医学界新聞

寄稿

2016.05.23



【寄稿】

総合診療医が見た熊本地震の医療支援

小澤 廣記(諏訪中央病院総合診療科・家庭医療専攻医)


 長野県の諏訪中央病院で家庭医療・総合診療の専攻医(後期研修医)として勤務する私は,熊本地震発生7日後の4月21日から5日間,熊本県阿蘇市の阿蘇医療センター(写真❶)において,病院支援を中心に被災地での医療支援を行いました。被災地の様子や支援の経過,現地に行って初めて見えた課題について報告します。

写真 ❶阿蘇医療センターは阿蘇山の麓にあり,晴れた日には外輪山に囲まれた雄大な光景が広がる。

発生から1週間後,長野から被災地の阿蘇へ

 当院が阿蘇医療センターからの医療支援を打診されたのは4月18日のことでした。以前当院に勤務していた原毅先生(福岡市・がんこクリニック)からも,「阿蘇医療センターの医療資源が困窮している」との情報が入っていたため,当院としてどのような支援ができるか検討を始めている段階でした。私自身,大分県出身者ということもあり,「被災地のために何かできることはないか」と考えていた矢先だったので,すぐに手を挙げ,家族にも了解を得て出発に備えました。

 翌19日には現地への派遣が正式決定し,第1陣として当院院長補佐の山中克郎先生と私の2人が,診察道具と自活していけるだけの荷物を登山用のリュックに詰め込み,20日に長野を出発しました。

 その時点では熊本空港はまだ閉鎖していたため,大分県側からのアプローチを選択。大分空港に降り立ち,レンタカーを借りて阿蘇市に入ることにしました。大分県内は普段とそう変わらない様子でしたが,阿蘇市に入ると目の前の状況が一変しました。自衛隊の災害派遣車両が行き交う物々しい雰囲気で,電気や水道などのライフラインは復旧し始めたばかりでした。震災で崩落した阿蘇大橋は熊本市との交通の要所だったため,物流が滞り,阿蘇地域は“孤立”している状況でした。

あふれ返る患者,不眠不休の対応に疲弊する常勤医

 阿蘇医療センターに到着後,同センターの甲斐豊院長から被災後の状況について説明を受けました。阿蘇地域の中核病院である同センターは2014年に耐震・免震構造に建て直したばかりだったため,幸い建物の損傷はほとんどなかったそうです。一方,阿蘇地域にある近隣の医療機関のいくつかは,震災の影響で診療が不可能になったため,被災直後の週末16,17日には,同センターの救急外来は阿蘇地域から集まる患者さんであふれ返っていたそうです。124床,常勤医9人体制の同センターは発災以降,職員自身が被災しながらも,不眠不休で対応していたのです。いち早く到着したDMATの支援が入っていたとはいえ,外来・病棟を問わず患者さんの対応に当たっている常勤の先生方の疲労は,特に目立ちました。

 「まずは常勤医の先生方に休んでもらわねば」。これをわれわれの第一のミッションとし,総合診療外来・救急外来の診療や当直のサポートを行うことにしました。到着の段階で,諏訪中央病院には第2陣,第3陣と継続支援を要請しました。

感染症拡大に備えICTを展開

 救急外来ではDMAT・救護班からの応援もあり,一日あたり2~3隊がサポートに当たっていました。5日間と比較的長めの滞在予定だったわれわれが心掛けたのは,電子カルテなど現地のシステムにいち早く慣れて「阿蘇医療センターに溶け込んだ医師」として他のチームと協働することでした。

 外来での症例は,処方薬の継続希望や軽症の感冒症状・外傷などがほとんどでしたが,中には自宅の屋根の修繕中に転落した方,慢性疾患の増悪を来した方など重度の症例も見られました。高血圧症や糖尿病のような継続診療が必要な患者さんには,かかりつけ医につなぎ直す業務も必要でした。報道では,エコノミークラス症候群(静脈血栓塞栓症)の危険性が盛んに取り上げられており,心配して受診する避難者の方も数多くいました。

 活動初日の22日には「避難所でノロウイルスがはやっている」との情報が入り,対応に追われました。胃腸炎患者の大量受診に備え,感染症外来を病院1階の内視鏡室に立ち上げ,院内職員や支援に入っていたチームと協働するため,急ごしらえのICT(infection control team)活動を展開しました。

 胃腸炎患者が集中することで,院内での感染拡大の恐れもあったため,避難所の救護所に胃腸炎症状の方の隔離対応をお願いし,入院適応のある方の受け入れを他院に依頼するなどの体制を整えました。

DMAT撤収後の医療スタッフ充足が必要

 阿蘇地域全体への医療支援は,発災直後から同センター内に阿蘇地域のDMAT本部が設置され対応していましたが,われわれの滞在中には撤収となり,亜急性期・慢性期への移行時期に入りました。阿蘇地域ではその後,ADRO(Aso Disaster Recovery Organization)と名付けられた組織がDMAT本部を引き継ぐ形で結成されました。ADROは,医療チームや保健師だけでなく,リハビリスタッフや栄養士,歯科医師といった多職種の支援団体も出入りしていたのが特徴です。一方で,避難者の情報を収集する役目を一手に担う保健師が疲弊してしまうといった,マンパワー不足が大きな問題となり,被災地支援の難しさと新たな課題を目の当たりにしました。

 被害の大きい南阿蘇村の避難所を視察する機会もありました。胃腸炎の感染拡大が懸念された避難所でしたが,ノロウイルス胃腸炎予防についての手作りの啓発ポスターが貼られ,居住スペースは土足が禁止になっていました。劣悪な環境を想像していましたが,すでに保健師と日赤救護班が介入した後の24日の視察時点では「よく管理された避難所」という印象で,胃腸炎の封じ込めには成功しつつあるのではないかと安心しました。

震災早期から総合診療チームによる支援活動を

 活動最終日の25日には,すでに要請していた諏訪中央病院からの医療チーム第2陣(医師2人,看護師1人)が到着し,任務の引き継ぎとなりました。私たちが出発する際には,阿蘇医療センターの職員の皆さんが集まり,総出で見送ってくださいました(写真❷)。短い期間でしたが,現地の方々から信頼を得られたのではないかと感慨深い光景となりました。これで諏訪中央病院の第1陣としての活動は終了しましたが,当院の支援はゴールデンウィーク明けに派遣された第4陣まで継続し,入院診療も含めた支援業務に当たりました。

写真 ❷同センターの職員の方々と。前列右から3人目が院長の甲斐豊先生,その左隣が山中克郎先生,右端が筆者。

 今回の医療支援の経験から被災地の医療ニーズを振り返ると,発災直後の急性期でもほとんどはプライマリ・ケアとしての受診患者だったことが挙げられます。避難所でも衛生管理や静脈血栓塞栓症,廃用症候群の予防など,公衆衛生の視点を持って活動できるチームが必要とされていました。こうした状況を鑑みると,現在整備されているDMATに加え,われわれのような総合診療に携わるチームが,震災の早期から病院や避難所での支援活動を開始し,亜急性期以降につなげることも重要なのではないかと感じました。


おざわ・ひろき氏
2012年東大医学部卒。武蔵野赤十字病院にて臨床研修後,14年より現職。11年の東日本大震災では,日本プライマリ・ケア連合学会の支援プロジェクト「PCAT」の被災地派遣チームに医学生として同行し,医療支援に携わった経験がある。「被災地,熊本・大分の一刻も早い復興を祈っています」。

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