医学界新聞

 

〔連載〕続 アメリカ医療の光と影 第32回

神の委員会(13)
スポットライトの影で

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2567号よりつづく

 1982年12月のバーニー・クラークの手術にはじまった完全置換型人工心臓ジャービック7の臨床治験は,常にメディアのスポットライトを浴びる中で行なわれた。治験を主導した心臓外科医デブリースは,最先端医療を果敢に推進するパイオニアとしてメディアからもてはやされ,時代の寵児となったほどだった。

失われた期待

 しかし,皮肉なことに,デブリースの治験に終止符を打つことに最大の寄与をしたのも,メディアの影響力だった。「最先端医療・夢の医療」と喧伝された人工心臓だったが,脳卒中・感染など,患者たちが次々と重篤な合併症に苦しめられた経過もつぶさに報道され,社会が抱いた過剰ともいえる期待感がしぼむのも早かったのである。治験の初期には毎週100例を越えた患者がデブリースに紹介されたが,ジャービック7に対する失望感が蔓延するとともに激減,88年初めには2週に1例と,「人工心臓なんてまっぴら」と思う患者が増える一方で,被験者になりたいという患者は実質的にいなくなってしまったのだった。
 デブリースが,JAMAにジャービック7の治験結果をまとめた論文を発表したのは,88年2月だった。デブリースは,実用化するためには「血栓と感染」というジャービック7の2大問題を克服する必要があることを認める一方で,「短期間とはいえ,患者はジャービック7のおかげで得た生を享受した」とその「成功」を強調した。しかし,デブリースの報告についてのJAMAの論評は,「移植までの『橋渡し』として一時的に人工心臓を使用することについて多くの知見を与えたものの,今の技術レベルで永久使用をめざした治験を続けても有益な情報は得られない」と,一定の功績は認めつつも,ヒトに人工心臓を永久使用する治験を継続することについては否定的な見解を示した。
 永久使用をめざした人工心臓研究に対する社会と医学界の熱が冷める中,84年に三顧の礼をもってユタ大学からデブリースを引き抜いた株式会社病院ヒュマナ社も,人工心臓研究からの撤退を決めた。88年6月,デブリースは淋しくヒュマナ社を退社したのだった。

着実に進行した「地味な」研究

 メディアの脚光を浴びた永久使用をめざす研究が打ち切られる一方で,メディアにとっては,はるかにニュースバリューの劣る「一時使用」をめざす研究が着々と進展していた。例えば,永久使用をめざしたジャービック7の埋め込みは,82年12月のバーニー・クラークにはじまって85年4月の最終症例までわずか5例(註1)にしか過ぎなかったが,85年8月から88年末までにジャービック7を移植までの「橋渡し」として装着された患者は138例に達し,メディアが永久使用という「ヒロイックな」研究にスポットライトをあてる影で,一時使用という「地味な」研究が着実に進行していったのだった。
 それだけでなく,患者の心臓を取ってしまって機械と置き換える「ドラマチック」な完全置換型の人工心臓がメディアの大きな注目を集める裏で,患者の心臓を温存してその機能を補助する左心室補助装置(LVAD)の研究が進み,完全置換型よりも優れた成績を示すようになっていた(註2註3)。1995年には,連邦政府が運営する高齢者医療保険のメディケアが,LVADを移植への「橋渡し」として使用することに対し保険給付を決定するまでになったのだった。

「橋渡し」から「永久使用」へ

 かくして,移植への「橋渡し」としてLVADを装着される患者の数は急激にふえたものの,ドナーの数は横這いのままに終始した。その結果,「橋渡し」のLVADを装着されながらドナーが現れないまま亡くなる患者が増える一方で,長期生存を遂げる患者も現れるようになった。非常に皮肉なことに,「一時使用」の目的でジャービック7やLVADを装着された患者たちが,「永久使用」を目的としてジャービック7を装着された5人の患者たちの生存記録を次々と更新していったのだった。患者の生存期間が伸びるとともに,LVADを移植への「橋渡し(bridge)」として使用するのでなく,心不全治療の「最終目的」に使用する「destination therapy」の考え方が登場し,その有効性が証明されるようになった(ニュー・イングランド・ジャーナル・オブ・メディスン345巻1435頁,2001年)。
 2003年10月,メディケアは,LVADを「destination therapy」に使用することに対する保険給付を決定,「destination therapy」は「必要かつ有効な」治療として正式に認知された。機能しなくなった心臓を機械で代替するというゴールを達成するために,デブリースらは,いわば,「完全置換型人工心臓の永久使用」という正面突破作戦を試みたのだが,結果として彼らのゴールを先に達成したのは,「心室補助装置の一時使用」というからめ手からの攻略だったのである。

(註1)ジャービック7は,デブリースの4人の患者以外に,85年4月,スウェーデンで53歳の患者に装着された。
(註2)デブリースがジャービック7の永久使用に関する4例の治験結果をJAMAに報告したのと同じ週に,LVADについて29例の治験結果を報告する論文がニュー・イングランド・ジャーナル・オブ・メディスン誌に発表された。
(註3)1990年にFDAがジャービック7の認可を取り消した後,LVADが「橋渡し」の主流となった。