医学界新聞

 

〔連載〕続 アメリカ医療の光と影 第30回

神の委員会(11)
人工心臓とウォール・ストリート

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2562号よりつづく

【前回までのあらすじ】
完全置換型人工心臓ジャービック7の臨床治験を行なっていたデブリースは,ユタ大学での研究が進まないことに業を煮やし,株式会社病院「ヒュマナ社」に研究の場を移した。


 前回も述べたように,株式会社病院「ヒュマナ社」が,デブリースを招聘し,ジャービック7の臨床治験のスポンサーになった理由は,病院の知名度を上げるための宣伝活動だけにあったのではなかった。実は,ヒュマナ社は,ジャービック7の臨床治験に関して,直接の金銭的利害関係を有していたのだが,この辺りの事情をご理解いただくために,まず,ベンチャー・ビジネス「コルフ・アソシエーツ」設立の経緯から説明しよう。

人工心臓の「ベンチャー企業」

 人工心臓研究の祖ともいうべきウィレム・コルフが,「ベンチャー・ビジネスを設立する」と,突然の宣言をして研究室のメンバーを驚かせたのは,1976年3月のことだった。「政府(NIH)の研究予算は将来に渡って保証されたものではない。政府からの研究資金が尽きた場合に備えて,研究を企業化し,企業を通じて研究資金を調達する準備を整えておかねばならない」というのが,コルフの説明だった。ジャービックはじめ,研究室の主だった面々は,「人工心臓の使用は研究室での動物実験に限られているし,商品化の目途もたっていないのに企業化するなどもっての他」と,コルフの提案に反対したが,コルフは強引に新企業設立を推し進めた。
 同年8月,人工心臓の製造販売を目的とする「コルフ・アソシエーツ」が設立された。会長はコルフ,副社長はジャービック,財務担当重役はコルフの秘書と,役員はすべてコルフの研究室のメンバーだった。出資金総額は3,500ドル,コルフとジャービックは,それぞれ,総株式の20%に当たる7万株(1株1セント)を保有,残りの株式は研究室のメンバーに分配された。コルフ・アソシエーツは,従業員もいず,オフィスもないペーパー・カンパニーに過ぎなかったが,NIHの研究予算とユタ大学の研究施設に「ただ乗り」する形で,自社製品となるべき人工心臓の研究開発を行なったのだった。

現れた出資者

 企業創立2年目,人工心臓とコルフ・アソシエーツの将来性に賭けて,投資を申し出る企業が現れた。ジョンソン&ジョンソン社の子会社である手術器具会社が,総株式の6%に当たる増資分と引き替えに,3万5千ドルを出資したのだった(1株16.7ドルになった勘定で,何の経営実績もない企業の株価が,2年の間に1670倍に値上がりしたのだった)。
 やがて,ユタ大学の研究室で開発された人工心臓が商品として他の研究施設に販売されたり,パート・タイムながら専従の従業員も雇われるようになり,コルフ・アソシエーツは,徐々に企業としての体裁を整えはじめた。さらなる出資者を求めんと,コルフはウォール・ストリートの投資コンサルタント会社に助言を求めた。コルフ・アソシエーツに興味を示したウォール・ストリートの投資家の1人が,ウォーバーグ・ピンカス社ベンチャー部門のロドマン・ムーアヘッドだった。ムーアヘッドは,ケンタッキー州の新興株式会社病院,ヒュマナ社に対するわずか500万ドルの投資で,1億5千万ドルの巨利を得た経験があっただけに,医療への投資には関心が強かった。
 人工心臓が実用化された場合,適応のある患者は毎年1万5千人と見積もられ,1台2万ドルの人工心臓には年300万ドルの売り上げが見込まれただけに,リスクを冒してでも投資する意義は大きかった。82年1月,総株式の20%に相当する増資分と引き替えに,ウォーバーグ・ピンカス社が120万ドルをコルフ・アソシエーツに出資することが決まった(設立時3500ドルに過ぎなかった資本金総額が,6年後に600万ドルに増えた勘定である)。

急成長の裏で……

 このように,コルフ・アソシエーツは急成長を遂げたが,その裏で,経営権をめぐる権力争いも深まった。当初はベンチャー設立に反対したジャービックが企業経営にのめり込むようになり,彼にとって父親代わりともいえるコルフと,経営方針をめぐってことごとく対立するようになったのだった。ジャービックは,ウォーバーグ・ピンカス社との増資合意を締結した経営会議の際に,海外出張で不在のコルフから経営実権を奪うクーデターを断行した。
 一方,FDAがジャービック7の臨床治験応用を認可したことがきっかけとなって,コルフ・アソシエーツに出資したいという投資家が急増,ウォーバーグ・ピンカス社は,サウジアラビアの石油企業からの申し出を断るなど,出資者を募るどころか,投資グループを選り好みできる立場に立つことになった。
 ウォーバーグ・ピンカス社との増資合意から10か月後の82年12月2日,バーニー・クラークにジャービック7を埋め込む手術が行なわれ,投資家にとってコルフ・アソシエーツの価値はますます高まることになった。83年2月,ウォーバーグ・ピンカス社主導のもとに新たな増資が行なわれ,コルフ・アソシエーツは「コルフ・メディカル社」と名を変えた。厳選された株主企業数社は医療関連企業に限られていたが,その中に,株式会社病院ヒュマナ社の名も連ねられていた。