医学界新聞

 

名郷直樹の研修センター長日記

16R

ふりかえり

名郷直樹  地域医療振興協会 地域医療研修センター長
横須賀市立うわまち病院
伊東市立伊東市民病院 臨床研修センター長


前回2609号

□月□日

 1年目の研修医が来てから3か月,長いような,短いような,不思議な3か月だ。へき地での単調な生活と比べるとあまりにいろいろなことがあって,ずいぶん長い時間が経ったような気がする。物置状態の工事中の看護学校の一室からのスタート,湿気と騒音の中での毎日。生まれて初めての病院の内科外来,朝から晩までしゃべり続けた研修医のオリエンテーション,新しい研修センターへの引越し,ローテート研修を受け入れたことがない病院でのローテート研修開始,へき地医療をめざしたいという学生の実習の受け入れ。いろいろなことがあった。その反面,そのいろいろがすべて昨日のことのようで,あっという間の出来事という気もする。なんだかわからない。

 そんな,長々とした,あっという間の研修の中で,ひとつ大事にしてきたことがある。研修医自身が日々ふりかえることだ。日々の活動の記録と称して,1日1日を一定のフォーマットに記録してふりかえる。形成的評価と呼ぶらしいのだが,明日からの研修をどうしていくのかを考える時,これまでのふりかえりを重視する。ふりかえって,現状を把握し,それを今後の研修に生かしていく。これまでの評価というだけでなく,明日のための評価。そういうとかっこいいけれど,実際はふりかえるばかりの毎日。明日のための評価になっているかといわれれば,言葉に詰まる。さらに最初1か月は毎日書かれていた記録も,今では途切れ途切れ,明日のためどころか,ふりかえることすらできていない。

 そういう私自身は,この3か月のふりかえりというより,この10年のふりかえりがまだ始まったばかり。今の自分に追いつけない。なんてこった。日々の活動の記録というように,ふりかえるのはせいぜい1日,長くても1週間にしておいたほうがいい。10年をふりかえって,ろくなことはない。自分のふりかえりで精一杯,研修医のふりかえりどころじゃない。それでもふりかえるしかない。ふりかえれ,という昔の歌のように(そんな歌のこと誰も知らないか)。

 久しぶりに歌を聴いた。20年以上も前の懐かしい歌。歌を聴いたら,なんかすっかり感傷的ふりかえりモード。10年どころか20年前がフラッシュバック。

 何がどうして,どこでどうなっているのか。ふりかえったあとで,歩き出したのか,出していないのか。別に悔やんでなんかいないけど。ちょっと強がり。強がりはよせと,そんな言葉が聞こえてきそう。

 外は暗い。歌も暗い。とんでもない暗い歌だ。聴くんじゃなかったな。強がっていないやつなんているのか。もっと明るい歌を聴けばよかった。

 歌を止めると,遠くで汽笛の音が聞こえる。一瞬幻聴ではないかとびくっとする。ああ,そーだ,ここは海の近く,Z市。汽笛の音は何か特別な音だ。なぜ特別かって,自分でもよくわからない。どうして汽笛の音は特別なんだろう。自分のどこかで,汽笛のボーッがこだまする。汽笛は鳴る。船は出ないのか。あるいはすでに出たのか。自分は船に乗っているのか,それとも見送るほうなのか。止めたはずの歌の続きが聞こえてくる。今度は本当に幻聴か。幻聴ばかりか,幻視まで。遠ざかる,船のデッキに立つ,もう一人の自分。

 遠ざかる,港に立つ,もう一人の自分,といったって同じことだ。船に乗る自分と見送る自分。どっちがどっちなんだ。医学部に合格した時,船に乗ったのか,それとも降りたのか。そんな昔の話をしてどうする。それじゃ,へき地の診療所を去った時,船に乗ったのか,降りたのか。研修センターに来た時,船に乗ったのか,降りたのか。

 ふりかえりは重要だ。それが歩き出すエネルギーになるように。乗ったか降りたかなんて問題じゃない。今歩き出すことだ。前向きに,少しはましな明日のために。でも少しはましな,なんてカッコをつけてると,きっとドツボが待っている。歩き出したのが,前なのか後ろなのか,それすらわからない。またしても堂々巡り。

 もうすぐ9月。私自身もうさっぱりなんだかわからない。研修医もあんまりふりかえり過ぎるとよくないかもしれない。自分はもうすでにふりかえり過ぎだ。

 医療ハ役ニ立ツンダッタッケ,ドウダッタッケ
 研修ハシナキャイケナインダッタッケ,ドウダッタッケ
 僕ハモウ忘レチャッタンダ

 支離滅裂な日記の中の自分。去っていった過去の自分。こうした日記を書いている自分。そして日記を書く自分をふりかえる自分。自分の無間地獄。どこまでいっても自分から逃れられない。自分勝手が止まらない。ふりかえればふりかえるほど,自分の勝手な妄想が,取りとめもなく,思い浮かんで,挙句の果てには,わけがわからない。妄想といわず,夢といえばいいのかもしれないが,それもまた自分勝手な夢に過ぎない。

 ふりかえるのは自分のことばかり。ふりかえりの中で自分を消すことができれば。自分を消すなんて,自分が自分でなく,自分自身を普遍物に仕立て上げ,自分を神と勘違いする,それこそ妄想か。しかし,自分勝手の「勝手」の部分を何とかしようともがいても,どうにかなるもんじゃない。せめて自分勝手の「自分」の部分を何とかできれば。「自分」を消せば,「勝手」も消えるかもしれない。日記の表紙から,自分自身の名前を消しても,それでも書き続けることができるかどうか。ただそれができるのなら,誰がふりかえることなどするものか。研修医の役割なんてえらそうなことをいったが,実は自分の役割がわからない。勝手医療,雑用,役割,ふりかえり。考えがぐるぐる回しで終わらない。とりあえず今日はシステムエラーで強制終了。


名郷直樹
1986年自治医大卒。88年愛知県作手村で僻地診療所医療に従事。92年母校に戻り疫学研究。
95年作手村に復帰し診療所長。僻地でのEBM実践で知られ著書多数。2003年より現職。

本連載はフィクションであり,実在する人物,団体,施設とは関係がありません。