医学界新聞

寄稿

2011.01.10

【新春企画】

♪In My Resident Life♪
失敗是成功之母


 研修医のみなさん,あけましておめでとうございます。レジデント・ライフはいかがでしょうか? 病院選びに失敗して後悔,手技が下手で怒られてばかり,コミュニケーションがうまくとれない……。でも大丈夫。中国のことわざにもあるとおり,「失敗是成功之母」です。うまくいかない毎日でも,あきらめずに努力すれば,実を結ぶときが必ず来ます。

 新春企画として贈る今回は,人気指導医の先生方に,研修医時代の失敗談や面白エピソードなど"アンチ武勇伝"を披露してもらいます。

こんなことを聞いてみました。
(1)研修医時代の"アンチ武勇伝"
(2)研修医時代の忘れえぬ出会い
(3)あの頃を思い出す曲
(4)研修医・医学生へのメッセージ
村川裕二
菊地臣一
木村眞司
須藤博
大曲貴夫
青木信彦
池田正行


真冬の海で2週間の船酔い,3秒で決めた将来

村川裕二(帝京大学第四内科教授)


(1)「怖くなさそう」という理由でお世話になった臨床研修先は,東京大学第二内科と物療内科。物療内科に世話になっていた研修医2年目,1982年のある日,中堅医局員の中島一角先生(現・東京都赤十字血液センター)が医師勤務室にやって来て,「船に乗らないか」と私に勧めます。ご本人が大学の研究船の船医を務めるポストにあったのですが,その貴重な機会を「君にもちょっと分けてあげよう」という触れ込みでした。船酔いが恐くてためらっていると,関西出身の平井浩一先生(後の東京大学助教授)も一緒になって「言うことを聞いといたほうが身のためや」と言い含められました。大阪弁で勧められると断りにくいのです。結局,真冬の太平洋で2週間連続の船酔いという貴重な経験をさせていただきました。つらい目に合うと,もののありがたみがわかります。例えば揺れない地面や,塩っぽくないお風呂など。

 このお二人からは別の折にも「半年ほど静岡で修行しておいで」と勧められ,藤枝市の病院に研修に行きました。7月の暑い日に,着の身着のままで病院にたどり着くと「ほんと何も持ってきとらんずら?」と医局のおばさんは感心して,布団など面倒を見てくれました。その病院の給与はそれまでの薄給のおよそ4倍もあり,使い切るのが大変でした。

 最後の研修は東京大学第二内科にて2度目のローテーション。同じところを回ればストレスが少ないと考えたのです。やがて研修期間満了の春が来ます。どこに入局するかまったく決めていません。ふびんに思った第二内科心電図研究室の先生が,廊下ですれちがったときに「行くところがないなら,うちに来なさい」と拾ってくれました。返答に3秒しかかかりませんでした。

 「あれこれ情報をそろえて,身の振り方を思案する」というのが真っ当でしょうが,「いずくも同じ秋の夕暮れ」とぼんやりしている者もいるとご理解あれ。人の目を引く仕事をされた方は,それなりの転機をつかまれるのでしょうが,当方には「これは」というエピソードもありませんので,そのころの雰囲気を書かせていただきました。

(2)指導医はどの先生もありがたい方ばかりでした。細かいことをチマチマ教えるのではなく,「何かあったら何とかしてやる」という心意気で安心感を与えていただきました。本当に「何とかしてもらえるのか否か」を確かめる機会は幸いにもありませんでした。

(3)病院に出かける前にシャワーを浴びながら矢沢永吉のテープを聴きました。家を出るころには唇が尖ってきます。

(4)「若いうちに幅広い領域の手技を身に付ける」というのもあるでしょうが,あまり手を広げることはお勧めしません。あるレベルをクリアしないと,その技術を実地に用いることはできません。とりあえず「何か一つできる」だけで立派です。


深夜に鳴り響いた火災報知機,素手でキャッチした赤ん坊

須藤博(大船中央病院 総合内科部長)


(1)レジデント時代は,とにかく常に睡眠不足だった。カルテを書きながら病棟やICUの机で寝てしまうのは日常茶飯事。スタッフの先生から説教を受けている最中に居眠りをして,さらに叱られたこともあった。

 夕食を取り損ねたある日の深夜,医局でカップラーメンを食べようと湯を沸かそうとしたときのことである。コンロの付け火の調子が悪いらしく何度も点火を試みていたところ,狭い調理室に一瞬ぼわっと大きな炎と煙が立ち上った。次の瞬間……病院全館に大音響で非常ベル音が鳴り響いた。「何,何なんだ? このベルは?」とカップラーメンを手にして首をかしげていると,当直婦長や事務当直が自分に向かって走ってくる。「そこだ~!」と大騒ぎになって火災報知器が感知したことを知った。消防署へ誤報の連絡をしてもらうわ,婦長さんには大目玉を食らうわ,散々であったのは言うまでもない。

(2)研修1年目の産婦人科ローテーション中のことである。その日はER当直であったが,産科病棟から「先生!! 大至急来てくださいっ!」と緊迫したコールが入る。当時産婦人科では,原則として毎日オンコールで夜間にお産があれば駆けつけることになっていた。ただしER当直の夜は例外で,その日はコールがないはずだった。ただならぬ様子に(何で呼ばれるんだよ……)と少しむっとしながらも病棟に急いだ。

 しかし,そこで目にした光景にそんな気分もふっとぶ。陣痛室からうめき声が聞こえ,産気づいた妊婦さんが車いすに乗っている。足の間からすでに赤ん坊の頭が見え始めている。こちらも大慌てで「落ち着いてっ!! ゆっくり息をして……」などと声をかけるが,陣痛が始まった妊婦さんにはこちらの制止は聞こえていない。分娩台にのせる余裕もない。妊婦さんの足下にしゃがみ込んだ次の瞬間,赤ちゃんが「つるん」と出てきてしまった。手袋をはめる間もなかった。(うわぁっ!! 落としてはいけない!!)と必死の思いで赤ちゃんを素手で受け取った。そのときの「ぬるん」とした感触と「落とさないでヨカッタ……」という安堵感は今も鮮明に覚えている。

 臍帯の処理をして赤ちゃんを看護婦さんに手渡した,まさにそのとき,連絡を受けた産婦人科スタッフの先生が到着したのであった。あのときの赤ちゃんも,とうに成人しているはずだが,どうしてるだろうかと今でも時々思うことがある。

(3)大瀧詠一『君は天然色』。今年3月にこの曲を収録したアルバム『A LONG VACATION』の30周年記念盤が出る予定。もちろん予約済み。

(4)自分が好きなことをやる。そして自分がしていることを好きになること。何をやりたいのか,それを探し続けること。見つけたら後は振り返らないこと。

 レジデント時代はつらいことも多かったが,自分は不思議に辞めたいと思ったことは一度もない。「その時点で」自分が選んだ道が最良の選択である。たとえそのときにはわからなくとも,どんなことにも意味があり後で役に立つ。そう信じることである。


「教わり上手」「教えさせ上手」

青木信彦(東京都立多摩総合医療センター院長)


(1)私は1970年に東北大学を卒業しました。当時はインターン制度が廃止されて間もないころで,学園紛争の真っただ中でした。卒業式もなく,私たちのクラスは入局反対・医局解体を決議して,各地へ散っていきました。当然,私も入局せず,個人交渉でいくつかの市中病院で消化器外科,心臓外科,整形外科の研修をしました。

 そして最後の半年ほど船医として西アフリカを航海した後,1972年に(旧)都立府中病院で脳神経外科の研修を開始しました。しかし,研修とは名ばかりで,ただ見よう見まねで医療を行うという毎日でした。また,脳神経外科臨床に関しての教科書と言えるものもなく,「耳学問」が最も重要な勉強などと言われる時代でした。やはり,医局に属さずに一人前の専門医になることは必ずしも容易ではないようでした。

 しかし,人間は「何かが不足する」とそれを「何かが補う」ように発達するようになります。教育システムなどというものはなく,よほどのことがないと教えてくれる人はいないので,必然的に人並み以上の「教わり上手」「教えさせ上手」になる能力が備わるようになりました。

 さらにもう1つ,自分より若い医師から積極的に「教えてもらう勇気」を持つことが必要だと気づきました。どうみても自分より経験の少ない若い医師からも,「教えてもらえる工夫」をするようになりました。よくよく考えてみますと,「その若い医師から教えてもらう」というよりも,「その若い医師を指導したベテラン医師から間接的に教えてもらっている」ということがわかりました。私は都立府中病院にとどまりながら,1年あるいは半年ごとに各大学から派遣される若いローテーターからたくさんのことを学びました。

 このように無我夢中で,資格だけではない本物の専門医をめざしていたころ,ふと振り向くと,大学の同期の友人の多くが医局に入っていることを知りました。「人間とはそんなものかな」と思うとともに,やはり「医局に属さないと本当の一人前になれないのかな」などという不安もありました。ちょうど10年目のころでした。

 しかし,私はマイペースの道を選びました。そのころから積極的に論文を書くようにしました。医局という大きな樹の下で活躍している同輩に負けまいという意地です。論文は英文で発表しました。国際誌は公平なジャッジをするし,英語は理論的な言語なので考え方を整理するには適していると感じました。その後10年ほどは臨床の合い間を見つけて,「1日1行でも筆を進めれば,いつかは完成する」という信念で大量の英文論文を作成しました。その研究対象はすべて自分で経験した臨床の中から生み出したものです。試験管もネズミも使わずに,「知恵」だけで勝負する「無手勝流」です。

(4)卒業して40年経った今,自分の非「医局」を振り返ってみました。良かったのは,「自由度」の高いことでしょう。論文や学会発表はsingle authorで,その内容は自分の好きなものを選びました。また,どんな学会でも誰かに遠慮することなく,自由に発言できます。一方,デメリットも多数です。やはり,未熟なうちから1人で何もかも背負い込むので,そのストレスは人一倍となります。持病の十二指腸潰瘍を繰り返し(残念ながらH2ブロッカーのなかった時代)幽門狭窄が進行して物が食べられなくなり,胃切除を受ける羽目になりました。

 このように医師としては,非「医局」ということで,何かを失って,何かを得ました。これは入局ということに限らず,人生で「道」を選択するときに必ずついて回ることです。「良かったこと」と「悪かったこと」を足して半分に割ると「結果はいつも同じ」のようです。「人生」は予測不能な出来事の連続で,「人間万事塞翁が馬」なのだと思います。


一晩中,アンビューバッグを押し続けた夜

菊地臣一(福島県立医科大学理事長兼学長・整形外科学)


(1)私の医師としてのスタートは,生涯忘れられない患者さんとの出会いから始まった。この患者さんは36歳の女性,M.Iさんであった。上肢のしびれと下肢から上肢へと拡がる麻痺を主訴として1971年8月2日に整形外科病棟へ入院してきた。この年の5月の連休明けに入局して3か月しか経過していない私が担当医となった。当時は,グループ制とは名ばかりで,1年目で入院患者さんを担当していたのだ。この患者さんは,10日後に突然,換気不全と循環不全に陥り,ICU(当時はICUという名称は許可されず,中央病棟と言っていたが)に収容された。

 ICUなど入ったこともない新人医師が,看護婦さんや外科医にバカにされながら,言われるままに指示を出し,処置をした。実際,指示の出し方も処置の仕方も知らなかった。気管切開後,当時最新鋭の機器である人工呼吸器が接...

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