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HOME週刊医学界新聞 > 第3156号 2016年01月04日



第3156号 2016年1月4日


2016年
新春随想


「早い,うまい,安い」から「安い,早い,うまい」へ

山口 俊晴(公益財団法人がん研究会有明病院 病院長)


 牛丼屋さんで注文すると,あっという間に牛丼は目の前に登場します。食べると,その満足感は期待を裏切りません。そして勘定のときにはその安さに驚きます。「早い,うまい,安い」というキャッチフレーズは,牛丼屋に限らず,多くの事業に共通した要点を示したものといえましょう。2005年に有明に新病院を建設して移転したとき,臓器別Cancer Boardを中心としたチーム医療を推進することになりました。そのときに消化器センターのキャッチフレーズとしたのが,この「早い,うまい,安い(安全)」でした。患者さんが受診したら,1週間以内に診断を確定し,2週間以内に治療を開始する,しかも最高の技術で安全に,という意味が込められています。

 その後10年経過しましたが,診療科間の壁を取り除くことで,1週間以内に診断し,2週間以内に治療に取り掛かるという目標は,消化器センターでは達成することができました。しかし,2000年以降,患者さんは高齢化してそのリスクも極めて高くなってきました。また,薬物治療の進展,低侵襲治療の導入など,治療も高度化,複雑化してきました。このような新しい状況のもとで癌診療を安全に行うためには,優れた全身管理体制と,適切な安全管理体制の構築が必須です。つまり,癌専門病院がその専門性だけでもてはやされた時代は終わりつつあり,安全にかかわる体制を確立できない癌専門病院は存在し得ないのではないかと感じております。

 昨年は,医療安全管理の模範となるべき特定機能病院での,安全管理上の不祥事が続きました。今求められているのは,何より安全で安心できる医療です。キャッチフレーズの順番を「早い,うまい,安い」から「安い,早い,うまい」に変えるべき時が来たと思っております。ちなみに,牛丼屋さんのホームページを見ると,すでに食材の安全性が強調されておりました。


健康と幸せのための4つの因子

前野 隆司(慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科 教授)


 年初にふさわしく,幸せについてのお話をしたいと思います。英語にwell-beingという単語があります。英和辞典を引くと,健康とも幸福とも訳されています。直訳すると,良い状態であること。健康とは,身体的,精神的,社会的に良い状態にあることであり,幸福とは精神的に良い状態であること,つまり,幸福は健康の一部ということになります。実際,「Happy people live longer」という題名の有名な論文に書かれている通り,幸せな人は長寿であることが知られていますし,アンケート調査で求めた主観的幸福は身体的な健康と高い相関を示すことも知られています。よって,幸せな心の状態を維持することは,予防医学的にも精神医学的にも極めて重要というべきでしょう。

 私が行ってきた研究のひとつに,主観的幸福の心的要因の因子分析研究があります。それによると,幸せの4つの因子とは,①やってみよう因子(自己実現と成長),②ありがとう因子(つながりと感謝),③なんとかなる因子(前向きと楽観),④あなたらしく因子(独立とマイペース)です。つまり,幸せな人(=健康な人)とは,①夢や目標を持ち自分のやりたいことを生き生きとやっていて,②多様な友人がいて,つながりに感謝し,社会に貢献していて,③前向きで楽観的に過ごしていて,④人の目を気にし過ぎず自分らしく生活している人といえそうです。幸せな人とは,4つの因子を併せ持っている人です。しかも,4つの因子のどれかを高めると他も高まり幸せになっていくようなのです。

 そこで,私は,幸せ度を高めるハッピーワークショップという活動を行っています。①夢や目標および②感謝していることを書き出して皆とシェアしよう,③前向き・楽観的になれないことや④自分らしくできていないことを書き出して,これからは前向き・楽観的に自分らしくやると宣言してみよう,というグループワークです。これらを行うと幸福度が上昇します。みなさんも,幸福度を高め,健康な1年をお過ごしください。


活力ある超高齢社会をめざして
――高齢者の定義を再考する

大内 尉義(国家公務員共済組合連合会虎の門病院 病院長/日本老年医学会前理事長)


 現在,多くの国で高齢者は65歳以上と定義しているが,これには生物学的,医学的な根拠はまったくない。一説によると,かのプロイセンの鉄血宰相ビスマルクが,まだ平均寿命があまり長くなかった時代に,年金の受給年齢を65歳にしておけば国家財政に大きな負担にならないだろうとしたことが由来だという。やはり65歳以上を高齢者とするわが国においては,近年,個人差はあるものの,65-75歳の前期高齢者は若くみえる人が多く,この年代を本当に「高齢者」と呼んでいいのかどうか迷うことが多い。実際,内閣府の最近の調査でも,何歳以上を高齢者とするかという問いに,70歳以上あるいは75歳以上と答えた人が最も多く,80歳以上という回答がこれに次いでおり,65歳以上という回答は5%程度と低かった。

 このようなことを背景に,日本老年医学会では,高齢者の定義を再検討している。いろいろなコホートでの追跡調査のデータを調べると,歩行速度,握力などの運動機能,活動能力指標でみた生活機能,疾病の受療率や死亡率,知的機能,残存歯数に代表される咀嚼能力など,多くの身体機能が以前に比べて5-10歳若返っていることが示されており,人々の実感に合致していると思われる。2015年度中に報告書をまとめ,その内容を公表する予定であるが,実は,この検討の真の目的は高齢者の定義を何歳と決めることではなく,高齢者が社会参加できる仕組みをつくり,活力ある超高齢社会を実現する重要性を再度提起することである。

 2015年6月開催の日本老年医学会学術集会の折,日本老年学会と日本老年医学会が合同で以下のような声明を発表した。「最新の科学データでは,高齢者の身体機能や知的能力は年々若返る傾向にあり,現在の高齢者は10-20年前に比べて5-10歳は若返っていると想定される。個人差はあるものの,高齢者には十分,社会活動を営む能力がある人もおり,このような人々が就労やボランティア活動など社会参加できる社会をつくることが,今後の超高齢社会を活力あるものにするために大切である」。

 世界に先駆けて超高齢社会に突入したわが国にとって,明るくプロダクティブな社会の実現は国民全員の願いである。われわれの検討がそのために役立ち,健康長寿社会の構築のための道筋の一つを世界に向けて発信できればと思っている。


海外からの感染症の流入を防ぐ
――国際保健規則に則った戦略を

谷口 清州(国立病院機構三重病院 臨床研究部長)


 2015年5月,韓国で一人の輸入例からはじまった中東呼吸器症候群(Middle East Respiratory Syndrome;MERS)の流行は瞬く間に拡大し,日本にも入ってくるのではないかと危惧された。03年に中国の広東省に端を発し世界を席巻した重症急性呼吸器症候群(Severe Acute Respiratory Syndrome;SARS)は,当時は日本では報告されなかったが,日本に入っていなかったわけではなく,単にSuper-spreading eventが発生しなかったので認識されなかっただけであろうというのが世界の共通認識であった。

 言うまでもなく,現在のグローバル化した世界では題名にあるような海外からの感染症の流入を防ぐことは事実上不可能である。国際的な健康危機管理の枠組みである国際保健規則(International Health Regulations;IHR)では,感染症の国際伝播を防止する戦略として発生地での早期探知と早期封じ込めが最も重要だとしている。各国が自国内で発生したものを早期に探知して対応すれば,国際的伝播は発生しないというわけである。すなわち,日本への流入を防ぐという視点ではなく,国際社会の一員として,発生地や日本において国際的な感染伝播を防止するという視点から考えていかないと解決にはならない。

 Global villageの一員として,発生地となった海外の地域での対策支援を積極的に行うことは上述の戦略上も重要であり,現在もJICA国際緊急援助隊に感染症対策チームを設置するなどの動きが見られる。一方,万が一日本に入ったものは早期に探知し封じ込めて他国への感染拡大を許さないことも要求される。他国を支援している間に日本で広がっては本末転倒である。前述のIHRでは,アウトブレイクの早期探知の手法としてEvent-based surveillance(EBS)とリスクアセスメントを,重症例の早期探知としてSARI(Severe Acute Respiratory Infections)サーベイランスを推奨し,世界各国はこれらを基本として体制整備を行っている。

 国際的な支援も大切であるが,現状は灯台下暗しである。残念ながら国内ではIHRの勧告に応じた体制はいまだ整備できていないのである。2020年には東京オリンピックもあるが,海外からの渡航者が増加すれば当然国内での感染症アウトブレイクのリスクも増大する。日本において国際伝播を防止しないといけないのである。新春を迎えて,外だけを見ているのではなく,もう少し国内での危機意識を持って,日本に入ったものを早期に探知し封じ込めることのできる体制を整備していかねばならないのである。


近未来の予想図を描く

柳橋 礼子(聖路加国際病院 副院長・看護部長)


 1990年以降,全国の看護系大学は急激に増加し,2014年度には234校と報告されている。1991年度は11校であったことを考えると,看護学は学問として認知され,看護教育は発展の一途をたどっていると言える。厚労省の「衛生行政報告例」によると就業看護師数は約108万7000人となり過去最高を記録した。現在進行中の医療制度改革では,社会の人々からの看護への期待はさらに高まり,多くの女性が選択する「魅力的な専門職」としても期待を寄せられている。看護系大学の急増は,大学の学生獲得のための戦略だけでなく,社会から広く評価されている結果と思いたいところである。

 私の勤務する聖路加国際病院は海外の看護職者や教育者の訪問が多い。米国からは,上質な看護ケアを提供する専門看護師(CNS)や,博士課程を修了したDNP(Doctor of Nursing Practice)が来校し,高度実践看護師の教育プログラムについての講演会や病院見学の際に情報交換をする機会もある。米国では博士後期課程でのDNPプログラムが開発されており,医療の高度化が進む中,看護実践能力を引き上げることが求められている。

 また,アジアの国々の看護管理者グループの見学を受けることも多く,看護師の評価制度と報酬制度について情報交換を求められる。中国の多くの病院では,実施できる医療行為を基に病院幹部が看護師を評価し,等級付けするという。上級と位置付けられると報酬にも反映されるとのことだ。日本ではどのような評価制度を用いているのかが,重要な関心事のようであった。

 各国の医療政策,医療経済の状況が,看護師の実践能力評価の構成要素にも影響を与えている。日本では特定行為研修を実施する研修機関の申請が開始された。また病床機能分化が進められることにより,さらに専門分化された看護実践能力が重視されていくであろう。団塊の世代が後期高齢者に達する2025年以降は,日本の人口はさらに減少していく予測である。30年後の2046年はどのような社会になり,どのような看護サービスが求められているだろうか。30年後の近未来の予想図を描けるかが,その鍵を握っている。


人間愛による人間看護
――看護の原点

山田 里津(一般社団法人日本看護学校協議会 名誉会長/医療法人鳳生会 理事)


 2015年5月12日,私はフローレンス・ナイチンゲール記章授与という至上の栄光に浴しました。ただ感動の極みであり,わが人生の誇りと厚く御礼を申し上げます。

 私の人生を振り返ると,少女時代から青春時代を戦時下で過ごし,終戦の1945年に学業を終え日本赤十字社の看護師となり,GHQの指令により三重県庁の教育民生部看護係に就任,GHQ東海北陸軍政部と兼務することになった。まず取り組んだことは,民主国家としての医療制度改革であった。当時の医療の現場は,ともすれば弱者・強者の関係に陥りやすく,患者中心の,人間性を重視した医療の実現が急務であった。そして医師の助手的存在から,患者の側に立つ真の看護の在り方を求めた施策が要請された。家族の付添看護は廃止,全面的に看護師がかかわる看護体制は社会の高い評価を受けた。看護師も専門職として確立するとともに,看護師自身もその自覚を持つこととなり,大きな発展がもたらされた。医師,歯科医師,薬剤師と同格の国家資格の法制化から出発した看護のルネサンスである。

 旧厚生省看護課で看護師係長の任に就き,保助看法諸規則にかかわる全ての根本的改正に取り組むこととなった私は,「病気の看護」ではなく「病気を持つ人間の看護」を人間看護学として構築すべく,カリキュラムの改正に取り組んだ。

 1963年,厚生大臣の諮問機関である医療制度調査会の答申では医療概念の拡大が述べられ,看護業務の明確化の必要性が強調された。1967年に指定規則の改正,公布に至った(3年課程)。次いで保健師助産師課程のカリキュラムも改正となったのである。この答申では,日本の医療が病気中心で人間を見ていないことが指摘された。「患者中心の医療」を問うことになった出発点と言ってよいだろう。この作業を行政官としてやり遂げた充実感を私は忘れない。

 戦後70年にして日本の看護は世界に誇れる発展を遂げたが,課題は山積している。しかし人生は,しっかりとした目的があってこそ充実させることができるし,前進もできる。在宅医療が推進される中では,看護の役割はますます拡大し,高い質が要求されるようになるであろう。そして,中心的存在として責任を果たすことになると期待される。

 私は,机上の空論でなく,実際の現場で新しい看護学教育をすることを志し,三井記念病院高等看護学院の創設にも当たった。日本初の看護師の学校長として,自ら壁を破り志高く勇気をもって就任した。以来40年,看護師の養成に携わった。素晴らしい学生が育ってくれた幸いを大切にしている。

 「いのちを育む学問が看護学である」。私の哲学であるが,「いかに育むか」が私の永遠の課題でもある。

 世界で一番美しいものは,全てのものに愛情を持つこと
 世界で一番楽しく立派なことは,一生涯貫く仕事を持つこと
 世界で一番尊いことは,人のいのちに奉仕する無償の愛である

 以上3つを備える職業こそ,看護師であると私は確信する。人間は時間の中に生きている存在である。時間の概念は人間のみに通用する固有のものであり,不安や悩み,苦しみこそが創造の母体となる。生きる糧なのである。だからこそ生きる目的や楽しみが存在すると,私はいつも考えている。

 フローレンス・ナイチンゲール記章は静かに重く私をみつめる。


漱石没後百年

高橋 正雄(筑波大学大学院人間総合科学研究科生涯発達科学専攻 教授)


 今年,すなわち2016(平成28)年は,夏目漱石の没後百年の年である。漱石は,今から100年前の1916(大正5)年12月9日,胃潰瘍の大出血により満49歳で亡くなったのである。

 漱石は,晩年の書簡で,「私は多病でいつ死ぬかわからない人間です」(1914年11月8日笹川種郎宛),「私は始終からだ悪くて困ります。まあ病気をしに生れに来たような気がします」(1916年5月6日鬼村元成宛)と語っているように,その50年に満たない人生で,神経衰弱をはじめ,トラコーマや胃潰瘍,痔や糖尿病など,さまざまな病いに悩まされたが,漱石の作品には,彼が自らの病いをどのように受け止め,どう対処したかが,さまざまな形で描かれている。それは,われわれが,漱石の人生や作品を通じて,当事者が何を考え,自らの病いにどのように立ち向かい,周囲にはどのような対応を望んでいるのかという,いわば患者の側から見た病いというものを知り得ることを,意味している。漱石の人生と作品は,患者が病いに一方的に支配・圧倒されるだけの存在ではなく,本人なりにさまざまな対応・工夫をしながら成長し得る存在であることを,教えてくれているのである。

 また,漱石の作品には,体格と性格の相関や心身相関にかかわる記述の他,精神療法的な態度や天才と精神障害の関係に関する病跡学的な認識など,同時代の精神科医を凌ぐ先駆的な洞察が含まれている。漱石の神経衰弱については数多くの研究がなされてきたが,漱石には優れた精神医学者・精神療法家・病跡学者としての側面をみることもできるのである。そしてそれは,「良き患者は良き治療者たり得る」ことや,「優れた患者は優れた病跡学者たり得る」ことを示唆している。漱石は自らの身をもって,いわゆる精神障害者が持つ可能性を示した人物なのである。

 その意味では,漱石は,さまざまな差別や偏見に悩まされながらも,懸命にそれぞれの人生を生きている精神障害者に,生きる勇気と希望を与えてくれる存在でもある。特に,その創作を通じてどうすれば神経衰弱者を癒やし得るのかを考え,精神障害者に対する理解と共感という点では世界に冠たる作品を残した漱石の姿を見ていると,漱石の没後百年に際して,当事者が自分と似たような病いを抱えた人物の研究をするピア病跡学の可能性や病跡学療法というものの有効性を,あらためて考えてみたくなるのである。


医師の自己犠牲がなくとも「良い医療」が成り立つ社会を

藤巻 高光(埼玉医科大学医学部脳神経外科 教授/働く女性医師の夫の会 主宰)


 「君はまだ脳外科医として何もできないのだから,患者さんのそばにずっといなさい」。35年前,卒後すぐに配属された病院の部長に言われました。洗濯や食事(や飲み会)以外は半年間ずっと病棟に泊まり込みました。次の半年は大学病院の狭い研修医室に3人で泊まり込みました。患者さんは弱い存在なのだから,医師は全てを犠牲にして当たり前と思っていました。1年目の医師でも,病棟にいることでいち早く急変に対応できるのだと。実際それで救えた命もありました。

 先日,後期研修先に迷っているある研修医と話をしました。「心臓外科は興味があるけれどそこまで人生をささげられる自信はない」。若い医師の考え方は変化しています。医師の自己犠牲で成り立つ「良い医療」はもはや時代遅れです。年に365日×24時間働く医師に家庭生活はなく,子育てもできません。医師が普通に生活して良い医療ができる,そんな社会の仕組みをつくらなくてはいけないと思っています。

 「働く女性医師の夫の会」なるものをWeb上で名乗って今年で20年目になります。女性医師支援活動を行う妻とともに男女共同参画を考えてきました。この間に院内保育所,短時間正規雇用,就労・復職支援など,女性医師の働く制度や環境は随分整備されました。しかし最も重要なのは医師自身の,さらには社会全体の考え方だと思います。部長や教授として活躍する女性医師はまだ少数です。医師夫婦の保育園のお迎えはお父さん? お母さん? 末期患者さんの急変時の対応が当直医のみでは不満なご家族はいないでしょうか? 医師は滅私奉公が当たり前という意識が医療の在り方に影響していないでしょうか? 

 「脳外科医として少しは何かできる」。今も気持ちは患者さんにずっと寄り添っています。しかし,社会は少しずつ動いています。まだ道半ばですが,個人としての医師が自己を犠牲にせずに良い医療ができる社会をめざして進んでいきたいと思っています。


ドローンが変える救急・災害医療の現場

小澤 貴裕(国際医療福祉専門学校 専任教員・救急救命士)


 2015年4月,小型無人航空機Drone(以下,ドローン)は首相官邸への落下事件により一躍有名となりました。以前から救急・災害医療におけるドローン活用を研究していた私は,事件の影響でドローンの活用が先細ってしまうのではないかと落胆しました。しかし予想とは逆に,多くの方がドローンの存在を知ったことで,その有用性も認識されるようになりました。現在はドローンによる救急・災害医療現場の「迅速な状況把握」と「医療機材や薬剤の搬送」に取り組んでいます。

 従来のプレホスピタルケアにおいては,119番をもらってから現場に到着するまでの間は現場の状況がわかりませんでした。どのような編成で救急救命士らを出動させるかは,通報で得た情報から判断しており,予想より規模が大きかった場合には先着隊の状況評価に基づいて応援隊を要請する必要がありました。近年ではICT化が進み,ウェアラブルカメラを装着した先発隊が現場の様子をリアルタイムで消防指令室に送信したり,ドクターヘリの医師がカメラを装着し,現場の様子をヘリ運搬元の病院と共有できたりするようになっています。そこからさらに一歩進み,119番通報が入り次第,ドローンを現場に飛ばすようにしたいと私は考えています。ドローンは無人ですぐに出発でき,道路の渋滞などの影響もなく,時速約60 kmの直線飛行で到着できます。ドローンに付けたカメラを通して,事故現場の俯瞰映像を消防指令室に配信できれば,状況把握までの時間が大幅に短縮できます。さらに,救急車が到着するまでの間に,現場に居合わせた人(バイスタンダー)と医師や指令室員がカメラを通してお互いの顔を見て応急処置の指示をすることも計画しています。

 特に心肺停止状態の場合,蘇生処置開始までの時間が生命を左右します。ドローンによるAED搬送を併せてできるようになれば,多くの命が救えるのではないかと考えています。

 一方,ドローンによる医療機材や薬剤の搬送には課題もあります。それは,飛行可能距離と搬送重量に限りがあることです。現在,長距離・長時間運用可能な有翼型垂直離着陸機を現場に投入する準備を進めるとともに,距離に応じた機体編成を3種類用意し,クラウド技術でコントロールする実験をしています。また,現場で使用する現在のドローンの操作には経験とコツも必要なため,関連校3校で9機を配備して希望する学生に訓練をさせています。

 救急・災害医療の最前線での情報戦に革命をもたらすと期待される医療用ドローン。2015年の救急の日には,より高度な災害・救急用途にすべく,ドローン・IoT(Internet of Things)・クラウドの連携による自動無人航空支援システムの研究・開発をめざした,各分野の有識者との合同プロジェクト「Project Hecatoncheir」が発足しました。2年以内の実用化をめざした研究が今,進んでいます。


食から人を支える

大谷 幸子(淀川キリスト教病院ホスピス・こどもホスピス病院/淀川キリスト教病院 栄養管理課課長)


 「食べへん,見るだけでええねん」。そうつぶやき,窓の外に目をやり遠くを眺めたのは,私の職場,淀川キリスト教病院ホスピス・こどもホスピス病院の入院患者さんでした。当院では毎週患者さんのあらゆるリクエストに応える食事を提供しています。私はここで患者さんの希望を聞き取りに行く管理栄養士です。

 終末期の患者さんたちのリクエストを聞きに行くと,食事シーンにつながるさまざまな物語と出会います。その限りある時間の中でよみがえる物語は,たいていが“幸福感”へとギュッと凝縮されるように感じます。この方の問わず語りも,子どものころ,仕事に出る母親が作り置いてくれた夕飯のお弁当の話で,よく入っていた牛カツ,牛しぐれ煮,卵焼き,ウインナーなどの食事を希望されたのです。しかし,その患者さんには強い牛肉アレルギーがあり,戸惑う私を見て冒頭の言葉となったのでした。アレルギーが発症するずっと前のことだと。

 およそ,人も動物も栄養摂取なしでは生きられず,食事はその最たる供給源です。しかし,終末期のほとんどの方は食欲が低下し,思うようには食べられません。そのような患者さんが希望する食事は,身体よりもむしろ心の栄養源となり,過ぎ来し日の幸せを反すうする元になるのだろうと思います。故に,患者さんがイメージする食にどこまで近付けるか,提供する側の力量が問われ,詳細な情報を求めて管理栄養士のキャリアを全て注ぎ込むところです。

 静かに語り始めた患者さんも,話すほどにかつての子どのような屈託のない笑みがこぼれ,その表情に胸を打たれます。この瞬間にこそ,私は,食を通したスピリチュアルケアを確信し,そこにかかわる喜びを感じます。日頃より「食から人を支えたい」という思いを持っていますが,実のところ,私自身が「患者さんから支えられている」のかもしれません。

 新たな年を迎え,今年もまた患者さんとさまざまな物語に出会えるようにと願っています。


「全国医療的ケア児者支援協議会」の発足

駒崎 弘樹(全国医療的ケア児者支援協議会 役員/認定NPO法人フローレンス 代表理事)


 保育園での障害児の受け入れは,日本でも進みつつあります。しかし,障害が軽度であれば預かれる保育園でも,医療的ケアが必要な子ども(以下,医ケア児)となると難しいのが現状です。それは医療的ケアに対応できるスタッフ(主に看護師)の不足により安全性を確保できないからです。一方で,医ケア児や重い障害のある子どもを預かることが可能な障害福祉サービスとして,療育を目的とした「児童発達支援事業」が挙げられます。しかし,母子分離で通所できる児童発達支援事業所は数が少ない上に,その多くが毎日利用できるわけではなく,利用時間も1-5時間程度と限られています。つまり,医ケア児を長時間・柔軟に預かることのできる施設は,今の日本ではほぼゼロに等しいのです。

 障害児保育にまつわる問題はこれだけではありません。新生児医療の発達により,都市部を中心に新生児集中治療室(NICU)が増設され,超低出生体重児や先天的な疾病を持つ子どもなど,以前なら出産直後に亡くなっていたケースでも助かることが多くなってきました。その結果医療的ケアを必要とする子どもの数は増加傾向にあります。

 障害があってもなくても,全ての子どもたちが,生き生きと過ごす場所があり,その家族が笑顔で子育てができる,そのような社会をめざし,私たちは,「全国医療的ケア児者支援協議会」を発足しました。現在,医ケア児の支援に熱心に取り組まれている議員や関連省庁の方がメンバーを連ねる「永田町こども未来会議」に当協議会も参加し,協議会に寄せられる声を政治や行政にじかに届け,具体的な政策提言を行っています。今後の予定としては,関係団体と協力し,医ケア児を取り巻く環境について多くの方に伝え,さらには,医ケア児を支える人材を輩出する研修を開催していきたいと考えています。


私が現場に戻ったなら

和田 美紀(アイザックス症候群りんごの会 代表/看護師)


 10年ほど前,私は病院勤務の看護師でした。今はアイザックス症候群という希少難病の患者です。アイザックス症候群は末梢神経の異常により,筋の痙攣・硬直・痛みなどが生じる疾患で,根本的な原因は明らかでありません。難病患者となったことで身をもって知ったのは,「患者の弱さ」の部分でした。身体的・精神的なダメージはもちろん,じわりとのしかかる経済的ダメージもあります。あらゆる重みによって患者の力は減退し,あっという間に八方塞がりになってしまうのです。

 そんな日々を送る中,2015年7月,ついにアイザックス症候群は「難病の患者に対する医療等に関する法律」に基づく「指定難病」に追加されました。「発信していかなければ,皆にわかってもらえない。患者も強くならなくては!」。そんな思いに駆られ,多くの方の協力を得ながら行った私たちの活動は実を結びました。強くなれば何かを変えられる。願いはきっと叶う。私にとって印象深い経験となっています。

 今,私が描くもう一つの大きな願い。それは現場復帰です! 白衣を着て,本当の意味で患者の気持ちに寄り添える看護師として働きたいのです。患者生活を過ごす中では,「自分はどんな看護師だったか」を振り返ることがあります。それで反省したのが,なにげなく使っていた「お変わりないですか?」という声掛け。このフレーズは,看護師にとって都合がいいものだったと気付きました。患者側はどれぐらいの変化が,“伝えるべき変化”なのかがわからない。多忙そうな看護師相手には,よほど大きな異常がない限りは「変わりありません」と答えてしまいます。患者側も常に気を遣っているものなのです。パソコンばかりに目を向け,忙しい雰囲気を漂わせ,「話しかけないで」オーラを発している……入院中は,患者視点では看護師がそのように映ることもありました。さらに気付いたのは,院内において「それほど重症ではない患者」への看護が,手薄になっていたかもしれないということです。重症者だけが患者ではありません。何かが起こる前に察知することも看護師に求められることではないのでしょうか。患者さんは待っています。全ての患者に平等に,手を差し伸べてください。声を掛けてみてください。

 私が現場に戻ったなら。この気付きを生かして,弱い立場に置かれた患者さんに寄り添い,支え,守れる看護師をめざしたい。それが今の願いです。


栗拾いから地域ケア

飯田 大輔(社会福祉法人福祉楽団 常務理事/介護福祉士)


 晩秋,私が勤める特別養護老人ホーム「杜の家くりもと」の電話が鳴った。近所に住む沢井さん(85歳)というおじいさんからで「明日,栗拾いを手伝ってくれ」と言う。「杜の家くりもと」は成田空港にほど近い農村にある。介護男子のキュウちゃんと,相談員のアキコさんが指定の場所に車を走らせる。着くと,軽トラックの荷台に軍手や籠が用意してあった。「さぁ拾え」と早速仕事に取りかかり,やがて籠は栗でいっぱいになった。

 杜の家では,「5」の付く日に,「ごはんの日」という食事会をやっている。引きこもりがちな地域の人を呼んで,みんなでご飯を食べる。送迎付きで,無料でご飯を振る舞うものだから,はじめは「布団でも買わされるのではないか」と怪しむ人もいたが,今では常連さんもできて定着しつつある。

 栗をたくさん拾ってきたので次の「ごはんの日」は,栗ごはんを炊こうということになった。沢井さんも誘ったが入院してしまったので,みんなで沢井さんを案じながら,ご飯の席で四方山話に花が咲く。すると,一人のお年寄りが「沢井のじいさんは,あすこで栗の山を持っていたか? あれは伊藤さんの山じゃなかったか?」とポツリ。キュウちゃんもアキコさんも「えーっ」とびっくりした後,みんなで笑った。

 日本の国土のうち70%は森林で,12%が農地である。8割以上を占める山と田畑が荒廃してきていることが地域の問題として顕在しつつある。山や畑,さらには屋敷の周りに手を入れ,整えておくことは地域に対する「あいさつ」のようなものだ。法的な所有権が誰にあるかによらず,地域での慣行や義務が存在し守られてきた。沢井さんとのかかわりは福祉施設の職員がそうした「地域」を体感し,人と自然を一緒にケアしたとも考えられる。

 地域包括ケアという言葉を聞くようになって久しいが,その概念はいまだに誰かが誰かをケアするという“一対一”の関係性から脱しきれていないように思う。地域を俯瞰した目,地理的な視点が重要になってくる。沢井さんは,「地域」が崩れかけ,山が荒れていくことが気掛かりだったのかも知れない。そういう「個人」と,森林や農地という「自然」を,新しい形でつなげていく役割がこれからのNPOや社会福祉法人には期待される。そうした取組みが安心して生活できる地域をつくっていくことになるだろう。


命ひとつ。
――その先に,あるもの

國森 康弘(写真家/ジャーナリスト)


 爆発や銃撃に巻き込まれて,あるいは栄養失調に追い込まれて亡くなっていく子どもたちの姿を,イラクやソマリア,スーダンなど訪れた国々で目の当たりにしました。戦争や貧困は,人が起こすもの。その人災がなければ,この子たちはもっと生きることができて,その多くが将来結婚し,子を授かることもできたでしょう。未来につないでいけたはずの命のバトンリレーがブチリと,断ち切られる冷たい現場の数々でした。そんな冷たい死をどうすればなくすことができるのかを考えながら報道を重ねてきました。

 ――あたたかい死というものは,あるのだろうか。滋賀県東近江市の永源寺地域の民家。息が止まりそうなおばあさんに向かって,娘さんが手を握り,言います。「ありがとう……,もう……ええよ」。その言葉を聞いて,安心するかのように,おばあさんは完全に息を引き取りました。その目からは,涙がこぼれています。娘さんも,ぽろぽろりと粒を落としながら,おばあさんにほほ笑みました。「これで,ええんやね」。孫やひ孫もおばあさんに触れました。別れの悲しみ,寂しさの中に,充足感,もっといえば生命力までをも感じました。

 命を全うする,あたたかさ――。私たちは,これを知り,これをめざすのではないでしょうか。自分や家族ら身近な人たちだけではありません。イラクやシリアの子どもたちが,世界中の人たちが,授かった命をおのおの生き切り,寿命を全うできる世を,実現させるのではないでしょうか。

 一人ひとりの命には必ず終わりがきます。90年,100年生きられる方もいれば,幼くして病で亡くなる子もいます。それでも,死の先には続きがあります。残る者が,亡き人の分も,大切にいのちを次につないでいく,という続きです。あたたかい看取りの先にみえる,「いのちのうみ」を写し込みたい。そう,願います。