医学界新聞

連載

2007.04.23

 

Dream Bookshelf

夢の本棚  14冊目

渡辺尚子


前回よりつづく

■泣く大人

著:江國香織
世界文化社
2001年(04年に文庫化)
文庫・231ページ
500円(税5%込)

 今日はどうしたらよいのか戸惑った。いつもにこやかなある患者さんがカーテンを閉めて泣いていたのだ。4人部屋なので周りの人を気遣っていたのだろう,一生懸命こらえているような小さな嗚咽が聞こえた。たまたま別の患者さんに対応していた私はそれに気づいたが,「どうかなさいました?」の一言が出なかった。彼女のその時間に,触れてはいけないような気がして。

 悶々とした気持ちで眠りについた。あの時どうしたらよかったのだろう,と思いながら。

 「また来たね,あなたの書斎に……」。先生! 今日の出来事で先生が昔言われた言葉が鮮明によみがえってきました……。そう言いかけた時,私の足元に一冊の本が落ちてきた。書名は『泣く大人』。今日の出来事にぴったりだわ。以前に書名を見た記憶がある。拾い上げて出版年を見ると「2001年」とある。「あの時も,先生の言葉を思い出したけれど,わざと触れないようにしていた」。少しためらいながら,いつもの椅子に座ってページを開いた。

 目次を見ると4つの大きな章「雨が世界を冷やす夜」「男友達の部屋」「ほしいもののこと」「日ざしの匂いの,仄暗い場所」からなっていて,日々の出来事がエッセイとして散りばめられている。最初のエッセイは「アメリカンな雨の事」という表題。特別な事が書いてありそうな予感を持ちながら読んでみる。6ページに渡って,著者が飼っている「雨」と名づけた犬のことが書いてあった。言葉にすれば「私の犬の“雨”はこうなのよ」の一言で終わるが,“文字”というものを使って語られたとき,言葉で語る以上の深みが増して「雨」の存在の重要性がよくわかる。

 はじめは大人が泣くことの意味について触れている本なのかと思っていたが,本を読み進めていくうちにそうではないことがわかった。日々の出来事,たとえ他愛無いことだとしても,無駄にはできないという,日常の大切さを感じさせてくれる。日常の何気ない出来事,何気ない風景,何気ない言葉。気にも留めなければその意味さえ考えず過ぎ去っていくことが,どんなに暖かくて,冷たくて,重要で,軽率で,幸せで,大切な日々のひとこまなのかが心にしみてくる。

 時に楽しく,時に悲しくなりながら読み進んでいく。普通のことの大切さを感じながら,あっという間に「あとがき」まできてしまった。あとがきの一文が心に残る。「私は『泣かない子供』だった自分を少し心強く思いますが,『泣く大人』になれて嬉しい」

 読み終えたとき,今日人知れず泣いていたあの患者さんへ伝えたい言葉が自然に湧いてきた。

 「色々辛いことはあるけれど,日々の何気ない出来事の中に幸せもあるのだわ。流れに逆らって生きなければいけないときもあるけれど,心が傷ついたときは,流れに身を任せているのもいいのかもしれません。でもその辛さを言葉に出して軽くするのも大切ですよ。話したくなったらいつでも私は隣にいます」。そういってあげたいと,心から思った。

 そんな言葉が自分のなかから出てきた時,とても穏やかな気持ちで目が覚めた。

(次回につづく)


渡辺尚子
「また新年がやってくる」……自分が“また”と言っていることに気づいて驚いた。いつの間に新鮮味をなくしていたのだろう。新年なのだからもっとフレッシュに! とにかく「どうか昨年よりはいい年になりますように」と願うばかり。

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