医学界新聞

 

〔連載〕続 アメリカ医療の光と影 第37回

神の委員会(18)
「公正な医療資源の配分をめざして(1)」

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2579号よりつづく

 このシリーズでは,人工腎臓(透析)と人工心臓の開発の歴史を辿りながら,限られた医療資源を,どのようにして,公平かつ効率的に配分するかについて,市場原理と配給制の観点から考えてきた。
 医療技術の進歩は,同時に,過去に例を見ない医療コストの高騰をももたらした。現在,先進諸国においては,GDPの10%程度を医療費に支出することが常態化しているが,今後も医療技術が進歩し続ける限り,コストがますます高騰化することは避け得ない。
 しかし,どんなに富める国においても,社会全体として医療に振り向けることができる資源に限りがあることは明らかで,いかに素晴らしい医療技術が実用化されようとも,「ない袖は振れない」と,新たに開発された医療技術を医学的適応のある患者すべてに提供することはできないという事態が確実に到来する。現実に,開発途上国では透析に対するアクセスが保証されていない国のほうが普通であるし,世界一の大国アメリカでも,人工心臓(正確にはLVAD)に保険給付を認めたとはいっても,適応のある患者すべてに供給する体制はとられていない(第33回参照)。

スクリブナーと「神の委員会」

 限られた医療資源の公正な配分という観点で見た時,人工腎臓と人工心臓の開発の歴史はきわめて対照的である。人工心臓の研究者たちが人体応用への先陣争いや自らの利得を得んと研究の企業化に励み,研究者自身の功名功利を優先させたのとは対照的に,人工腎臓を実用化したスクリブナーは,非営利の地域透析センター設立に尽力するなど,新たな医療技術をいかにして社会全体に普及させるかに腐心した。
 スクリブナーが,非常に早い段階で腎透析へのアクセスを広げる努力をはじめたのも,彼が世界で初めての透析治療をはじめた時にはわずか5人を治療する体制しかなく,どの患者を救い,どの患者を救うべきでないかという,苦渋の選択を迫られたからに他ならない。腎透析という限られた医療資源を「配給」せざるを得ない立場に立たされたからこそ,すべての患者にアクセスを保証する体制をつくることの必要性を痛感したのである。
 スクリブナーは腎透析の配給に当たって,配給に与ることができる患者の選択を「神の委員会」に託した。どんな医療者でも,まず,自分の受け持ち患者を救いたいと思うのが人情であり,医療者自らが配給先の決定にかかわる仕組みは公平な配分には向かないと判断したからである。
 また,市場原理を厳しく適用して,透析へのアクセスを競売で競り落とした患者のみに治療を実施するということも可能だったが,スクリブナーは,そういった方法は考えもしなかった。社会が合意できる基準で配給先を決定してほしいと,「神の委員会」に社会の意思を反映することを託したのである。結果として,「神の委員会」は,「患者の社会的価値(social worth)」に重きを置くきらいはあったが,スクリブナーが実践した「配給は社会が合意したルールの下で」という原則は,今でもその価値を失っていない。

市場原理と不正義

 現在,医療における配給の典型は臓器移植における臓器配給である。市場原理派の人々が主張する,「医療にも市場原理を厳しく適用することが正義である」とする原則を演繹すれば,臓器の配給も「臓器売買(オークション)」で行なうのが正しい施策となるのだろうが,現在,先進諸国で,臓器売買を許容している国は存在しない。死生観など文化の違いがあるにもかかわらず,臓器売買は許容できないということでは誰もが一致しているのである。生死の分かれ目の決定を市場原理に委ねることは著しい不正義であるという共通認識があるからに他ならない。
 臓器売買が不正義であることに合意できるのであれば,人工腎臓,人工心臓を競売にかけるということが不正義であるということにも,容易に合意できるだろう。人工臓器にとどまらず,生死に関わる医療・身体の重要な機能に関わる医療については,これを市場原理に基づいて配分することは著しい不正義となることは,論を待たないのである。
 しかし,なぜか昨今の日本では,「混合診療解禁」の名のもとに,「高い価格を払った人だけに必要な医療へのアクセスを許すことが正義である」という意見が声を強めている。さらに,総合規制改革会議がその代表であるが,混合診療解禁を唱える人々は,単に市場原理が正義であると主張するにとどまらず,「企業のビジネスチャンスを拡大しろ」と,医療を「corporate greed(企業の欲望)」に曝すことをめざしているだけに,呆れざるを得ない。