医学界新聞

寄稿

2014.05.26

【寄稿特集】

Sweet Memories
宝物は人生の最初のほうで見つかったらつまらない


 先輩ナースに理不尽な怒られ方をしたり,手技がうまくいかずに落ち込んだり。新人ナースの皆さんは今ごろ,不安と緊張の連続ではないでしょうか。でもそんな日々も,いつかは思い出に変わるはず。先輩ナースから,新人ナースにささげる応援歌です。

こんなことを聞いてみました
(1)新人ナース時代の「今だから笑って話せるトホホ体験・失敗談」
(2)忘れえぬ出会い
(3)あの頃にタイムスリップ! 思い出の曲とその理由
(4)新人ナースへのメッセージ
武井麻子
棚木めぐみ
藤田 愛
梅田 恵
卯野木 健
阿部まゆみ


全てが自己流,モグリの看護師

武井麻子(日本赤十字看護大学教授・精神保健看護学)


(1)(2)「武井さんは,モグリの看護婦だから」。かつて働いていた精神科病院で,仲の良かった一回り年下の男性准看護師が,私が「看護学校を出ていない」ことをからかって言った言葉だ。

 そう言われてもちっとも腹が立たなかったのは,自分自身,「まっとう」な看護教育を受けてこなかったと思っていたからだ。そもそも看護師になったのも,「資格さえあれば」と思ったからにすぎない。もともとは,今でいう「リケジョ」。東大闘争の真っただ中に入学したものの,大学の講義はちんぷんかんぷんでおそろしくつまらなかったため,全学ストライキになったときは心底救われた思いだった。その延長で大学を飛び出し,保育園で調理の手伝いとして働き始めたのだが,資格を持たなければ望み通りに生きてもいけない現実にぶつかった。そんなとき,看護師の資格が取れると聞いて転科を決意し,大学に戻って医学部保健学科というところに進学したのだった。

 保健学科では,衛生看護学科時代の名残の看護関連科目が,学生の要求で再び開講されるようになったところだった。しかし,看護は選択科目であり,かなりの必修単位が他の専門科目の「読み替え」だった。授業もナイチンゲールの『Notes on Nursing』を読んだことくらいしか覚えていない。実習は夏休みなどに集中的に行われた。それも,衛生看護学科の卒業生が勤務する病院を転々として,成人領域は東大病院だったが,精神は国立武蔵療養所(外口玉子先生が外来婦長だった),母性は武蔵野赤十字病院,小児は東京女子医大病院で心臓手術を受けた生後6か月の赤ん坊を受け持った。

 教員と病棟で会った覚えはない。臨床指導らしきものはほとんどなく,一緒に実習している同級生も1人か2人だった。カンファレンスもなく,今考えるとあきれるようなことばかりしていた。精神科では,慶大仏文出だという,統合失調症で長期入院の60代の男性患者さんとフランス語の話題で盛り上がったが,翌日,その患者さんが脳卒中発作を起こして倒れ,あえなく中断した。東大病院の整形外科で受け持ったうちの1人は,工事中のビルのエレベーターシャフトで9階から地階まで転落し,奇跡的に命を取り留めたという男性。この方も,眼底骨折が見つかり転棟していった。もう1人は,幼いころから何度も足の骨の手術を繰り返している男子中学生で,実習後も病棟に面会に行っては家庭教師をしてあげていたのだが,見つけたスタッフから教員に連絡が入り,叱られてしまった。また,強烈な記憶として残るのは,喉頭がんの末期の女性患者さんである。首の前面がざっくりと失われており,むくんで膨らんだ舌が口から突き出ていた。話すこともできず,喉の穴から胃へチューブを入れ,付添さんがミキサーにかけた食事を流し込んだ。私はずっとそばにいて身体をさすっていた。

 そんなわけで,何かを学んだというより,とにかく一人で頑張っていたという思いしか残っていない。全て自己流だったので,「モグリ」と言われても本当にその通りだと思うのである。

(4)そこで,モグリでも何とかやっていける,その体験の一つひとつが財産になる,というのが,私から新人看護師へのメッセージである。


「いつもなぜ私ばかり」泣き言だらけの月日は過ぎ去り

藤田 愛(北須磨訪問看護・リハビリセンター所長)


(1)看護学校を卒業後,公立病院の外科系病棟に勤務した。一日で何度,先輩に名前を呼ばれただろう。とにかく5人の新人のうちダントツで叱られた。「遅い! 検温に何時間かかってるの」「機械の汚れが取れてない」「患者さんと話すときの目線が高い」「手つきが雑だ」。洗髪の合格までに10回以上もかかった。いつもなぜ私ばかり,と自己嫌悪に陥った。

 さらにやってしまう。毎日に疲れ果てていたあるとき,日勤が終わり深夜勤務までの仮眠で熟睡してしまう。勤務入りの時間を過ぎたとき,先輩からの電話で飛び起きてダッシュで職場に向かう。夢であってほしいとの願いむなしく,現実だった。「申し訳ありません」と何度も頭を下げたが,腕組みをした先輩に笑顔はない。

 深夜勤務の朝は目が回るほど忙しい。ナースコールも鳴りやまない。ベッド上安静の術後患者さんのところに走った。「お待たせしてすみません。どうされましたか」「もう! ずっと前から呼んでるでしょ。おしっこが漏れてしまう」と叱られた。ベッドの下にある尿器を取ろうとしゃがみこんだ途端に涙がぽろぽろとこぼれた。10秒くらい経ったであろうか,私情は禁物と自分に言い聞かせ,さっと涙を手で拭い,「本当にごめんなさい」と介助を急いだ。病室の空気が変わった。「看護婦さん,大丈夫?」。4人部屋の患者さん皆に,優しく声を掛けられ,強がって「大丈夫です」と返事をしてみたが,ついに涙が止まらなくなってしまった。

(2)看護師一年目のときは看護師として成長したいというよりも,モラル云々よりも,とにかく先輩に怒られたくない一心だった。

 そんな中で一番支えになったのは,同期入職の4人であった。自分だけが叱られていると思っていたが,聞いてみるとそれぞれ悩みがあった。おいしいものを食べたり飲みに行ったりしては,お喋りはいつまでも続き,行き詰まった心にすっと風が通った。孤独から救われることで気持ちを入れ替えて,また次の日も頑張れた。月日が経つうちに泣き言ばかりでなく,看護を語り合うことも増えていった。4人の同期のおかげで孤独からも困難からも救われた。

(3)今井美樹の「PIECE OF MY WISH」。就職した1991年の11月7日に発売された。「朝がくるまで泣き続けた夜も歩きだせる力にきっと出来る……」という歌詞が当時の自分の心境にフィットして,自分へのエールのように感じ,繰り返し聴いた。

(4)困難な状況に持ちこたえるために,二つの方法を助言したいと思います。一つ目は何でも話せる友人を持ち,不安,悲しさ,つらさの気持ちをためないこと。もう一つはどんなにつらくても一勤務に10分だけでも頑張ることを心掛け,諦めないで行動し続けてみてください。すぐではないかもしれませんが,患者さんがあなたの看護を必要としていることに気付き,次第につらさよりも看護の楽しさを感じられるようになってきます。


怒号飛び交うなか「アリーナ席」確保,時に憩いの血ガス測定

卯野木 健(筑波大学附属病院 集中治療室看護師長)


(1)腹を抱えて笑えるような失敗談は残念ながらないのであるが,新人のときはどんな感じだったかを思い出しながら書いてみたい。

 最初の配属先が救急外来であった。当時入職した病院は二次救急までの救急外来を行っており,その年の秋から三次救急を始めるべく準備していた。そのため,配属された新人は十数人。「こんなにたくさんぴよぴよちゃんがいてもしょーがねー」ということで,初めて師長に会った日に2か月半の病棟研修を言い渡された。私は最初が救急外来,その後が病棟である。

 なんだかよくわからないオリエンテーションが終わると,すぐに救急車係(つまり,救急車を受ける係)である。同期と毎日朝早く来ては,救急カート内の薬品の適応や容量に関して確認し合ったなー(と書いていて思い出した)。

 救急外来のスタッフはみんな口調が荒かった。「殺すぞ!」「物の場所がわからんのやったら帰れ」などの怒号が「いつも」飛び交うというほどではないが,「わりと」たくさん飛び交っていた。私は挿管の介助が苦手だった。すぐにカフのシリンジやバイトブロックがどこかにいってしまったり,スタイレットが抜けなくなったりしてしまうのだ。テープ固定も難関。医者も焦っているので「何してんのやー!」と怒られる。

 毎日イメージトレーニングして,挿管介助があったら真っ先にアリーナ席(と私は呼んでいるが,手技者の右側)に立つようにして繰り返し練習したものである。

 しばらく救急外来で経験すれば,重症患者が来ても平然とできるかと言えば,もちろん心境は平然としていられない。そんなときの当時の憩いの時間は血ガスである。多発外傷の患者が来院して怒号が飛び交い,緊張感マックスのときに憩えるのは「血ガス採ってきまーす!」である。測定の間,ホッと一息。しかも! 血ガスにはそれをみんなに読み上げるという重要な任務もついている。もうひとつはポンピングであるが,これはまあいいでしょう(何となくわかりますか?)。

 こんな感じで6月まで救急外来,8月まで内科系病棟。9月からは三次救急が始まった救急外来で12月まで勤務。それから新しく立ち上がったICU。どこへ行っても常に新人で,見るものが新鮮だったのがよかったのかもしれない。忘れているだけかもしれないが,あまり「つらい」という思い出はない。それどころではなかったのだろう。

(2)結構激しい職場で,新人は1年であれよあれよと半数くらいになってしまったが,無事生き残ることができた。ああいう現場で無事1年を乗り切った同期との絆は強く,今も1年に1回集まっている。それぞれ18歳年を取っているのに,「みんなあのころと変わってないよねー」と毎年同じことを言う変わった人たちだ。同期と過ごした数年は本当に楽しかったと思う。また,良き師匠にも巡り会った。看護師の責任感や知識,技術,その人が教えてくれたことは私のその後の人生に大きく影響を与えている。のちのち海外に留学してみたりしたのはその影響だ。

(3)Green Dayの「Nimrod」。何千回も聴いた。あとはOasisの「Be Here Now」。

(4)いろいろあるでしょうが,とりあえず生き残ってください。そして仕事の中で楽しいことを見つけようと「努力」してください。なかなか「努力」なしに楽しいことは見つからないものです。


バブル,明るい狂気の時代の「何者でもない自分」

棚木めぐみ(マザリーズ助産院院長)


(1)私は四半世紀以上前,大阪の看護短大を出てはみたが,看護師としてこの先やっていくつもりは毛頭なかった。20歳そこそこの子どもが,「自分は何者であるか」すらわからないのに,他人様の世話をする,そんなおこがましいことできない,そんなふうに感じていた。私は患者の全体像を見ることより,自分の全体像を知りたかった。しかし,進学するにはもう親の脛はかじりすぎて細くなっていたので,仕方なく「コンビニのバイトよりは時給がいいから」という理由で北陸某県の個人医院にUターン就職をした。

 そこで1年間働きながら私が一番熱心にやっていたのは,大学受験勉強だった。ガラスの注射器を洗いながら(当時はディスポではなくまだガラスがメインだった),少しでも空き時間があると英語の辞書なんかを読んでいた。とにかくこのまま田舎で看護師を中途半端に続けることはできない。一刻も早く親元を離れて自活しつつ,好きなだけ自分探しができる,そんな環境を探していて,それは大学進学しかなかった。それも,看護とは全く無縁の大学。翌春,早稲田の第二文学部に滑り込むことができ,私は一人暮らしをしながら,生活費と学費を稼ぐためにいろんなバイトをしたが,一番時給が良かったのは病院の夜勤だった。他にも,ナースバンクに登録して日中も働いた。

 バイトとはいえ小さい職場では,半年もいると正職員や管理職にならないかと勧められるのが嫌で,数か月ほどで職場をくるくると変えた。内科・外科・整形外科・耳鼻科・産科・透析。当然,未熟さゆえの細かい失敗は山のようにあるが,「看護師」に自分のアイデンティティを全く見いだしていなかったせいもあり,叱られるのは苦ではなかった。むしろ「自分は何者でもない」ことのほうがつらかった。何者にもなりたくない。でもそれがつらい。そんな矛盾を常に抱えていた。

 大学では私の欲しい何かは見つからなかった。時代はバブルの絶頂期だったため,現実逃避のために精力的に遊びまくった。今思えばうそみたいだが,初めて会った知らないおじさんに,ジャンケンで勝っただけでティファニーのオープンハートのネックレスをもらったりした。そんな明るい狂気の時代,私にとって看護職とは,背中に背負った罪のようなものだった。思い出すたび苦しくなるほど,私の看護師時代は丸ごと,恥そのものだった。

(2)でも,そんなふうに自虐的に受け止めていた看護職が,自分にとってかけがえのないものに転じ始めたのは,あるターミナル患者を看取ったときのことだった。私はどうしてもその患者の最後の希望を叶えたかったが,一看護師の分際では無理な話で,その患者が亡くなったとき,自分の一部も死んだような気がした。看護とは,いったい何なのだろう……。真剣に考え始めたときだ。そのときのやりきれない気持ちは,その後何年もかけて私の中に澱のようにたまっていったのだと思う。ある日,家でぼんやりTVを見ていて,自宅出産を取り扱っている助産師という職業を知ったとき,頭に雷が落ちた気がした。「これだ!」と思った。

 病院のベッドの中で息絶えようとしていたあの患者が震える舌で言った,最後の願い……「家に帰って畳の上で息を引き取りたい」。その願いを私は叶えたくとも叶えることができなかった。だが,助産師なら,自宅で,畳の上で生まれる命を自らの手で取り上げることができる。尊厳死,ということが言われ始めたころだった。尊厳死があるなら尊厳生がある。尊厳のある生まれ方とはいったいどういうものだろう。私は人生の目的を見つけたと思った。長い間漬かっていたモラトリアムというぬるま湯の中から這い出てきた瞬間だった。私は一念発起して助産師学校へ進学した。最初から,「開業し,自宅分娩を取り扱う」ことが狙いだった。

 命は「死と生の両輪」から成る。同じコインの表裏だ。私が助産師になろうと思ったのは,皮肉なことに命のもう片側,「死」がスタートだったのだ。調布の地に開業し10年になるが,赤ちゃん一人を取り上げるたび,「命」の不思議は高まるばかりだ。私は助産,という名の看護をこれからも謹んで,一生,精進していこうと思う。

(3)映画『眺めのいい部屋』中の曲で,有名なアリア「私のお父さん」(O mio babbino caro)……あの草原のキスシーンと相まって,これ以上に素敵なアリアはないって思ってます。今も。

(4)看護師なんて嫌い! 看護なんて! って思っているあなた,そういう時期も人生の一時期にはあって当然。手も心も体もボロボロに荒れる,こんなの女の子の仕事じゃないよー! って私も,若いころは思ってました。若くなくなって,傷ついて,遠回りして,初めて見えてくるものもあります。宝物は人生の最初のほうで見つかったらつまらないよねって今は思っています。


新人3人で迎えた嵐のような夜勤

梅田 恵(株式会社緩和ケアパートナーズ代表取締役/がん看護専門看護師)


(1)急性期多科混合病棟の看護師23人の中の新人10人,そのうちの一人として看護経験がスタートした。とにかく忙しく,採血,検温,点滴交換,検査出し……に追われ,看護基礎教育で学んだことと現実のギャップに戸惑い,いら立ち,焦り,そして苦痛の中にある患者や家族を目の当たりにすることが何よりもつらく,悲しく……日々悶々としていたことを思い出す。しかし,看護チームのメンバーには恵まれ,先輩たちと良く語り,遊び……,青二才な新人看護師の気持ちをいっぱい受け止めてもらった。

 入職し3か月目にはリーダー業務を開始。そして,その年の秋ごろだっただろうか,新人3人での深夜勤務が巡ってきた。今夜看取ることになるかもしれない方が一人おられ,そのときの手順などを先輩看護師からしっかり申し送りを受け,不安いっぱいな状態で勤務が始まった。明け方までは順調に経過。しかし,透析中の方の痙攣を発見,意識低下,呼吸停止,急変だ。CPRの開始,ベッドの移動……,他方では心臓リハビリ中の方の心電図がおかしい。CCUの看護師に応援を要請,CCUに預かってもらうことになる。そうこうしているうちに看取りが予測されていた方が息を引き取られ,急変した透析中の方も息を引き取られた。もちろん,ルーティン業務は何もできず,きっと,他の患者さんたちは不安な思いであっただろう。新人3人の夜勤は次の日勤者には心配をかけていないはずもなく,いつもより早めに先輩や師長が病棟に現れ,いきなり動き始めてもらうことになった。ちゃんと申し送りもできず,3人の新人で詰所にへたり込んだあの朝のことは忘れられない。今思い出しても,心臓がどきどきする。しばらくは放心状態で,どうやってリカバーしたのか,思い出せない。

(2)看護に興味が持てず,臨床の現実に苛まれていた私は,辞めるか専門性の高い部署へ異動するかを希望した。そこで配置されたのがホスピス病棟だった。このときの看護管理者たちの配慮に,ただただ感謝である。当時まだ全国に2か所しかなかったホスピスの一つで,「患者やご家族にとって最善をめざす」チームの理念に向かい,看護の役割についても哲学を持った先輩たちに囲まれながら,「看護をする」ことの醍醐味を日々経験することになった。そこで初めて,忙しいことがケアできない理由ではなく,看護の専門性やケア提供者としての自身の在り方が育っていないからケアができない現実が見えてきた。初めて看護の意義を実感できた。その後,大学での学習と臨床を交互に繰り返すキャリアを経て,今に至る。その中で看護の可能性への期待が広がっている。さらなる可能性の追求が起業へのチャレンジにつながった。

 看護の専門家が思うほど,看護の提供システムは整っていないが,社会は超高齢化,多死の時代に突入している。人々の自律性を尊重し,さまざまなステージの健康状態やエンド・オブ・ライフを意識しながらも,安心して日常を送っていくためには,看護は不可欠な学問と位置付け発展させていきたい。そのための実践を積み重ね,日々,看護への思いを熱くしている。

(3)当時テレビのない生活をしていた。ゆっくり音楽を聴くような生活はしておらず,ドライブに出かけるときは大声でユーミンや竹内まりやの曲を歌っていた。まだテープで聴いていたことを懐かしく思い出す。

(4)キャリアを長い目で見据え,日々患者さんと向き合ってください。看護のキャリアは病院だけではない。看護の哲学や知識を自分に合った方法で社会に役立てていってほしいです。


“Oh! You're Japanese Nurse!”
40歳過ぎの新人ナース体験

阿部まゆみ(名古屋大学大学院特任准教授・がん看護学)


(1)私が最初の新人時代を過ごしたのは,国立病院医療センター(現国立国際医療研究センター)です。入職時は,ちょうど新生児集中治療室(NICU)がスタートした時期です。新人当時は,他県から救急車で搬送された1000 g以下の超低出生体重児の女児救命に,チームで全力投球した記憶があります。同院で手術室,小児科病棟,特別個室病棟に15年間勤務した後,英国に渡りました。

 2度目となる新人ナース体験はロンドンでした。郊外の語学学校に通っていると,知人から「5歳のアレルギー児の幼稚園に付き添ってほしい」「出産後,マタニティブルーで困っている人がいる」「病児の受診に付き添ってほしい」などの相談が舞い込み,ナース経験者として小さな親子支援活動をしました。そうこうしながら近くのシェアハウスに移動し,病院で看護ボランティアを開始しました。そこで驚いたことは,がん告知の段階から治療までをサポートする,がん専門看護師による看護外来が設置されていたことでした。ボランティア活動を通して,英国の保健医療システムについてより深く知りたいと思い,看護学校に編入しました。さらに,ロンドン・サウスバンク大緩和ケアコースで学んだことは,私の人生のターニングポイントになりました。

(2)近代ホスピスの発祥の地,聖クリストファーホスピスには2段階の面接を経て就職することになりました。看護部長とは3か月ごとに面談がありました。ホスピス創始者のシシリー・ソンダース先生には,「ミミ,元気?」と私のニックネームで,よく声を掛けてくださいました。働く場は私の希望で,併設のナーシングホームから,デイホスピス,ホスピス病棟,そして在宅ケアの順で移り,段階的に経験を積むことになりました。

 そのナーシングホーム初日のことです。ムーミン漫画のキャラクター“リトルミイ”風のMさん(93歳,某女子校の元校長)を1階のダイニングルームへお誘いするために訪室すると,「あなたには私をエスコートする資格がありますか?」とやや険しい表情で問われました。私は一瞬,「あのー」と戸惑い,次の言葉が出ませんでした。Mさんの凛とした姿は,今でも鮮明に覚えています。私は「はっ!」として,ユニホームは着用しているものの,顔なじみではなかったことに気付き,間をおいて再び自己紹介しました。すると“Oh! You're Japanese Nurse!”と笑顔で返してくれました。この出会いを機に,Mさんは「これからは,私があなたの個人教授よ!」と言ってくださり,お会いするたびにニュースの話題と体調報告が日課となりました。Mさんの部屋には,曽祖父より譲り受けたマホガニー材のアンティークたんすと校長退官時の記念樹の絵が掛かっていました。今振り返ってもこの40歳過ぎの新人ナース体験は,異文化交流の中で,看護師と患者の関係以前に,人としてかかわることの大切さをあらためて確認することとなりました。その後の人生においてもたくさんの出会いと別れに彩られ,今日につながっています。

(3)イルカの「なごり雪」。あのころは先輩の影響でスキー場に行き,一面銀世界の中でイルカの「なごり雪」をよく聴いていました。今もこの曲を聴くとスキーの魅力にはまっていた新人ナースのころを思い出します。

(4)新たな環境の中で,初めて遭遇することに対する緊張の連続と,少しずつわかることの面白さなど,発見の日々となるでしょう。目の前のことは全てが学びの場ですので,まずは大変なことでも角度を変え,何かを思いつくという想像力や発想力を豊かに取り組んでください。“今”を楽しまれますよう,応援しております。

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