医学界新聞

 

〔連載〕
かれらを
痴呆
呼ぶ前に
「ボディフィールだー」出口泰靖のフィールドノート
    その9
  「もの忘れ」は痴呆のはじまりではないの巻
出口泰靖(ホームヘルパー2級/山梨県立女子短期大学助教授)


2573号よりつづく

 不勉強なせいか,「痴呆になること」とはそもそもどういうことなのか,よくわからなくなることがあります。痴呆とされる人とそうでない人との違いの1つに「もの忘れ」があるといわれていますが,何を隠そう,僕も最近「もの忘れ」をよくするなあと思うようになりました。

「あれ,手帳がない…」

 つい先日,ある研究会で発表するために東京に出むいた時のことです。東京に着いてから,研究会の時間まで少しあるので久しぶりに新宿の本屋に立ち寄って買い物や注文をしていました。久しぶりに新宿に出てきて,人混みの中で少し「人酔い」して気分が悪くなってきていた僕がフト時計を見ると研究会の時間まではもうギリギリ。ハッと我に返って,これは先方に連絡しなければと思い,手帳を取り出そうとカバンの中をのぞいたのですが見あたりません。あれ,しまった,どこかで置き忘れたか,と内心焦る気持ちを押さえながら,人酔いと立ち読みのしすぎのためボンヤリした頭の中で,出かけた時からの記憶をグルグルとたどってみることにしました。
 えーと,確か,出かける前にトイレの中で用を足しながら手帳を見てスケジュールをチェックしていたな,それから,甲府―新宿間の特急あずさの座席で手帳を出し入れしたなあ。そうだ,その電車の座席で置き忘れたに違いない。
 そこで駅の遺失物取扱所に手帳がないか確認してもらおうと新宿駅に電話すると,直接ホームに来ないとわからないと言われ,駅に引き返すことになりました。
 駅に向かう間も私の頭の中では,「さーて困ったぞ,今から新宿駅まで戻って手帳を探してもらうと研究会には間に合いそうにもない。でも大事なクレジットカードも入ってるしなあ」と焦燥と葛藤の気持ちがないまぜになっていました。しかし,ようやくたどりついた遺失物取扱所の駅員さんはあっさりと「今日の忘れ物には手帳はありませんよ」と言うだけ。いや,そんなはずはない。確かに電車の座席に置き忘れたはずなのだが。
 研究会に大幅に遅刻してしまう焦りを感じながらも,「うーん」ともう一度さらなる記憶をたどってみると,大事なことを思い出しました。そうだ,そういえば本屋で「この本を注文しよう」と手帳にメモしていたんだっけ。なぜそれを先に思い出せなかったんだろう。何やってんだ僕はー,とまたもと来た道を戻って本屋にとってかえし,無事に本屋の店員さんから手帳は私の手元に戻ってきました。時すでに研究会の開始時間をとうに過ぎており,詫びの電話を入れ,手帳を探すために走り回った疲労と動揺の中,研究会での僕の話はさんざんなものとなったのでした。

「もの忘れ」と「勘違い」

 僕のこの「もの忘れ」の一件は,厳密には「もの忘れ」ではなく「勘違い」の部類に入るのかもしれません。つまり,手帳がなくなった時,すぐには電車の中で手帳をカバンから出し入れした時のことしか思い出せなかったわけですが,もう少し落ち着いて記憶をたどっていけば,本屋で手帳にメモをとっていた時の記憶がすぐによみがえっていたかもしれなかったからです。それを思い出していれば「電車に置き忘れた」などと「勘違い」することはなかったかもしれません。この出来事は「もの忘れ」ではなく「勘違い」,つまり,自分の記憶した情報をうまく操作・処理・活用できていなかったということになるのかもしれません。
 そういう意味では,「痴呆」も一般的に「もの忘れ」が激しくなること,記憶の喪失を1つのきっかけとして認知に障害が生じるものと理解されていますが,本当にそうなのかという疑問がわいてきます。実はそのことについて,正高信男さんという方が痴呆に関する論考で興味深いことを2つ言っています。

「もの忘れ」は痴呆のはじまりではない

 まず1つは,痴呆によってもの忘れをするようにはなることはあっても,もの忘れから痴呆がはじまるわけではない,痴呆は,記憶した情報を加工する過程に障害が生じることからはじまるのである,という見解です。彼によると,呆けはじめたとされる高齢者の人たちは,記憶能力そのものにおいて健常者と変わらないことが多い,むしろ,受けとった情報をどう加工するかという過程の一部に障害が見られる場合が多いことを実験調査によって立証しています。「痴呆」とされる人は,聞いたことや見たことは頭に入ってくるものの,そうした情報を自分にとってどういう意味のあるものかを短時間で見極めるあたりに,困難がつきまとうというのです。
 正高さんによると,認知や思考のために使用する外部からの情報は,3つの段階で処理されるそうです。
 まず,秒単位でいったん感覚貯蔵庫のような場所へプールし,ついで分の単位で短期的に記憶し,最後に永続的な記憶として定着されます。そして,その時々の認知や思考を行なうには,3つの段階のすべてから情報を随意,引き出して活用するんだそうです。
 そして,呆けはじめたとされる高齢者は,感覚貯蔵された情報と短期的に記憶された情報を取り出す行程の一部に障害がみられる場合が多いと正高さんは言います。身体をコンピュータに例えると,入力した情報は確かにメモリーとしてたくわえられているらしいのですが,課題を遂行する段になると,メモリーにアクセスできない領域が生じる,ということだと述べているのです。
 感覚貯蔵された情報と短期的に記憶された情報を取り出す行程の一部に障害が生じた人は,結果的に,認知・思考の際に長期記憶に依存することになります。正高さんは,これが「痴呆」とされる人が過去に回帰しているような言動をしてしまう引き金だといっています。

長期記憶を使った思考=「理」

 そしてもう1つ,興味深い意見を正高さんは言っています。「呆け」の実態は,感覚器を媒介とした情報によらずに,「理」だけにもとづいて認知思考を実行することにこそあるというのです。つまり,「痴呆」とされる人たちが,認知・思考の際に依存しようする長期記憶とは,すなわち「理」であると言うのです。
 彼が言うところの「理」は,デカルトの「我思う故に我あり」を思い起こしてもらえればわかりやすいでしょう。私自身が意識できる「私」こそが世界内に存在する個人の立脚点であり,この「私」が持つ「理」によって,感覚情報は制御されると考えること,つまりはその時々の感覚情報を「理」の下に位置づける「ものの見方」ということです。
 こうした「ものの見方」は,僕らにとってはあまりにも慣れ親しんだもので,それほど変だとは感じません。しかし,正高さんは,感覚を理の従僕として据え置いたために,眼・耳・鼻などの感覚器からやってくる感覚入力はそれぞれ視覚・聴覚・嗅覚のそれぞれのモードに対応するといったように,各感覚器を経て入る情報とそれが喚起する関係は1対1の対応であるかのような,あやまった前提ができてしまったといいます。

感覚は本来マルチモーダルなものである

 実際には,あらゆる感覚器官は,あらゆる感覚と結びつく可能性を有しているようです。正高さんは,その実例として乳幼児の観察から人間はもともと聴覚障害者のような視覚系のサイン言語を持ちうる存在であったとか,視覚障害者が指先の触感覚から視覚的イメージを形成し,俳人の正岡子規が寝たきりになる過程で,「視る」ことから視覚的イメージを抱ける感性を身につけたことについて取り上げ,僕たち健常者のほうが,実は感覚器と感覚との関係が単純化され,限定的にしか身体を用いていないと説明するのです。
 感覚貯蔵された情報,あるいは短期的に記憶した内容へのアクセスに関する機構に部分的な障害が生じたとしても,ある感覚器を介しての入力がマルチモーダルな感覚(映像,音,匂いなどの複数の感覚が同時的に感じられること)を喚起するなら,そうした障害の影響は柔軟に代償されうると推測できます。しかし,感覚器―感覚の関係が1対1の単線的な関係になればなるほど,部分的な障害が人にとって致命的なものとなりやすくなります。感覚を「理」で統御する近代人のあり方は,このように考えると,ずいぶん壊れやすいものだと感じられます。

近代人の「ツケ」

 正高さんは,「呆け」とは,感覚を「理」の従僕として扱う「ものの見方」に基づいて生きてきた近代人の「ツケ」であるとし,近代主義的身体観(感覚器―感覚モードの1対1関係)を修正する必要に迫られているのではないかと言っています。
 僕が手帳をどこに置き忘れたかについて「もの忘れ(あるいは勘違い)」したのも,正高さんの言葉を借りれば,感覚器を介しての入力がマルチモーダルな感覚を喚起できなかった,といえるかもしれません(まあそれは大げさで,ただの「健忘症」と言われそうですが)。僕は日常的に,マルチモーダルに感覚を喚起して認知思考しているのだろうか。マルチモーダルに感覚を喚起する身体を構築するにはどうしたらいいのだろうか。そんなことを考えてみたくなります。だからといって「指先を動かす運動を」とすすめられても困るのですが。

【文献】
正高信男:感覚の抑圧と近代主義,坪井秀人編『偏見というまなざし』青弓社,206~228,2001.

【著者紹介】  ホームヘルパー2級の資格を駆使して,痴呆ケアの現場にかかわりながらフィールドワークを行なう若手社会学者。自称「ボディフィールだー」として,ケア現場で感じた感覚(ボディフィール)を丹念に言葉にしながら,痴呆ケアの実像を探る。