医学界新聞

寄稿

2016.11.14



【寄稿特集】

アンマッチも悪くない!?
挫折や逆境は起爆剤!アンマッチがあって今がある


 2004年から医師臨床研修制度が義務化され,「マッチング」により初期研修の採用が決定するようになりました。医学生と研修病院とのお見合いとも言えるこの制度,10月20日に発表された2016年度内定率は94.8%でした。希望の病院に行くことがかなわなかった医学生の中には,人知れず落ち込んでいる方もいるかもしれません。しかしアンマッチは悪いことばかりなのでしょうか? 今回は,1次募集で応募した病院全てとアンマッチだった6人の先輩医師に経験談をご紹介いただきました。

こんなことを聞いてみました
❶経歴
❷アンマッチになったときの心境
❸アンマッチになったことが結果的にどうキャリアに影響したか
❹後輩への“アドバイス”
志水 太郎
原澤 朋史
助永 親彦
髙橋 宏典
山本 佳奈
樋口 慎一


本当にめざすべき学びは患者さんとの交流の中にある

志水 太郎(獨協医科大学病院総合診療科・総合診療教育センター 診療部長/センター長)


❶2005年愛媛大卒。江東病院で初期研修。その後,市立堺病院で後期研修・内科チーフレジデント,米エモリー大ロリンス公衆衛生大学院(公衆衛生学修士),豪ボンド大経営大学院(経営学修士),カザフスタン共和国ナザルバイエフ大客員教授,練馬光が丘病院総合内科ホスピタリストディビジョンチーフ,米ハワイ大内科,東京城東病院総合内科チーフを経て,16年より現職。

❷「応募したらマッチする」と何の根拠もなく思っていたので,結果を知ったときにはフリーズしました。ハハハ。一瞬,愛媛から実家の東京に帰れないという絶望のふちを見た気がしましたが,もともと気持ちの切り替えは早いので,アンマッチ者に提示される「まだ空きがある病院」のリストの中から東京の病院を選びました。考えていた病院ではない病院群からどれか一つを選ぶということだったので,「患者さんは病院ならどこにでもいる。あとは自分次第」という発想で吹っ切れて,日頃から好きだった銀座に近い立地ということ以外,あまり考えずに病院を選びました。

 病院の肩書きや教育スペック(そんなものは存在しませんが)だと思っていたものは,学生の憧れが頭の中で勝手に膨らませた亡霊のようなものです。「本当にめざすべき学びは患者さんとの交流の中にのみある」という考えが明確になって,逆に良かったのではないかという心境でした。この思いは今でも続いています。

❸結果的に何か影響したか? 少なくとも初期研修で江東病院に行ったからこそ,院長をはじめとした人間味のある良医の先生方に巡り合え,今でも続く私の診療スタイルの根幹が形成されましたし,そこから派生した多くの出会いもありました。そして,2006年3月4日に新宿NSビルで開催された勉強会に行き,医師キャリアにおける師匠である青木眞先生に出会えたのも,会場が病院から近く,またアンマッチだった病院の先輩が私をふびんに思ってか勉強会を紹介してくれたからです。一つひとつの出来事が運命的につながっていて,それがあって今の自分があります。今までの出来事は何一つ欠けて良いことはなく,全て意味があるのだと思います。映画『バタフライ・エフェクト』を思い出します。

❹仮にアンマッチになったところで,成長する人はどこに行こうが自分なりの改善策を見つけて,逆境と無関係に爆発的に成長している気がします。逆境というのはあくまで主観で,コインの裏表のように二面性があります。つまり逆境は新しい可能性でもあるのです。それに気付いて,「今いる場所で頑張る」と切り替える習慣を持った人は強いです。どこにいても自分なりにベストの学習環境をきっと作り上げると思います。逆に,初めから良い環境ありきでないとダメというマインドでいると,いつまでたっても受動的な姿勢が抜けきれず,ハングリー精神もなく,結果的に入手できるものもわずかになる可能性があります。期待と少しでも違うとクレームばかりで良いところを過小評価してしまう,という考えの傾向性を持つ温床にもなり得ます。アンマッチ,大いに結構です。早期に挫折を経ることになるのでレジリエンスを試されますが,そのトンネルを“ダークサイド”に落ちずにポジティブに頑張れば,その先には素晴らしい未来,“あのときの挫折はこんな意味があったんだ”というAHA momentがきっと待っています。応援していますね。


今度は自分が好きな病院を選べるやん

助永 親彦(隠岐広域連合立隠岐病院 麻酔科医長)


❶2004年阪市大卒。八尾市立病院で初期研修。その後,同院で麻酔科後期研修。同院麻酔科を経て,14年より現職。

❷マッチング制度元年であり,優秀な同級生たちはより良い研修病院を求め,あるいは就職浪人はしたくないと5~10個程度の病院を受験していた。学内試験で熾烈な下位争いを演じていた私だったが,なぜか心に焦りはなかった。自宅のある東大阪市立総合病院と,母校の阪市大病院の2病院を希望したがいずれもアンマッチ。

 東大阪市立総合病院は都市部の市中病院であり,かなりの人気であったため,倍率も5倍くらいだったと記憶している。案の定,落選。しかし,さすがに母校の阪市大病院は受かっているだろうと思っていた。筆記試験は自己採点でも6割以上あり,面接も面接官はお世話になっていたゴルフ部顧問の教授。「勉強はできないみたいだけど,面接は満点だ」とのお言葉もあり,すっかり受かった気になっていた。アンマッチの原因は,筆記試験の内容が前年度の国家試験必修問題で,周囲は軒並み満点であったことだろう。やっぱりもうちょっとは勉強しておくべきだったかとは正直思った(結果的に私が国家試験に受かったことを受けて,「卒業生をアンマッチにするとは何ごとか」と教授会が開かれたとか開かれてないとか……)。

 しかし,2次募集の一覧を見たとき,こう思った。「今度は自分が好きな病院選べるやん」と。私以外の同級生たちは皆マッチしていたが,皆で私の研修先を探してくれたことも忘れられない思い出だ。

 結局2次募集で,八尾市立病院を受けることとなった。結果的に同病院で麻酔科を専攻し,専門医をとった9年目まで在籍。性格はいたって普通だと思うが,初期研修から9年間を同じ市中病院で過ごし,一度も医局人事に属さず,10年目から現在の隠岐病院(島根県・隠岐の島町)で麻酔科医として勤務している経歴はかなり変態級ではないかと思っている。

❸医者家系に生まれた私にとって,自分の人生を自分の決断で選んだ! と胸を張って言えることはほとんどなかった。人生ふらふら生きてきて気付くのが遅かったが,アンマッチこそが自分の医療者人生のターニングポイントであったと思っている。麻酔科医不在の隠岐の島に赴任することを決められたのも,長いものに巻かれない,自分の意思を大事にすることができるようになったからだと思っている。

❹アンマッチになって悲愴な顔をしている後輩がいたら,「アンマッチ? それがどうした? 良いこといっぱいあるで」と声を掛けたい。アンマッチのメリットを教えてあげよう。

1.2次募集においては自分が病院を選べるんやで
2.挫折を経験した君は知らず知らずに強くなってる(挫折を知らない医師よりははるかに)
3.今後人生の岐路に立たされたとき,自分の意思に向き合い選択できる能力が高くなってる
4.数年後,またこの医学界新聞のアンマッチ企画で投稿できるかもしらんで(笑)


場所ではなく,人との出会いが一番大切

山本 佳奈(南相馬市立総合病院 初期研修医2年目)


❶2015年滋賀医大卒。現在,南相馬市立総合病院で初期研修中。

❷アンマッチなら別の病院を探せばいいと思っていたが,実際にアンマッチになると予想外に落ち込んだ。だが研修先を決めないと,どんどん枠が埋まっていく。必死に2次募集している病院を探した。今になって思い返せば,希望した病院とは縁がなかっただけだと思うが,そのときはただただ振られたショックで何も考えられなかった。

❸アンマッチになったから,南相馬に行くことができた。生まれも育ちも関西の私にとって,東北はかなり遠い場所であり,選択肢に入ることはなかった。だが,アンマッチだとわかった数時間後に南相馬市立総合病院で2次募集をしていることを知り,「今しか行くときはない」と強く思った。

 原発から一番近い病院である南相馬市立総合病院の研修医だからこそ経験できていることはたくさんある。例えば,在宅診療科の研修だ。往診や仮設住宅での健康講話はかけがえのない経験になった。地元の催しにもかかわり,地域住民と触れ合うこともできた。地元の方に応援していただけていることはとてもありがたいことだ。また,住民から震災当時の話を聞けたことも,震災当時は関西にいた私にはとても勉強になった。さらに,南相馬市立総合病院では勤務後,医局に残って若手の先生が論文作成にいそしんでいる。東日本大震災後から現在までの間に48本もの英文論文が南相馬市立総合病院から出ており,私も論文を指導していただいている。海外から留学生がやってきたり,国内のいろいろなところから人が集まってきたりしている点も,私にとって良い刺激になっている。病院での研修とは直接関係はないが,初期研修中に『貧血大国・日本――放置されてきた国民病の原因と対策』(光文社)を執筆する機会も得られた。

❹アンマッチになっても,縁がある病院にはきっと行くことができる。たった2年間の初期研修病院が決まるだけの話なのだから,失敗だと思わないでほしい。研修先が1次募集で決まろうと2次募集で決まろうと,決まった研修先で頑張るかどうかは自分次第。場所ではなくて,人との出会いが一番大切。落ち込むとは思うが,この経験をバネに頑張ることができたら,きっと「あのとき,アンマッチで良かった」と思えるようになるだろう。


「○○なら成長できる」ではなく「自分がどう成長したいか」

原澤 朋史(厚生労働省医政局 地域医療計画課)


❶2009年群馬大卒。東京厚生年金病院(現・JCHO東京新宿メディカルセンター)で初期研修。その後,前橋赤十字病院高度救命救急センター集中治療科・救急科専攻医,同常勤医を経て,16年より現職。

❷東日本医科学生総合体育大会(東医体)も終わり,卒業試験に突入した頃だったでしょうか。正直細かいことは覚えていませんが,アンマッチという結果を目の当たりにして思ったのは,不思議と「あ,やっぱり」という感覚だったように思います。

 生まれは東京だったので,一度東京に戻ろうかな,などとぼんやり考えながら,4年生の後半ごろから病院を回り,10箇所以上見学しました。そして,救命救急センターを掲げている病院を中心に,初期研修で人気のある医療機関を合計6箇所受けました。しかしながら東医体への準備などから,試験対策を十分にできなかったこともあり,特に筆記試験の類いはボロボロ。結局のところ,受けたところのほとんどで手応えを感じていなかったので,仕方ないかな,と考えました。

 その後は,すぐに情報収集を始めました。同級生からたくさん情報をもらって,研修先を考え直しているうちに,ひとつ気付いたことがありました。いつの間にか自分は,「○○病院に行けば成長できるだろう」という考え方になっていた,ということです。あらためて,「自分はどうなりたいのか」,初期研修を通じてどう成長したいのか,そのために初期研修で何がしたいか,何ができるようになりたいか,その目的にかみ合う病院はどこか……ということを考えるようになりました。この考え方の変化は,長い目で見たときに,非常に良いものだったと思います。

❸2次募集で研修先を決める際に優先したことは,「内科系研修の充実度」「選択の柔軟性」「二次救急の初期対応の有無および主体性」などでした。最初に希望した病院群と大きく異なったのは,救命救急センターではなかったことです。いわゆる一次から二次救急への対応を主として担い,地域の患者さんたちを支えるような役割を持つ医療機関で研修をすることは,将来救急医を志す自分にとってはより広い経験を得られるという意味で合っていると考え,受験を決めました。卒業試験の合間に受験のため東京に来て,翌日に卒業試験を控えそそくさと帰る道中で合格のしらせを受けたことを今でも覚えています。

 アンマッチになった経験は,自分の進路について真剣に悩み,考えること,その結果としての選択に責任を持つことをあらためて教えてくれました。その病院でなければ出会えなかった人たちや,そこでの経験から進むことを決めた集中治療・救急の道での出会いは,かけがえのないものです。初期研修では患者に密着し地域に根ざした医療を,その後は救命救急・集中治療を含めた広い地域での医療提供体制を経験しました。現在携わっている医系技官という選択肢は,こうしたキャリアの中で急性期から慢性期までの広い範囲に渡ってさまざまなことを考える機会が得られたことが根底にあります。アンマッチになったことで今の自分があるということは,紛れもない事実だと考えています。

❹アンマッチになったこと自体は,受け入れるしかない事実です。希望した病院での研修ができず,残念な気持ちもあると思います。しかしながら,その後に選ぶ2次・3次募集で投げやりにならず,必死に考えることで得られるものはたくさんあります。自分と向き合う機会だと思って,悔いの残らないように頑張ってもらいたいです。「俺,アンマッチだったんだよね」は,月日がたてばネタの一つですから(笑)。


どのような研修をしたいのかもう一度考えるチャンス

髙橋 宏典(公益財団法人慈愛会 今村病院分院 初期研修医1年目)


❶2016年産業医大卒。現在,今村病院分院(錦江湾プログラム)で初期研修中。

❷中間発表で例年よりも倍率が高めであり,第1希望しか順位登録しなかったので,採用されなかったら必然的にアンマッチ→2次募集になるという覚悟はありました。そうは言うものの実際に結果を見たときは,画面にあっさりと示されたアンマッチ結果としばしにらめっこ。結果が変わるわけもないので,希望した病院とは縁がなかったのだと諦めました。折しも結果発表が卒業試験中だったので,まずは試験に専念し,試験が終了してから本格的に自分に合いそうな病院を探そうと気持ちを切り替えました。

❸まだ研修医1年目なので,アンマッチの経験がこれからのキャリアにどのように影響してくるか楽しみに追跡したいと思います。

❹アンマッチになった場合に何が困るかと言えば,情報量が圧倒的に少ないことです。マッチングに関してなら書籍もあるし,先輩方から話を聞くなど比較的情報を集めやすいのに,事がアンマッチになるとインターネットで検索してみてもなかなか集まりません。アンマッチになった先輩から直接話を聞く機会も少ないと思います。いつから動けばいいのか,どのように動けばいいのか……。実際にアンマッチになってみないとわからないことや不安に思うことがたくさんあります。2次募集になると病院によっては随時締め切りであったり,アンマッチになった他の同級生も動き出したりと焦る状況も生じてきます。

 しかしそういう状況だからこそ,慌てず浮き足立たずにもう一度どのような研修がしたいのか自分なりにしっかり考えてみると良いと思います。せっかくアンマッチになったのですから(positiveに解釈することが大事です),チャンスは有意義に使うべきです。私は学生時代から感染症に興味があったので,研修医自らがグラム染色をしていることを条件に病院を選びました。もちろんアンマッチという結果が出たときは多少なりともヘコみます。そんなときは志水太郎先生のblogにアンマッチの体験談がありますので,ぜひ読んでみてください。とても参考になると思います。

 個人的な意見ですが,マッチングでは滑り止め受験はしないほうが良いと考えています。「第1希望を通して,潔くアンマッチに」。極論に聞こえるかもしれませんが,そんな道があっても良いと思っています。自分で決めた道だからこそ,大変な研修医時代もきっと踏んばりがきくのではないでしょうか。自分を信じて,悔いのないマッチングを!!


初期研修はあくまで専門科を選ぶためのステップ

樋口 慎一(地域医療機能推進機構中京病院 形成外科診療管理責任者)


❶2005年名市大卒。茅ケ崎徳洲会総合病院で初期研修。その後,杏林大形成外科後期研修。静岡済生会総合病院,東京西徳洲会病院,大垣市民病院を経て,15年より現職。

❷私は生まれが岐阜,大学は名市大で東海地方を出たことがありませんでしたが,なぜか関東で研修しようと思い立ち,東京の有名な病院へ面接を受けに行っていました。大学のパソコンでマッチングの結果を知ったときはがくぜんとしましたが,定員割れが確実な病院はあえて受けず倍率の高い病院ばかり志望していたのですぐに気持ちを切り替えることができました。

❸❹これからマッチングを受ける方へのアドバイスは,アンマッチは病院を選び直すチャンスだと考え,滑り止めを受けないのも一つの戦略だということです。滑り止めはアンマッチになってからでも受けられます。私はマッチングに対して明らかに準備不足だったのでアンマッチでもあまり落ち込みませんでしたが,ショックを受ける方もいると思います。しかし,初期研修病院のネームバリューやアンマッチになったことによる将来のキャリアへの影響は全くありません。安心してください。

写真 初期研修病院での同期たちとの1枚。右端が樋口氏。

 初期研修はハードでしたが,体力に自信があった私には合っていて楽しく研修を終えることができ,重症患者の対応も困らない程度の力は身につきました。私の12年の職歴で最も精神的につらかったのは形成外科での1年目です。その時期には,過酷な初期研修を耐え抜いたことが心の支えになり,全身管理が得意なことで自己のidentityを保つことができましたが,精神面以外では初期研修を通して学んだことが現在の科で生かされる機会は少ないです。初期研修はあくまで専門科を選ぶためのステップだと思っていろいろな科を体験し見聞を広め,どの科が自分に合っているかをよく吟味してください。私の場合はもともとは一般外科を志望していましたが,外科の研修はとりわけ厳しかったため志望科を絞るときには自分のライフスタイルも考えて形成外科を選びました。もし別の病院に行っていたらまた別の専門科を選んでいたかもしれません。

 専門科に進む場合はほとんどが3年目に再スタートになります。そこからが勝負です。そして卒後10年が過ぎたころにようやく周囲との差を実感するようになると思います。同期と話すと皆口をそろえて“日々普通に頑張って仕事をしていたら周りが勝手に脱落して今の地位にいた”と言います。きっと皆さんも10年過ぎるころにこのことを実感する日が来るでしょう。

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