医学書院

検索
HOME週刊医学界新聞 > 第3012号 2013年01月28日

第3012号 2013年1月28日


【寄稿】

話して,離して,放す――
語りのとき,あなたがいてほしいわけ

佐藤 泰子(京都大学大学院人間・環境学研究科 研究員)


 こころのケアについての援助職者用の教科書には,必ずと言っていいほど「聴くことが大切」とのくだりがある。しかし「なぜ聴くのか?」と自明を突き崩すような疑問を持つ人も多いのではないだろうか。苦しいとき,なぜ人は誰かに語りたいのか,それを聴いてほしいのか。あるがん患者が私に言った「"話す"ことは,苦しみを"離す"ことのように思う」という言葉から,援助職者にとっての「聴くことの意味」を問い直してみたい。

話す――思考の再構成の「場」

 思考は言葉を使って行われている()。しかし,その言葉の有り様は構成された流暢な文章ではなく,単語や短い文がフラッシュし,そこに想起された情景が織り交ぜられる混沌としたものである。何か苦しいことがあって悩んでいるとき,まとまりのない思いが,ばらばらに浮かんでは頭のなかでぐるぐる渦巻き,そのなかで溺れてしまうような感覚さえある。苦しい思いを理路整然とした文章のような形式で認識できることは,ほとんどない。

 誰かに苦しみを語るとは,浮かんでは沈むばらばらな言葉を紡ぎながら意味の擦り合わせを行い,文脈を取り繕い,思考の再構成をしていく作業である。人に話をする際,私たちはできるだけ文法を間違わないよう,語りの前後で文脈に不合理や矛盾が生じないよう気遣いながら発話する。しかも,語りという思考の再構成を始めると,一人で独白的に思考しているときには浮かんでこなかった言葉が,まるで抑圧の蓋が取り除かれたかのように湧き出ることがある。語りは,知り得なかった自己の思いや新しい言葉が溢れる泉のような「場」なのだ。湧き出ずる言葉を紡ぎながら語ることで,織り直された新しい世界が広がる。語りの先には,自ら見つけ出す新しい意味が控えているのである。

離す――自他間の深淵に苦しみを離す

 苦しみの語りから新しい意味を得るためには,誰かの存在が必要だ。当たり前のことだが,語っている「我」は,話を聴いている「汝」になることはできない。同じく「汝」も「我」となって,「我」の経験を体感することはできない。世に真実は一つなのかもしれないが,事実は「人の数×認識の仕方の数」だけある。つまり,事実としてわれわれの前に現れている事柄は,あくまで主観的な解釈によって認識されているのであって,他者は同じ事柄を違った事実としてその都度とらえている。したがって語り手と聞き手は,互いの思いを100%理解することはできず,その間にある深い淵の存在を認めざるを得ないのである。

 しかし,この深淵こそが重要な役割を持っているのである。自己と他者の間に越えられない深淵があるからこそ,私たちは「わかってもらえるように」腐心して語り,それによって思考の再構成が促されるのである。また,聞き手にも「わかってあげたい」という思いが生まれ,これは聞き手の他者理解の努力を引き出すという重要な意味も持つ。相手のことがわからないから,語り手と聞き手の双方向のベクトルが生まれる。このベクトルが援助の可能性を開く鍵となるのだ。

 深淵の両岸で「わかってもらえるように」努力して語り,「わかってあげたい」と努力して聞く両者の位相が,誰かと「共にいる」(共存在)意識を顕在化させる。もし,自他の間に深い淵がない状態,すなわち自他合一(「あなたが私になる」)という事態があるとしたら,あなたは不在となり,あなたが私と「共にいてくれる」ことも意味として立ち上がらない。つまり,自他間の深淵は,他者理解の努力,共存在の喜びにとって障害物ではなく,むしろ自他の紐帯であり,重要な関係性の「場」なのである。

 深淵の対岸にいる他者に向けて語り,思考が再構成された瞬間,語った事柄が私から少し離れ,他者との間にこぼれ落ちる。そう,話してあなたと私の間に離す。だから"話して,離す"とき,そこにあなたがいてほしいのだ。

放す――どうにもならない苦しみへの認識を変える

 聞き手として他者が語る苦しみを理解するためには,話し手の苦しみと緩和の構造を理解する必要がある()。まずその人にとっての「苦しい事柄」が何であり,「どうありたい」と願っているのかにたどり着かなければならない。「苦しい事柄」とは,主体が「NO」という否定的な思いを突き付けているものであり,この否定が苦しみの本質である。人は,手始めに主体にとっての「NO」である「苦しい事柄」を動かし,「ありたい事態」をめざそうとする。例えば,病気になると「病気は嫌だ」という否定的な感情を持つから,病気という事態を動かして健康という「ありたい事態」に近づけようとする。具体的には治療に取り組み,生活を見直したりするだろう。しかし,「苦しい事柄」は必ずしも変容するわけではない。

 苦しみと緩和の構造

 そこで援助者は,主体が「変容可能な苦しい事柄」について悩んでいるのか,「どうにもならない苦しい事柄」について悩んでいるのかを知り,その人の心的動向を理解しなければならない。前者の場合には,そのための援助の方法を検討し,変容に向けて前進すれば良いだろう。一方,後者の場合,主体は「どうにもならない苦しい事柄」「ありたい事態」の意味や認識の変更を余儀なくされる。「病気は嫌」ではあるが,「このことでたくさんの学びがあった」と言う患者が多くいる。また,手に入れたいとこいねがった事態に対して,「なぜあんなに執着していたのだろうか」と思いが変わったりする。つまり病気や「ありたい事態」に新しい意味が与えられるのである。こうして「どうにもならない苦しい事柄」や「ありたい事態」の意味が変更されたとき,人は苦しみを"放す"のだ。そして,その苦しみを手放す手立てこそが,誰かに語ることなのである。

 他者への語りのなかで,新しい言葉が浮上し,思考が再構成されていくことによって,「どうにもならない苦しい事柄」や「ありたい事態」の意味が変更される可能性が織り込まれてくる。"話して,離して,放す"ことができたら,語り手は楽になれるのだろう。語りながら,語り手の様子が変わっていくことは,援助者の多くが目の当たりにしているはずだ。語りによる「どうにもならない苦しい事柄」「ありたい事態」の意味変更は,苦悩を放すセルフコーピングの旅であり,その旅に同行することが聴くという援助なのである。

 しかし,放すことは,そう簡単ではない。意味がなかなか変更できず,何度も同じ話を繰り返すのは,"放す"までの苦難の旅の途中なのである。一人旅は寂しい。どうか語りの旅に同行していただきたい。「わかってもらいたい」誰かが目の前にいなければ,「わかってもらえるように」語る必要がなくなってしまう。すると再構成の契機は遠のき,生きる力は言葉の混沌のなかに沈んだままとなり,こころが動き出さない。聴く者は自分の認識の確かさや価値観を押しつけるのではなく,共感しながら「聴く」ことに徹してほしい。そして語り手が苦悩を自ら放す刹那に立ち会ってほしい。語りのとき,そこに「あなたがいてほしい」のは,このような理由からなのである。

:言語を超越した思考も存在すると筆者は考える。ここでは,言葉と思考に限って述べることを選択し,聴くこと,語ることの意味をシンプルに論じることとする。


佐藤泰子氏
2009年京大大学院人間・環境学研究科博士課程修了。京大医学部,総合人間学部等で非常勤講師を務める。苦悩について哲学,精神医学をベースに研究し,患者さんとの対話を通して,ケアの在り方を探っている。講演では,『鉄腕アトム』や『ドラえもん』を題材にしながら,人間の苦しみと言語の関係を説明し,聴くこと,話すことの構造がわかれば誰でも良い聴き手となり得ることを伝えている。近著に『患者の力――がんに向き合う,生に向き合う』(晃洋書房)。