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第2764号 2008年1月14日


【新春企画】

♪In My Resident Life♪
七転び八起き,そのうち未来は見えてくる


 研修医のみなさん,あけましておめでとうございます。レジデント・ライフはいかがでしょうか? 病院選びに失敗して後悔,手技が下手で怒られてばかり,コミュニケーションがうまくとれない……。でも大丈夫。研修医時代の失敗は誰もがたどる道。倒れるごとに起き上がれば,そのうち未来は見えてきます。

 新春企画として贈る今回は,昨年に引き続き,人気指導医の先生方に,研修医時代の失敗談や面白エピソードなど“アンチ武勇伝”を紹介してもらいます。

こんなことを聞いてみました。
(1)研修医時代の“アンチ武勇伝”
(2)研修医時代の忘れえぬ出会い
(3)あの頃を思い出す曲
(4)研修医・医学生へのメッセージ
藤田芳郎
遠藤和郎
宮地良樹
金城紀与史
岩田健太郎
早野恵子
葛西龍樹
岡田正人
仲田和正


「未熟」だった。だから「懸命」だった。

藤田 芳郎(トヨタ記念病院 腎・膠原病内科部長)


(1)「何よ,あなた,失礼な!」と,当番の3人の研修医が立って採血している,あふれんばかりのひといきれの検査室のなかで,中年女性の怒鳴り声が,私の医師としてのはじまりであった。生身の人間の体に針をさすということが怖くて,やや脂肪が厚い皮膚の中の青い血管をめざして,おそるおそる震える手で針を入れていったのだった。その時から1か月,私の頭の中は針刺しのことでいっぱいであった。両親の血管で練習させてもらったり,駆血帯で練習したりの毎日。あまりにも必死な自分にたいそう同情してくれた看護師さんが練習台になってくださったこともあった。国家試験のための医学知識は空っぽになってしまった。

 その後,拡張型心筋症「末期」のTさんという患者さんを受け持った。当時の自分は,人間は死すべき存在とは決して思っていなかった。むろん試験にでればそう答えたであろうが,少なくとも無意識には若い自分は身近な死に触れたこともなく,人間は絶対死なない,いや死ぬべきでない存在と思っていた。したがって「末期」などという言葉は存在しなかった。Tさんは,全身倦怠感を強く訴えていた。また尿量も少なかった。毎日体重を測定し1kg上昇すればフロセミドを増量するなど体重と尿量との必死の格闘の日々であった。フロセミドの投与の仕方をいろいろ変え,1-2時間ごとに尿量を見に行く。そしてドーパミンには少量で利尿作用があり,フロセミドと併用したら驚くほど効果が出,あわてて輸液をしなければならなかったことなど,さまざまな経験をさせていただいた。全身倦怠感のほうは利尿剤がきいてもあまりよくならない。特に足がだるい。未熟な研修医にできることは,足を毎日10分間ほど揉むことぐらいであった。それをTさんの毎日の楽しみとしていただいたことは,未熟な研修医にとって存在感を感じることができる貴重な瞬間であった。

 当時,あまりにも「未熟」な医師であることの自覚から未熟な自分の存在意義は何かと考え,とりあえず患者さんのところに頻回に行くことしかないと思い,最低朝夕2回,受け持ち患者のところに行った。今,「未熟な」新人たちの一生懸命な姿をみると,「未熟」ということは決してマイナスだけではない,大きなプラス面があることを強く感じる。当時の自分以上の「熱い思い」の人たちを,周囲の「未熟な」医療者に見る。残念ながら,「未熟」の喪失と同時にその大きなプラス面が失われていく。自分が末期のときそばに医療者がいる状況なら,「未熟で懸命な」医療者がそばにいてほしい。

(2)最初にローテートした循環器は厳しかった。夜中に何度も起こされるばかりか,モニターをCCUで24時間監視なんていうこともあった。当時は楽しいなんて感じたことはなかったが,一人ではなかった。戦友たちが周りにいたし,戦争のように自分のいのちをとられるなんていうことはない。今から思うと楽しい思い出である。

 心臓の診察はどうやってやったらいいのであろう。そこに中村芳郎先生がいた。自分の名前が同じ「芳郎」なので,はじめに2年目の先生から「おまえの名前は芳郎か」などとため息をつかれた。その意味はすぐにわかった。ある時,心房中隔欠損の患者さんの検討会があった。身体所見とレントゲン所見のみで,その患者さんのシャント率を言い当てた。他の先生もびっくり。自分はポカーンとなった。回診における心房細動の患者の症例提示で,「IV音が聞こえます」,といって赤恥をかいた自分を,学生の講義に,私の患者とともに連れていき,血圧の感じ方,心尖部の触れ方,聴診の仕方などていねいに教えてくださったことは心深く残るありがたい思い出である。先生の『心臓病の診断』(中外医学社)は今も私の座右の医学書のひとつである。

(4)私の座右の銘である恩師の言葉,「人間のなかににせ者はいない」「過つも人,許すも人」「各人の不徳の相互の許し。そういうのが楽園の門である」。一生懸命やった後の失敗なら,反省すべきことは反省し,あまり自分を責めすぎないことが大切ではないか。必ず同じ傷を背負った人が,地球のどこかで懸命に生きている。「人間のなかににせ者はいない」し,患者さんにもにせ者はいない。失敗した自分もまぎれもない人間の中の一人である。そして,臨床は,競争ではなく,相互の協力である。


隣の家の芝生

金城 紀与史(手稲渓仁会病院 総合内科主任医長)


(1)大学外で研修するのが稀であった十数年前,なぜ亀田総合病院に行ったか? 今では超人気の亀田であるが,当時の倍率は1-2倍だった。学生時代,実習先の関連病院の指導医から「市中病院でないとありふれた病気を当たり前に診る医者にならないぞ」と脅された。そうかと思うと大学から出るのは自殺行為だと心配してくれる先輩もいた。沖縄県立中部病院のような厳しい研修についていける自信もなく,アメリカ人指導医Dr Steinが亀田病院に着任したことや,東京出身の私にとって房総半島は程よい遠さであることなどで受験した。

 研修が始まって半年たった頃,大学に残って研修中の同級生から自分は採血や点滴ルートの手技で立ち遅れていることがわかり,あせりを感じた。Dr Steinとの回診ではワシントン・マニュアルを調べて診療内容を徹底的に検証するスタイルであり,「このままでは点滴もとれない頭でっかちの医者になってしまう」と心配になった。研修病院を中途変更しようかと東京の病院に見学に行ったほどだった。

(2)迷いつつも残留できたのは同僚のおかげだった。自主的に抄読会を開くなどして,ともに研修している感触が得られたのは大きかった。指導医から教わるよりも自分らで調べたほうが頭に残りやすく,この時の知識は今でも大切にしている。加えてこの頃,亀田病院に赴任した一般内科指導医らは教育熱心であった。強烈な性格でたびたび研修医は怒られたが,「患者のために根拠に基づいた最善の医療をめざす」という指導姿勢で,輸液や栄養から電解質の補正・抗菌薬の選択まで事細かに厳格だった。この頃の自分はガイドラインに基づかない医療は犯罪だと思いこむEBM狂信者だったかもしれない。卒後3年目まで亀田病院でお世話になったが,学問的医学は面白いと感じつつも,医師として一生仕事を続ける自信はなかった。

 合衆国にその後渡ったが,根拠に基づいた医療を展開しない指導医はレジデントの間でひそかに悪口をたたかれた。「権威ある学会のガイドライン」が天下玉条のようになり,ガイドラインを覚えることに躍起だった。ところが,自分で原著論文にあたって徹底的に調べるようになると,いかに「エビデンス」がこの世に乏しいかをようやく悟った。ガイドライン信奉から改宗し,社会・経済・倫理問題が医療の現場に持ち込まれる「グレーゾーン医療」に惹かれるようになった。また,継続的に患者さんをフォローしていく喜びを味わったのも渡米してからで,医業を続けていく自信ができたのは卒後5年目くらいになってからだった。

 指導医の立場になったものの,原則を強調しながらグレーゾーンも教えるべきかどうか,悩ましい毎日である。

(4)将来のことで悩んだり決められない時は,とことん迷うのもよし,決めないのもよし。


No Quick Learner

葛西 龍樹(福島県立医科大学教授 家庭医療学)


(1)研修医時代から私はquick learnerではなかった。当時私の周りにもいかにもスマートで,溢れる知識で自分をアピールする人は結構いた。感心する一方で,自分とは縁のない世界と一歩退いていた。昔から試験勉強も嫌いだった。ただ記憶することや知識を競うことには食指が動かなかった。

 手技についても苦戦した。カナダへ留学する前は小児科の研修をしていたが,血管確保がうまくなかった。看護主任さんが私の先輩医師に「葛西先生に点滴させないでください。子供たちがかわいそうです」と上申するほどだった。幸い点滴の名人と言われていたその先輩が「自分も昔は下手だった。葛西が2回失敗したら自分が代わるから,やらせてあげてほしい」と言ってくれたおかげで私も経験を積むことができ,やがてうまくなった。

 ものを書くのも時間がかかった。退院時要約などは催促されっぱなしだった。同期の医師たちが症例報告などを何編も投稿しているのを横目に,症例に恵まれていたにもかかわらずなかなかものにせず,最初の論文が出版されたのは卒後7年目だった。書くことは嫌いではない。ただ,ゆっくり考えて書くのを楽しむタイプである。だから,メールにすぐに返信したりメーリングリストで慌ただしくディスカッションすることは不得意である。

(2)医師としての人生で忘れえぬ出会いは数多いが,最も影響したのはIan McWhinney先生との出会いである。私の著書『家庭医療――家庭医をめざす人・家庭医と働く人のために』(ライフメディコム)でもこれに一章を割いている。カナダの家庭医たちから「誰も経験したことがない」と羨ましがられた4週間の個人教授は,今にして思えば,1968年カナダの大学に初めて家庭医療の部門を設立して世界で最も卓越したバックボーンを創りあげた彼が,将来日本で家庭医療が発展することを期待して私に託した贈り物なのである。

 この時も,けっしてquick learnerではない私は,時間をかけて彼の著書を読み,(単純な英文法から哲学的な問題まで)何でも彼に質問し,彼も時間をかけてていねいに答えてくれた。時々「自分の考えはGreco-Roman式だ。リュウキ,Indo-China式に考えるとどうなるか教えてほしい」と逆に聞かれた。「禅が何かを言うことはできないけれど,私のこころには確かに禅が存在していると思います」とか「英語の“care”は日本語の“手当て”に相当しますが,“手当て”は文字通り苦しいところに手を当てて癒すことを意味します」などという私の答えを聞いた時のいかにも嬉しそうなIanの顔を今でも覚えている。

(3)カナダで研修していた頃の思い出の曲は,Richard Marxの“Right Here Waiting”である。夜中に往診に呼ばれてバンクーバーの美しい夜景を見ながら運転している時に,なぜかいつもこの曲がカーラジオから流れていた。

(4)古風だと言われるかもしれないが,若い人には志を持ってほしい。志が自分を育てる。競争ではない。「心のなかですばらしい考えを育てるのだ。なぜなら,自分が考えている以上にすばらしい人間にはなれないのだから」というBenjamin Disraeliの言葉が好きである。


感染症だけはローテーションすまい!→No Stain, No Life

遠藤 和郎(沖縄県立中部病院 内科部長・感染症グループ)


(1)沖縄県立中部病院での研修を決めた理由はいい加減なものだった。米国文化(主にファッション)と海が好きだった私は,米国に留学できる研修病院がある。しかも“太陽サンサンの沖縄!”という安易な動機から採用試験に臨んだ。結果は当然不合格。ところが奇跡的に補欠採用に滑り込んだ。採用の電話連絡を受けたのは,父の葬儀の最中だった。これは父が沖縄での研修を許してくれた証拠と勝手に解釈し,沖縄行きを決心した。長男の暴挙を許してくれた母の寛容さに心から感謝している。

 感染症グループの指導医は,日本の臨床感染症の元祖である喜舎場朝和先生だった。喜舎場先生は手抜きや不注意によるミスを一切許さない厳しい指導方針を持たれていた。一年次研修医の時,かなり優秀な二年次研修医が,白衣が汗でへばり付くほど緊張しながらプレゼンしている姿を見て,感染症だけはローテーションすまいと決心した。当時,初期研修修了後は大学の精神科に入局を予定していた。精神科には感染症は必要ないと理屈をこね,感染症の研修を外してほしいと上級研修医に懇願した。しかし必死の願いは聞き入れられず,精神科でも発熱患者は診るとのもっともな助言により,運命の感染症グループ研修が始まった。

(2)小心な私は日々緊張の連続だった。そんな中,大酒家の肺炎患者が入院した。発熱と咳は数日前からだったが,数週間で体重が5キロ減っていた。痰からは典型的なグラム陰性双球菌が検鏡され,モラクセラ肺炎として治療を始めた。喜舎場先生にプレゼンすると,「それでは理屈に合わん! 抗酸菌染色(AFB)は?」と聞かれ,おずおずと「抗酸菌は見えませんでした」と答えた。すると「今日は個室に収容。明日も必ずAFBを染めるように!」と厳命をいただいた。翌日しぶしぶAFBをすると,いきなり抗酸菌が視野に現れた! これには驚かされた。喜舎場先生に急いで報告したところ,「よく見つけた。個室に入れておいて良かった。AFBで結核を見つけると気分が良いだろう」とのお言葉をいただいた。

 初めて自分で結核を診断した興奮と,感染管理への配慮,そして何より喜舎場先生に褒めていただいた感激で,一気に感染症への興味が爆発した。特にグラム染色の面白さに取りつかれ,スメアを包埋し昆虫採集のようにコレクションした。ねちっこい病歴聴取と基本に忠実な診察,そして犯人の足取りを追うような塗抹検査と血液培養の繰り返し。道元禅師の「霧の中を行けば,覚えざるに衣湿る」の言葉どおり,喜舎場スピリッツはいつの間にか私のDNAに組み込まれていった。

(3)河島英五の「酒と泪と男と女」。なぜか涙腺が緩みます。

(4)感染症診療の基本として“No Stain,No Life”。塗抹検査なくして,わが人生なし。別の意味として,塗抹検査をしなかった研修医の命はない。研修医時代には「決して嘘のつけない師を持つ」ことが大切です。


こんな私でもあきらめないでいてくれた

岩田 健太郎(亀田総合病院 総合診療・感染症科部長)


(1)もともと,臨床医になるつもりはなかった。

 医学部に入学したのも自然科学と社会科学を同時に勉強したかったからで,高邁な理想に燃えて医学部の門を叩いた方々からみると噴飯ものの理由だった。私の履歴書には学生時代からエイズの予防教育に従事して,なんて偉そうに書いてあるが,当時好きだった女の子がやっていたサークルだったから入っただけの話で,格別ヒューマンな理由はなかった。実験室に入り浸っていた私には臨床医学はあいまいで,非論理的な思考・論拠がつきまとっているように思えて,率直に言って下にみていた。将来は基礎医学者になろうと思った。臨床経験は必要だと思ったから,できるだけ厳しくて短時間で必要なスキルを習得できる施設を求めた。それが沖縄県立中部病院だった。この伝統ある研修病院の歴史で,私くらい不純な動機でその門を叩いた者は,あるまい。

 さすがに自分の甘さにはいらだちを覚えていたので,一所懸命鍛えてもらおうと思った。しかし,スパルタで知られたこの研修病院でも私の甘さを直すことはできなかった。体力の限界を感じ,研修の厳しさに耐えかね,私は逃げるようにアメリカの研修病院に移った。今いるところから出られるのであれば,どこでもいい,というくらいの気持ちだった。この間の最大の収穫は,論文読みに夢中になっていた時期に「もっと患者を診なくては駄目だろ」という先輩の叱責であった。この叱責は私の心に厳しく突き刺さり,ダメ医者のどん底に陥りそうになっていた私をかろうじて,踏みとどまらせた。

 初めてのアメリカ生活は慣れぬ生活習慣と言葉の問題で大いに苦労した。医学知識も足りないし英語も上手くないから,患者からもナースからも信用が得られない。仕方がないから,足を使った。どんな些細なことでもすぐにベッドサイドに走り,体を使って克服しようと思った。どのみち,受話器から聞こえるナースの声はくぐもってよく理解できなかったので,直接会って話さないと業務にならなかった。

 その後も失敗談は続くが,こんな鬱々たる文章を新年早々,延々と読まされる方もたまらないであろうから,止めにしておく。

 なぜ,今も臨床医でいるのかはよくわからない。不純な理由でつきあい始めたHIVといまだにつきあっている理由もうまく説明できない。なぜ感染症を学んだのか,とよく問われるが,うまく答えられない。あいまいで,非論理的な思考・論拠がつきまとうこの業界に,いまだに居る。

 やる気のない研修医にどう接したらいいでしょう? 態度の悪い研修医は? 明らかに臨床に興味なさそう,知識や技術ばかりに注目して患者のことを考えていない,協調性がない,コミュニケーションを取るのが苦手……指導医講習会などで他の医師から受ける相談の大半はこういったところである。残念ながら,これだという答えを提供することはできない。ただ,「それって俺の研修医時代そのものだなあ」とは思う。そんな私でもあきらめないでいてくれた先輩や友人たちには頭が上がらない。そして,私もあきらめてはダメなのだと,思う。

(2)多くの師,友人,そして研修医との出会いがすべて糧になり,心の支えになっています。

(3)Bill Evansの“Gloria's Step”。魂を揺さぶるこの曲で何度も心のチューニングをしました。なぜ魂を揺さぶるか?聴けばわかります。

(4)世界中を敵に回しても,大切な友人は守りぬけ。


準備万端のNY研修,のはずが

岡田 正人(聖路加国際病院 アレルギー・膠原病科副医長)


(1)日本で研修した大学病院はそびえ立っていた。まさに最寄り駅から見渡す限り立っているのは,その病院とかかしだけであった。1年間の充実した研修の後,次は大都会で勝負と考え,NYはマンハッタンの病院に移った。そのころの私は自分が世界一だと思っていた。大学4年から購読し始めたニューイングランドジャーナルを毎週隅々まで読み,ハリソンはもちろん通読し,すでに専門と決めていた膠原病の教科書ケリーも読み終えていた。当時は日本ではほとんど普及していなかったACLSやATLSもほぼ満点で合格していた。NYでの研修にもまったく不安などなかった。少なくともNYに着くまでは,なかった。

 研修開始予定日より2週間早くNYに着き,まずは生活を整えようと電話会社に電話をした時とんでもないことに気づいた。英会話が苦手だったのである。医学書は日本語より英語の方が早く読めた,医学英語の本もカセットで暗記してきた,でも医学以外の英語はさっぱりであった。とにかく通じない。アパートに電話を引きたいといおうと思ったが“引く”ってどういったらいいかもわからない。

 これでは7月からみんなと一緒ではついていけないと考えた私は,2週間早く研修を始めさせてくれるように強引に頼み込んだ。これがまたいけなかった。オリエンテーションもなくいきなりニューヨークの病棟である。どこに何があるかも,どうやってオーダーするのかも何もわからない。ガードマンと糖尿病患者と婦長の区別もつかない。そして文法はあっているはずなのに会話もやはり成り立たなかった。外来で不眠の患者に“コーヒーは飲みますか?”と聞けば,“結構です”と医者だと思われていない会話になり,熱が39度というので口腔温か腋窩かが重要と思い“どこで測りましたか?”と聞けば“台所です”。

 得意の医学知識も,頸骨からウジのでているホームレスのおじさん,静脈がなくなって眼球にコカインを打っている勇敢なお兄さん,ひとりでSTD全集が出版できそうなプロのお姉さんのような実はお兄さんなど,石を投げても誰にも当たらない前任地ではまったく経験のない症例ばかりで毎日が一から勉強であった。結局,既に担当患者が10人以上いたためオリエンテーション中も病棟から呼ばれまくりでほとんど受けられず,やっと仕事が終わりアパートに戻っても唯一の明かりである台所の電球で翌日の回診の用意をした。

(3)完璧とはとても言えない研修開始であったが,何とか続けられたのは“君の英語力でこの病院に採用されたということはよほど医学ができるに違いない”といつも優しく接してくれた最初の指導医グレイニー先生のおかげが大きかった。アメリカ人らしい本当に心も大きな人であった。また,初めての休みに観に行った『ターミネーター2』で,敵のトラックの運転席に飛び乗り至近距離からバズーカ砲を連発する姿はこちらのストレスも一緒に吹き飛ばしてくれた。いまでは宮崎もびっくりの州知事である。

(4)研修医の先生方は始まったばかりの臨床医生活を楽しんでいるであろうか。悩むことはない,一所懸命がいちばん楽しいのである。


「先生は名医だ」の真相

宮地 良樹(京都大学大学院教授 皮膚生命科学)


(1)1977年に大学を卒業し,同級生五名とともに天理よろづ相談所病院ジュニアレジデントになった。将来は父の跡を継いで開業するつもりだったので,いかにコンパクトに充実した研修ができるか,という視点で研修病院を選んだ。当時は大学に残るのが普通だったから,われわれ5名はいささかアウトサイダーであったろう。しかし,そのうち三名は現在大学教授であり,私も『臨床研修プラクティス』誌の編集主幹を務めているほどなので,研修がいかに充実していたものであったことは想像に難くない。

 しかし,「いまだから言える“とほほ”な話」は枚挙にいとまがない。
胃管事件:研修開始数日目の朝,指導医から「胃管を入れておくように」いわれた。まあ胃管だから簡単だろうと思って「当然」口から入れた。指導医が回診で「口から入れましたか」とフリーズしてしまった。苦しい思いをさせてしまった患者さんには申し訳なく,お詫びして鼻から挿入し直した。
輸液事件:脳梗塞の患者さんの輸液に同じものばかりを使用していたら,少しずつ電解質が狂いだしてしまった。あわてて補正したが,患者さんはそれで体調がよくなったらしく「先生は名医だ」と持ち上げられ,内心忸怩たる思いで,真相をお話しし,お詫びした。この時,患者さんには正直に説明することで受容してもらえるのだという教訓を学んだ。
モニター事件:癌の末期の患者さんが亡くなった時,心電計がフラットになったことを説明し,ご家族に「ご臨終です」と告げた。そのあと,患者さんの両手を胸の上で合わせたほうがいいかなと思って,腕を動かすとモニター心電計が一回だけピッと鳴った。ご家族は蘇生したのではないかと一瞬ピクッとされた。ご臨終を告げる時はモニターを切らなければいけないことをこの時初めて学んだ。

(2)一年間のレジデント生活だったが貴重な出会いを数多く経験した。
恩師:当時の総合教育診療部長の今中孝信先生との出会いは私の医師人生のある一面を決定づけたと言っても過言ではない。今中先生は口は悪いが温かい心の持ち主で,患者さんへの接遇,権威におもねることのない合理的反骨精神を私に植え付けてくださった。
同僚:レジデント仲間には多大な影響を受けた。中でも,上田裕一先生(現,名古屋大学胸部外科教授)は最初のオーベンで基本的手技を教わった。昨年のこの欄に寄稿している郡義明先生(現,天理よろづ相談所病院総合診療教育部長)も同期レジデントで,二人とも,自分が病気になったら診てほしいと密かに思うほどの臨床家である。吉村長久先生(現,京都大学眼科教授)とは同じ釜の飯を食った同期であるが,いまでもレジデント時代と変わらぬつきあいである。
患者さん:肝癌末期の腹水で苦しいためいつもベッド上で座っておられる患者さんがいた。一日三回ベッドまで行き,患者さんの手に触れ,ベッド横の椅子に座って患者さんの目線で話すことを心掛けていた。「来てくれると痛みが和らぐ」と言ってくださった。いまでも回診の時は,必ず患者さんの目線で話し,スキンシップを忘れないようにしている。

(4)気力・体力・野心を持つこと。臨床決断で悩んだ時は,「患者さんが自分の親だったらどうするだろうか」という視点で価値判断をすること。


今日もERは「サタデー・ナイト・フィーバー」

早野 恵子(熊本大学医学部附属病院 総合診療部)


(1)沖縄県立中部病院で研修をスタートした頃,院内の窓のないゴキブリが出没する宿舎に住んでいました。沖縄のゴキブリは大きくてしかもブンブン飛びまわるので驚愕しましたが,すぐに足の裏で叩きつぶせるようになりました。時間があると同期のインターンたちが集まり,局所麻酔後,患者さんに「痛いですか?」と聞いたら「アガー」といったので縫合を続け,後にアガーというのが痛いということに気づきかわいそうなことしたと私が告白すれば,あるインターンは「君がERで診て帰宅させた患者,翌日虫垂炎で手術した」と指導医にいわれ冷や汗が……とか,病棟で喜舎場朝和先生が「こんな下手なグラム染色で何がわかるのか……」と真っ赤に怒って追いかけてきたなどの話がいろいろと出ました。カナダから指導医として来られたWillis先生のインターンのためのレクチャーの時間,みんなで眠っていたら突然Willis先生が床に仰臥されました。何事かとのぞき込むと,茶目っ気たっぷりにウィンクをされ,「眠そうだから私の身体で神経系の診察の練習をしなさい」と言われたので,皆,いっせいに恐縮し恥じ入ってしまいました。

 いわゆる屋根瓦方式の卒後研修システムで,1年上の研修医が後輩を指導するため,身近にいてどんなミスをしやすいかが予想でき,主治医としてデビューする時にも,回診やカルテのチェックなどにより先輩や指導医の容赦ない指摘……いえ手厚いカバーがあったことを今ではありがたく思い起こします。

(2)忘れ得ぬ指導医は,宮里不二彦先生。辛口のコメントで,多くを語らぬ,まるでCecilのテキストブックが歩いているような近寄りがたい存在でした。「もう,医師をやめたほうがいいんじゃない」とか「いったいいつまで,研修や勉強をしようというのですか。一刻も早く社会に貢献しようとは考えないのか」などと厳しいことを言われても,もっと言ってほしいような気分になるのは不思議なことであり,こわいのに絶大なる信頼と人気がありました。宮里先生が長い米国臨床留学を終えて赴任した宮古島の病院で,「今日は,どのようなことで来られましたか?」という医療面接の冒頭の質問が,日本語ではなかなか出てこなくて困ったという逸話もあります。

(3)あのころ,土曜のERは発熱の小児と不安げな母親であふれかえっていました。おりしも流行していた曲が「サタデー・ナイト・フィーバー」というのは少々できすぎた話ですが,「今日もサタデー・ナイト・フィーバーよね……」と言いつつERへ向かったものです。童顔のため沖縄の子供たちには親しまれましたが,母親のみなさんの琴線に触れるような言葉をかけてあげたかったと,子育て経験後の今は思います。

(4)研修医の皆さん,地を這うような臨床の日々,ロールモデルは見つかりましたか? 20年後の同窓会での元インターン氏の言葉。

「先生,ひとこと言いたかった! おかげで,20年間私は勤務医を続けています」
「私が,先生に何か???」
「先生は忙しくても楽しそうに働いていて,私が落ち込んでいた時にステーキをご馳走してくれた! そして,毎日Willis先生のレクチャーに行くようにすすめてくれた」と言われるのです。こんなごく当たり前のことを長い間覚えていて,20年後にフィードバックしてくださったことに感謝しています。


焼死を免れて

仲田 和正(西伊豆病院院長 整形外科)


(1)ある冬の夜,あまりの息苦しさに眼を覚ますと室内が煙だらけである。見ると横に置いた電気ストーブが倒れ布団が燃えているではないか。慌てて水をかけて消し畳の上で寝た。危うく寮の研修医十数名を道連れにするところであった。翌日何気なく黒焦げの布団を外に干しておいたら管理人のおばさんに「いったい何をしたのか」としつこく聞かれた。火事や地震で眼を覚まさぬような大物は焼死,圧死の危険が高いことを知った。同じ頃,同僚の小田和弘医師(現,南伊豆共立湊病院院長)は浴槽で泥酔しているのを土左衛門と間違われ管理人のおばさんが腰を抜かして,這って2階の研修医の助けを求めに来たこともあった。

(2)1978年自治医大卒後,静岡県出身の小生と山本和利君(現,札幌医大総合診療部教授)は静岡県立中央病院(現,県立総合病院)で2年間全科ローテート研修した。病院側も初めての多科ローテートで面倒だったと見えて研修プログラムは全部われわれに丸投げしてきた。ローテートの間にこっそり10日間の休みを入れギリシアに行ったが誰にも気づかれなかった(ふっふっふ)。失敗ばかりしていたが学生時代,山本和利君はセシルを,小生はハリソンを通読していたので内科医はけっこう一目置いてくれた。内容を覚えているはずもないのに,このハリソンを医局に置くだけで他のドクターをひるませることができ,ああいうものは水戸黄門の印籠のように大変役立つことを知った。

 「へき地で役に立つ医師になりたい」というのがわれわれの目標だったから全科を回ることにした。学生時代のポリクリとまったく異なっていたのは,「自分1人だったらどうするか?」と強い問題意識を持ってメモりながら回ったことである。産婦人科から研修を始めたが分娩は18例取り上げた。新米助産婦さんの分娩を横取りして申し訳ないので毎晩分娩室を掃除して帰ったらひどく感激されて「人は妙なところで評価されるものだ」と思った。産婦人科では「君らへき地に行くから」となんと執刀医としていろいろな手術をやらせてくれた。分娩台に勢いよく座った妊婦に頭を蹴られたりしたが皆とても親切に教えてくれ,われわれも貪欲に聞きまくった。歯科では抜歯もやらせてもらった。研修医の時は知らないのは恥ではない。知らぬ振りをして聞いて聞いて聞きまくるのが上策である。2年間が終わった時,メモをまとめて「全科研修虎の巻」と題して医局勉強会で発表したら他の医師,開業医からも大変喜ばれた。

 夜は寮で特に洋書を読みまくった。酒も飲みたいから結局,深夜飲み屋のカウンターの隅でビールを飲みながら勉強する方法を編み出した。先輩医師もNEJMは読んでいても英語の単行本はほとんど読んでおらず古今の医学洋書の名著を多読すれば結構いい線に行くのではないかと思った。和訳されている洋書の数なんてたかが知れている。英語を読むことにより人の知らないような良質な情報,名著に巡りあうことができる。医局勉強会で「腹部単純X線の読み方」をまとめた時は,洋書を何冊も通読してからまとめた。本や論文を1回読んでも1か月もすればほぼ完全に忘れてしまう。読んでまとめてプリントにし勉強会で人に教えると,最も自分の知識として定着する。またそのプリントを折に触れて読み返し怒涛の反復を行うことにより知識は確実に定着する。これはこの時,体得し,いまだに行っていることである。「学んで時にこれを習う。また楽しからずや」とは実はこのことなのではないかと思っている。

 卒後の2年間は人生で最も印象深く充実した最高の日々であった。この2年間の全科研修は小生の一生の財産となっている。