医学界新聞

寄稿

2008.11.10

【寄稿】

医学教育による国際協力
〈前編〉アフガニスタンでの取り組み

大西 弘高(東京大学医学教育国際協力研究センター講師)


 医療分野における国際協力にはさまざまなアプローチがある。その中でも,「医学教育による国際協力」は,将来にわたり地域で中心的な役割を果たす医療スタッフを養成するという意味において,持続的かつ大きな成果となる可能性を秘めている。本紙では,東大医学教育国際協力研究センターを中心とした国際協力の取り組みを,2回にわたって紹介する。

(本紙編集室)


 「大学病院を建てないと,臨床教育の改善は図れないのではないか?」。最初に浮かんだ大きな疑問はこれだった。カブール医科大学の惨状を最も雄弁に語るのは,内戦時代にぼろぼろに破壊され,いまだに放置されている旧アリアバッド大学病院である。カブール医科大学キャンパスの裏手にあり,異彩を放っている(写真)。

医学教育改革による戦後復興

 まず,アフガニスタンの状況について簡単にまとめてみよう。2001年9月米国同時多発テロの後,米国はアフガニスタンへの空爆を行い,2か月ほどのうちに首都カブールを含めた主要都市を制圧した。2002年1月には,アフガニスタン復興支援国際会議が東京で行われ,日本は5億ドルの支援を宣言した。

 東京大学医学教育国際協力研究センターからは,2003年8月のJICAアフガニスタン国保健医療基礎調査分遣隊(医学教育)に,大滝純司助教授と水嶋春朔講師(いずれも当時)が,2004年7月のJICAアフガニスタン国医学教育プロジェクト事前評価調査団に,北村聖教授と水嶋講師が参加し,医学教育プロジェクトの開始が決定された。私は,水嶋講師の後任として2005年5月に着任したが,2005年7月には3か年のプロジェクトが開始され,国際協力というなじみのない分野を担当することになった。

 プロジェクトの対象は,カブール医科大学とアフガニスタン高等教育省であり,私は戦後復興のプロセスとして改革にかかわるという意気込みを持っていた。2005年夏には現地で医学教育の理論や技法についてワークショップなどを実施する構想だったが,初の民主的な総選挙が行われてデモが起こり,現地入りは延期された。そのため,2005年11-12月に現地の教員を呼んだ研修を先に実施することにした。

現地のニーズを探る

 最初に,改善に向けて何が必要かについてブレインストーミングをした。すると,「自分たちには,病院,薬,診断機器,いい人材のどれもない」という意見が噴出した。「では,その状況をどうしていきたいのか?」と質問してみても,「まずは,リソース不足を援助してもらい,さらに新しい医学教育システムを作っていけば,きっとよくなる」と,かなり他力本願な答え。最初は,「自分たちの国の医学教育システムを一から作り直していくという気概はないのか!」と憤慨したが,二十年以上戦乱が続いていた国に住んでいたことに思いを馳せると,なかなかそれを口に出す気にもなれなかった。

 そこで,「では,いい病院をJICAが建てたとしたら,どうしたらいい?」と別の質問をすることにした。「そこに患者がたくさん来て,学生や研修医の教育がそこでできるようになる」と一人が言ったが,「でも,薬や診断機器はないかもしれないぞ」,「将来,また戦争が起こって,病院がつぶれたら,どうする」と他の医師が言い始め,少し議論が始まった。ようやく,少し気持ちの糸がつながり,研修が実のあるものになり始めていくのを感じた。

 特に,再度病院が破壊されるかもしれないという予測はとても重要だ。持続発展可能な形でプロジェクトが実施されることが最重要で,ハコモノを作ってから考えるといった形のプロジェクトにはしないという点について意識を共有することは前提条件とも言える。中国のことわざのごとく,魚をあげるより,魚の釣り方を教えるべきなのだ。

 このころから,「自分は現場を見たこともないため,説得力のあることはほとんど言えないかもしれない。ともかく一度行ってみたい」という気持ちが高まった。研修が終わるころには,すっかり離れがたい旧知の友のような気がしてきて,とにかく彼らにもう一度会いに行こうと思えた。

カブールの状況

 さて,2006年2月,雪に覆われた山々に囲まれたカブールに入った。大学は石で作られた建物で,やたらと寒い。それでも,前の週には凍っていたボトルの水が溶けたという。トルコ製最新式のガスストーブが広い部屋に一つ,彼らは寒さに強いことを思い知った。

 彼らに教えた講義技法はどうだろう。教室に行ってみると,バーナヤール助教授(現教授)は,自作の薄っぺらいテキストと同じ絵が載ったパワーポイントを使い,学生に質問を投げたり,階段教室を歩き回って学生に刺激を与えたりしながら組織学を教えていた。供与したプロジェクターも役立っていた。学生は,テキスト以上の情報を得られるのは講義内容だけという事情もあるが,日本では見たこともないような集中力で講義を聴いていたのに感銘を受けた。彼は,「日本で習った技法が役立っているよ」と自慢げに講義を披露してくれた。

 臨床教育はどうだろう。当時,4年生(臨床学年)は1学年約500人。200床と350床の2つの教育病院には,常に学生があふれていた。建物に囲まれた中庭には小さなデスクのついたいすが並び,青空教室となっていた。実習では,患者を診る機会がほとんどなさそうだった。学生数が多いのは,民族的派閥の有力者たちが議員や教授たちを通じて学生をねじ込んで入学させたからという。2003年からは学生数を1学年100人余りに減らす改革を行ったが,2009年までは学生数の問題を解決できないことがわかった。

 ただ,そんな中で,「適当に患者を診る」実習が,「患者を診た記録を紙に書く」という形に変わった。彼らの発案であり,学生も「診療の様子を蓄積していける」とうれしそうだった。筆記用具のコストも決して安くはないが,診療の経験を学生が蓄積して使えるということが新しい試みになった。日本にいるだけでは,何が彼らのためになるのかを予測することがいかに難しいか痛感した。

 その後,現在三重大学に移られた武田裕子准教授,2007年5月末から1年以上現地に赴いた足立拓也医師などと共に,アフガニスタンでの医学教育プロジェクトを3年間続け,北村教授やJICA関係者による現地での終了時評価では,まずまずの成果とのことであった。今後も,プロジェクト終了後にわれわれが協力して創り上げてきたシステムが,継続していくかどうか見守るために,フォローアップ協力を続ける予定である。

原則と現場への応用

 このプロジェクトを通じて再認識したのは,学生も教員も「よい教育」に幸せややりがいを感じるという原則的な点であった。国際協力とは,そういう原則に立ち返りつつ,現場に応用する術を見つける作業なのだろう。

 その作業において,医学教育を専門とするわれわれは,どういう教育システムがよいかを示せるだけでなく,その教育システムをどう相手側に伝え,どう広げるのがよいかについても理論的背景や経験を持っていることが強みであるとも自覚した。また,現地教員と共同で創り上げたシステムは,今後アフガニスタン国内の他のいくつかの医学部にとっても標準的なものになるかもしれず,改めてわれわれの責任の重さを痛感した。

後編につづく


大西 弘高
1992年奈良医大卒。天理よろづ相談所病院,佐賀医大病院を経て,2002年米・イリノイ大で医療者教育学修士課程修了。03年より国際医学大(マレーシア)にてカリキュラム改革等に関与した後,05年より現職。

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