医学界新聞

 

名郷直樹の研修センター長日記

17R

いい加減な気持ち

名郷直樹  地域医療振興協会 地域医療研修センター長
横須賀市立うわまち病院
伊東市立伊東市民病院 臨床研修センター長


前回2617号

□月●日

 この3か月間,研修医以外にも多くの学生がここにやって来た。どこでどんなうわさを聞いたのか知らないが,続々と学生がやってくる。この夏だけでも50人以上だ。そして,その大部分の学生が,地域医療がやりたいんです,へき地の医者として人々のお役に立ちたいんです,島で医者をやりたいんです,などと殊勝なことを言う。もちろん実家が近いので見学に来ました,という人もいるのだが,むしろ少数である。へき地医科大学の卒業生として,義務としてのへき地医療がなければ,きっとへき地医療に目もくれなかったであろう自分自身を省みるに,こうした学生がこんなにもたくさんいるとは! 信じられないような話だが本当だ。

 自分自身のへき地医科大学の入試の時を思い出す。入りたい一心で,それも医者になりたいというより,親元を離れて遠くに行きたい一心で,へき地医療をやりたいんですといううそ八百を,大きな声で,うそっぽくないように答えたこと。その時は本人もうそだと思っていなかったかもしれないが。今となっては,へき地医療どころか,医者になりたいというのもうそだったかもしれない。まったくひどいもんだ。入学試験の面接ででたらめなうそをついた。そのあとうそをつき続けて医者になった。さらにその後もうそ八百を重ねてへき地に居座った。それはあまりにも明らかだ。ただそれを明確に自覚することで,むしろへき地医療の現場にとどまることができたというのは,うそから出たまことと言うか,まことなんて最初からないというか,たぶん後者だろうとは思うのだが,まあ人生はこんないい加減でもいいんだ,と腑に落ちたからにほかならない。自分にとってこうあるべきというような人生は見つからないと断念したからこそ道が開けた。義務を終えさえすれば,へき地医療をやらなきゃいけない理由はどこにもないが,やめなきゃいけない理由もどこにもなかった。どうでもいいと思えたからこそ,いろいろ選択の余地があった。

 本当にへき地医療をやりたいなんて思っていたら,自分の理想の地域医療と現実のギャップにくじけてしまって,義務を終えた後までへき地医療の現場にとどまろうなんて思わなかったかもしれない。あるいは,へき地医療以外にこういう医師になりたいということがはっきりしていれば,それこそそっちへ行ってしまっただろう。へき地医療がやりたいということもなく,かといって他の臓器別専門医になりたいということもなかったからこそへき地にとどまることができたし,そして今の自分,研修センター長,変な仕事である。これが私のやりたかった仕事なのだろうか。そんなことはわからない。ここへもまたそんないい加減な気持ちでやって来た。ただ今度は義務でもなんでもなく,自分自身の選択の結果として。

 ここへ来る学生も,私に似たり寄ったりで,そんな程度のことかもしれない。そうだとすれば,まあそんなこともありかなと思う。将来何をするかなんて,いい加減に決めればいいのだから。いい加減な気持ちで,地域医療,へき地医療がやりたいと決めてしまう。すばらしいことだ。

 いい加減な気持ちで,確かな理由もなく,自分の進路を決めることがすばらしいなんて,意味がわからない。そうかもしれない。多くの人にとって多分そうだ。でもこれがすばらしいんだ。今日は断固これを主張したい。

 確かな根拠をもって決める,というのはちょっとおかしい。確かな根拠があれば決まってしまう。確かな根拠がないから決める。本当はみんなそうして決めている。睡眠不足だけどがんばるのでなく,睡眠不足だからがんばる。目覚まし時計と母親が似ていると教えてくれたわが師匠も,そういっていたではないか。睡眠不足だってがんばる理由だ。はっきりした理由はないが,いや,そうじゃない。理由がないからこそ,いい加減に決めてしまえばいいのだ。とにかくがんばれと。とにかく決めろと。

 目覚まし時計と家族は似ているし,参考書と先生も似ている。いい家族といい先生に恵まれて,今の自分があるといったって,目覚まし時計と参考書のおかけで今の自分があるといったって,同じことだ。事実,私が医者になったのは,目覚まし時計と参考書のおかげである。これをいい加減といわずして何というか。さらに,わが師匠の「目覚まし時計と母親は似ている」という前提が正しいとすれば(なわけないか),母親のおかげで医者になったというのも相当にいい加減な決め方に違いないのだ。

 先日家族で買い物に行った時のこと,一緒に服を選んだのだが,何でもいいよという兄,いちいちこだわる弟。どっちが決めるという能動的な決断をしているのだろうか。どっちが主体的に決めているんだろうか。どっちがいい加減なのか。普通に考えれば,主体性のない兄と,主体性のある弟,ということだろう。

 いい加減,決断,主体性,子供の服の選び方。子供と服を買いながらハッと気付くなんてこともあるんだ。誰が主体的なのか,誰が自ら決断しているのか,わかった気がする。兄のほうは,他人の目をあまり気にすることもなく,自分自身でどうでもいいと決めている。弟のほうは,友達の着ているものに影響されやすく,自分自身で決めるというより,友達との関係で決まっている。兄は自分で何でも決められる案外主体的な子供じゃないだろうか。弟は逆に他人との関係をよく考慮する,協調性のある子供かもしれない。

 いい加減こそ主体的である。今日の結論はいつもと違ってかなり自信がある。風呂へ入って確信した。

「なんていい湯加減だ」

 確信と書いたとたんにこんなオチを書かずにいられない。こんなオチじゃまったくトホホだ。あいかわらず。


名郷直樹
1986年自治医大卒。88年愛知県作手村で僻地診療所医療に従事。92年母校に戻り疫学研究。
95年作手村に復帰し診療所長。僻地でのEBM実践で知られ著書多数。2003年より現職。

本連載はフィクションであり,実在する人物,団体,施設とは関係がありません。