはホスピス時代の一コマにすぎないが,こんな毎日を通して,「本当にこの苦痛は緩和できないのか?」を考え抜く姿勢を教えてもらったと思う。自分(緩和ケアを担当する医師)が諦めたら,緩和できる可能性がなくなる。「教えてもらった」と心から思えるか,「感情的に怒られた」ととらえるかが医師人生を変える。

②恩師,千原明。日本で最初のホスピス病棟,聖隷ホスピスの2代目所長である。柏木哲夫と同世代であるが,表に出るのを好まれなかったので知っている人はいまや少ない。千原先生の信条で揺るぎないものは,徹底して(社会的)弱者の側に立つ,ということだった。VIP感をふかせて「おいおい優先してくれよ」という人には冷たく(それもどうかと思うときがあったが),貧困,精神疾患,障害など何らかの理由で差別されていた人たちを手厚く迎えた。緩和ケアがどんなに広がったとしても,起源であるホスピスケアの信条――社会的な弱者を徹底して守ることを失ってはいけない。

③当時,女装して病棟の舞台に出るとき(写真)の登場曲,マライア・キャリーの「恋人たちのクリスマス」。街中でイントロを聞くと,「今日はクリスマスイブ♡」と言って登場しようかという気持ちになります(笑)。

写真 ホスピス病棟でのクリスマス会。恩師・千原先生の恋人役で女装する森田氏。「主治医の女装や踊りを見て楽しんでくれるのがうれしかった(憐れんでいた方もいたが)」(森田氏)

④緩和ケアを希望する若い医師が増えているのはうれしいことだ。筆者は卒後研修が終わってすぐにホスピスに入った。背景となる人生観は「人間,いつ死ぬかわからない。やりたいことからやっておけ」に尽きる。恩師・千原先生もよく言っていた「死を憎めば生を愛すべし」。いつ死んでも後悔しないように,今やりたいことに十分に取り組んでほしいと思う。何を何度でもやり直しても,まだ大丈夫なのだから。


「あんた,生きとったんか!」

仲野 徹(大阪大学大学院教授・幹細胞病理学)


①②現在,大学で基礎研究をしながら病理学を教えている。医業を営んでいたのは卒業してからわずか3年間。一生懸命ではあったけれど,今から思えば,若くて生意気で至らぬ医師だった。

 その間に受け持った患者さんのひとりに,高校生のM君がいた。重症の再生不良性貧血で血小板が少なく,ずっと出血傾向が消えなかった。入院してもらっても安静以外これといった治療法はなく,1か月ほどたって転院した。この先長くないだろうと思うと,なんともやるせない気持ちだった。

 時は流れて30年,そのM君から電話があった。思わず「あんた,生きとったんか!」と叫んでしまった。薬害C型肝炎の訴訟中とのことで,当時フィブリノゲン製剤を使ったかどうかの問い合わせである。しかし,心底驚いた。まったくもって失礼なことだが,100%亡くなったと思っていたのだ。

 ひょっとしたらと探してみたら,押し入れの奥に,当時の入院時記録が残っていた。ブルーのカーボンコピーに手書きである。自分で言うのも何だが,細かな字でしっかりとまとめてある。残念ながら,フィブリノゲン製剤の使用に関する記録はなかった。昔のことなので記憶もない。申し訳ないけれどお役に立てそうにない,と伝えたのだが,それでもいいからと頼まれて,裁判の証人台に立った。傍聴に来ていたM君にえらくお礼を言われた。

 反対尋問の時,相手側の弁護士から,30年以上も前のことなのに,どうしてそんなによく覚えているのかと尋ねられた。肝心な投薬のことは全く思い出せないのだが,M君のことやお母さんのことは自分でも不思議なほどよく覚えている。3年間しか患者さんを診ていなかったので,それぞれの患者さんの記憶が濃密なままなのかもしれない。それだけでなく,お母さんがかなり高齢になられてからのひとり息子だったので,先立たれたらどれだけつらかろうという気持ちが強烈な印象を残し続けたのではないかと思っている。

 発掘した入院時記録を眺めていると,本当にいろいろなことが思い出されてきた。悲しいことに,よく覚えているのは,お亡くなりになった患者さんのことばかりだった。生前,どんな状況でどんな話をしたかまで,けっこう鮮明によみがえってきたのには驚いた。記憶力がいいほうではない。それでも,脳のどこかにそんな記憶が深く刻まれていたのだ。意識したことなどなかったけれど,医師という職業は,命を預かるということは,それだけ大変なことなのだとあらためて思う。

 亡くなったとばかり思い込んでいたM君からの電話は,とてもうれしかった。そして,いろいろなこと,とりわけ,その頃何を考えていたかをたくさん思い出させてくれた。お礼を言わないといけないのは,間違いなくこちらのほうだ。

③あみんの「待つわ」。よく車で送ってくれた先生のカーステレオからエンドレステープ(と言っても若い人にはわからないでしょうが)で流れていた。

④いろいろな意味で,いつまでもしっかりと勉強し続けてください。


ワイルドな研修医時代

野村 幸世(東京大学大学院准教授・消化管外科学)


①私は1989年,東大医学部を卒業し,当時,東大病院分院の外科だった第三外科で研修を始めました。複数科どころか外科内のローテーションもない頃で,研修を始めた科がほぼ入局する科でした。失敗談は数知れずありますが,その頃は今よりも日本の医療全体が野戦病院状態でしたので,仕方のない部分も多々あったかとは思います。

 うちの医局は1年上の研修医の人数が少なかったため,私たちの学年は研修を開始した1か月後から,関連病院の夜間当直,土日当直に出ることになりました。研修を開始して「1か月」です。点滴のライン取りも満足にできないくらいの能力だったと思います。しかし,私が命令されて行った病院は二次救急までやっており,救急車は断らないポリシーでしたので,夜間に病院の前に救急車が3台も並ぶようなところでした。ですので,当然,心肺停止の患者さんが来ることもあります。

 研修開始1か月で麻酔科の研修もまだの私は,挿管もできませんでした。気管が真ん中にあり食道がそばにあるのだから,真ん中を狙えば気管に入ると信じて挿管を試みましたが,入りませんでした。気の利いた看護師さんが,近くに住む副院長先生を呼んでくださり,事なきを得ました。でも,医局の先輩でもある副院長先生の命令で,私は夏休みを返上して,その病院で研修を積むこととなりました。その間,全身麻酔手術症例の全ての挿管をさせてもらい,同期の研修医の中ではいち早く挿管ができるようになりました。

②忘れえぬ出会いはたくさんあり,どれをお話ししていいかわかりませんが,多分,これをお話ししないと皆に「隠している」と言われると思うので……。

 私が医学部を卒業したての研修医時代の指導医です。卒後8年目の先生でしたが,すでに胃・大腸の手術は独り立ちしており,しかも,当時の教授や助教授に方針や患者管理に関して意見を求められるほどの信頼されぶり。実際,当時病棟で流行していたMRSA腸炎で死にそうな患者さんを開腹腸管内洗浄ドレナージで治すという勇ましさがあり,カッコよかったです。こういう外科医になりたいと思いました。

 この指導医の先生と,大学時代から親しかった同期の研修医と3人でチームでした。業務が終わると,この3人で毎晩のように飲みに行きました。未明まで飲んで大学に帰ってきて,当直室で寝るという不良ぶりでした。でも,このチームは患者さんには慕われていました。白状しますと,この指導医が今の主人です。あの頃はカッコよかったんだけどなあ……。

③「ロンリー・チャップリン」(鈴木雅之&鈴木聖美)。当時,ダンナが夜な夜なカラオケで歌っていたから。

④何でも楽しんで一生懸命やりましょう。家庭を持つ前でないとできない生活もあります。私は今の「ワークライフバランスが大事」という思想を推し進めている人間の一人だけれど,独り者のときのめちゃくちゃな生活も楽しかったです。「今のうち」と思って楽しんでください。

写真 「当時の科長,大原毅教授が創設した日本消化器癌発生研究会の第1回が教室で主催され,受付嬢を務めました。なぜか秘書さんたちの窓口に多く参加者が行き,私のところは少なかった」(野村氏)


泣きながらの心臓マッサージ

小野 正博(都立松沢病院内科部長)


①今から20数年前のことである。東京都北区の149床の病院で研修を行っていた。内科・外科を中心とする病院で,科や専門の垣根を全く感じさせなかった。今考えても,当時から総合診療を実践していた素晴らしい病院であると思う。

 1年目の時,50代男性で肺炎の患者さんが入院した。アンピシリンを投与したが,今から考えると回数,量ともにかなり少なかったと思う。当時は青木眞先生や藤本卓司先生の著書もなく,グラム染色も行っていなかった。深夜に患者さんが倒れているのが発見され,そのまま亡くなられた。病理解剖で肺炎球菌性髄膜炎であることがわかった。髄膜炎を併発する可能性を想定しておらず,項部硬直,ケルニッヒ徴候などの神経学的所見をきちんととっていなかった。

 当直(1人当直だった)を独り立ちして間もない頃,明け方,背部痛の50代女性が救急車で運ばれてきた。高血圧があり,痛みのためじっとしていられない状態だった。その後,片麻痺になった。脳卒中を併発したと思い,頭部CTを撮影しに行ったところ,CT室で急変した。心肺蘇生を行ったが,救命することはできなかった。泣きながら心臓マッサージをしたことを覚えている。当時は大動脈解離が内頸動脈などを閉塞し,脳梗塞を併発する場合があることを知らなかった。

 2年目の終わり頃,脳卒中の後遺症で通院されていた50代の男性患者さんが自殺された。それまで眠れない,死にたいなどと言うことはあったが,それほど落ち込んでいるようには見えず,うつ病やましてや自殺の可能性など全く考えていなかった。個人的にも忙しい時で,患者さんの話をきちんと聞くことができていなかった。

 いずれも私の痛恨の症例である。私と同じ過ちを繰り返さないよう,寺澤秀一先生の著書などを読んで勉強してほしい。

②南鄕継正師範。日本空手道玄和会で空手を指導するとともに,日本弁証法論理学研究会で弁証法や認識論といった学問の他,物理学,生物学,医学,経済学などあらゆる個別科学についても指導されていた。今でも文武の両道において最強だと思う。

 私は研修医でありながら,週1回その道場に通っていた。全く不肖の弟子で,十数年前にクビになってしまったが,「お前は専門を持つな」という教えだけは守れていると思っている。師範の言葉を一つ紹介する。「青春とは己が能力の限界への残酷なまでの挑戦である」。

③「遠くで汽笛を聞きながら」(アリス)。つらいときは「街」を現在住んでいる地名に替えて歌ってみよう!

④「絶対に怒らない(山中克郎先生)」,「人と比較しない(須藤博先生)」,「闘魂(徳田安春先生)」。それぞれ尊敬している先生から教えていただいた言葉。その他,判断に迷ったら患者さんを第一に考える。ミスをしたら素直に謝る。落ち込んだときは,おいしいものを食べて,たくさん寝て,漫画『キングダム』(原泰久)の32巻を読む。つらいことも多いけれど,そのぶん得られることも多い研修医時代を頑張って乗り越えてほしい。


仕事のスイッチが入るまで待てばいい

忽那 賢志(国立国際医療研究センター 国際感染症センター 国際感染症対策室)


①今でこそ感染症医をしていますが,初期研修医時代に結核を見逃して大変な事態になったことがあります。間質性肺炎に対してステロイドパルス療法を受けていた患者さんでした。ステロイド投与後にいったん良くなってきて安心し,徐々に減量していました。しかし,しばらくすると再度画像所見が悪化してきました。指導医と相談して再度ステロイドを増量し対応しました。1か月くらいたってから排菌のある肺結核であったと判明し大騒ぎとなりました……。

 幸い院内に感染者はおらず,患者さんも結核治療で事なきを得ましたが,今でも肺結核の患者さんを見るとあの件を思い出します。結核の診断は今でも難しいと思いますが,感染管理の面からはやはり疑う閾値を低くするのが重要だと思います。

②当時,私は血液内科医になるつもりで初期研修をしていました。しかし,初期研修先である関門医療センターの総合診療科部長だった佐藤穣先生に,学生時代には全く知らなかった血液培養やグラム染色など感染症診療の基本を教わり,興味を持ち始めていました。そんなとき,私が研修していた下関市内に青木眞先生がご講演にいらっしゃり,その内容に衝撃を受け,将来は感染症をやろうと決めたわけです。かなり単純ですね。

 また,奈良で感染症の後期研修を受けている際には回帰熱という非常にまれな輸入感染症を経験し,これをきっかけに熱帯感染症・輸入感染症・新興再興感染症に興味を持ち,現在所属する国立国際医療研究センターに異動しました。ちなみにこの患者さんを私の外来にご紹介いただいたのは,今も私のメンターである奈良医大の笠原敬先生でした。

 佐藤先生,青木先生,笠原先生,そして回帰熱の患者さんとの出会いが私を今の場所に連れてきてくださいました。

③「ワンダーフォーゲル」(くるり)。ここだけの話,初期研修医のときはDJなどをやっておりまして(写真),そこで締めの曲としてこの曲をかけていました。これを聴くと今でも甘酸っぱい気持ちになります。

写真 「DJをして,調子をこいていました」(忽那氏)

④まあ私ごときが皆さんに偉そうに言えることはないんですが,私は正直に申しまして初期研修医の頃はあまり「デキる研修医」ではありませんでした。ぶっちゃけ初期研修先も適当に決めました。その後もうだつの上がらない後期研修医として奈良で感染症研修をしていたのですが,あるとき医局の教授が私に奈良市の病院の感染症科の立ち上げを命じたのです。こんな自分に大きな仕事を任せてくれるというのがとてもうれしかったのを覚えています。

 これがきっかけで仕事のスイッチが入り,臨床をこなす傍らさまざまな勉強会に出席し,そこでいろんな人と出会うことで世界が開けていきました。特に同学年前後の友人は今でも公私ともに仲良くしていただいており,刺激をもらっています。

 皆さんに伝えたいこととしては,「いつスイッチが入るかわからないので焦らず待っていても大丈夫」,「大きな仕事を任されるのはストレスだけど大きなチャンス」,「仲間を探しに時々外に出てみよう」ということです。気が向いたら参考にしてみてください。


「誰もおらへんのかーい!」

北 和也(やわらぎクリニック 副院長)


①私が初期研修医になったのは2006年の春。当時,臨床研修が必修化されてまだ3年目であり,研修医の教育環境はまだまだ整備途上だった。そんな背景が関与してか「将来この科に残らない初期研修医を教育してもなぁ」という声が指導医から漏れることもちらほら。「研修医はマンパワーとしてしか見ない!」という指導医に出会うこともあった(逆にすがすがしく感じた記憶がある)。とにかくそんなカオスな雰囲気がところどころで漂っていた。そんな頃の話。

 最初の職場は救急外来であったが,研修医に与えられた仕事は診察ではなく「患者が搬送されてきたら即心電図を付け,次いで裏手に回って血液型のクロスマッチを行う」という裏方の仕事に尽きた。クロスマッチが終わると全速力で救急室に戻るのだが,既にそこには患者はおらず,ICUに入院していることはしばしばだった。「ハァハァ……先生,A型+です!……って誰もおらへんのかーい!」とひとり心の中でツッコミを入れつつ,ダッシュでICUに向かうという具合であった。

 結局3か月間そんな研修が続いてしまい,3日に1回の当直でフラフラだったというのも相まってか,その頃の救急外来での記憶は,冗談ではなくほぼない。想像とかなり違うERデビューから始まり,その後の外科研修でもなかなか身が入らなかった。特に始めの半年間は結構つらかったように記憶している。他病院で楽しそうに研修している友人の話を聞いては,「このままで大丈夫なのか……」と焦りを感じていた。そして気付けば1年が過ぎていた。

②卒後2年目。「これではいかん,心機一転頑張ろう!」と意気込み,たすきがけ病院の中で一番救急症例数が多く,何より学びが多いと噂の病院での研修を強く希望した。そこで出会ったのが府中病院救急部部長の藤本尚先生(現・阪南市民病院院長)であった(写真)。藤本先生にはERの楽しさを教えていただいた。手取り足取りというわけでは決してなく,どちらかというと放任的ではあったが,辛抱強く成長を見守り,何をやってもポジティブな声掛けをしてくださる先生であった。「医師って楽しい! なってよかった!」と初めて心から思ったのがこの頃だった。卒後3年目以降,藤本先生のもとで救急や集中治療を学ぶことにした。また一度先生のもとを離れても,阪南市民病院総合診療科の立ち上げの際にはお声掛けくださった。目を閉じていろいろ思い出すと,困難な時にいつも強力なエンパワーメントをくださるのが藤本先生だった。

写真 恩師の藤本先生(右)と。「これを書いていて,もっと孝行しなければならんと強く思いました。藤本先生,頑張ります!」(北氏)

③くじけそうなとき,時々聴いていたのが,NUMBER GIRLの「OMOIDE IN MY HEAD」。一時的にへこんだとしても,前をしっかり見て歩いて行こうと思わせ,強い心にしてくれる歌である。最近またよく聴いている。“俺はうすく目を開けて 閉じてそしてまた開く!!”のだ!

④当時は初期研修の教育システムの構築途上で,恵まれない環境で研修した人は多かったかもしれません。そして,今でも納得のいかない環境で日々戦っている研修医はたくさんいると思います。でもぜひくじけず乗り越えて欲しいと思います。どんな研修でも無駄にならないというのは嘘かもしれませんが,どんな研修でも無駄にしないようにすることは,自分次第,考え方次第でできるかもしれません。実際,拙い経験ではありますが,1年次・2年次,同じ放任状態でも視点が変わればぐんと成長することができたと思います。研修医のみなさん,くじけず頑張れーっ!!

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