医学界新聞

 

連載(39)  心に残ったできごと……(2)

いまアジアでは-看護職がみたアジア

近藤麻里(兵庫県立看護大・国際地域看護)

E-mail:mari-k@dg7.so-net.ne.jp    


2528号よりつづく

【第39回】家族の不思議な絆

「難民キャンプ」の意味

 「難民キャンプ」と「難民」という言葉から,どのようなイメージを人々は持つのでしょうか。
 難民キャンプと呼ばれている場所は,ほとんどの場合,鉄柵か何かで包囲され,いったん中に収容されてしまうとIDカードで管理され,容易に外に出ることはできません。冷静に考えてみると,難民を庇護している国々にとっては,このような隣国の紛争や戦争に自らも巻き込まれる可能性がありますから,難民は「不法入国者」として,厄介者扱いされることが多くなるのかもしれません。
 ですから,最近よく耳にする「難民キャンプ」や「難民」という言葉を軽々しく使うことの危うさを感じているのです。

それは,普通の1日から始まった

 昨日までは普通の人だったのに,ある日突然,世界から「難民」と呼ばれる人になってしまった男性が,仕事の休憩中に私に語ってくれたことを,できるだけ忠実に言葉に表現してみようと思います。この26歳の男性は,妻と1歳の子ども,そして病気で弱っているご両親と一緒に暮らしていました。

 冬の穏やかな夕暮れ,ケーブルTVでサッカーの試合を観戦していた時に,1本の電話が鳴り響いた。それは,ドイツの友人からの不安そうな電話だった。
 「テレビのニュースで,コソボの状況が今放送されているけれど,大丈夫なのか?」
 「大丈夫だよ,こうして話してるじゃないか。このあたりは,特に何も起きてない」
 そう言って受話器を置いた時,乾いた銃声と人々の怒号がこちらに向かって大きくなるのを聞いた。そして,ブロック塀と正面の鉄の門に,銃が何発も打ち込まれる音が聞こえてきた。
 「まずい,離れて逃げろ!」と家族に叫ぶと,自分は妻と赤ん坊を抱えて,裏の窓から塀を越え薄闇の中を山のほうへ走った。母親も,後からついてきている。しかし,父親の姿が見えず,銃声だけが暗闇に響き,走ってきた方向からは真っ赤な炎が上がっていた。
 「家が燃えている」そう思った時,ポケットを探ると,小銭程度しか入っていなかった。山の中には,同じ村の人たちが逃げ延びて集まっていた。

「難民」になってしまった人々

 それから4日後に,憔悴した父親が独りで,家族が逃れていた場所にたどり着いた。避難していた人々が,山を越えて隣国へと脱出する中,家族たちは父親がここにたどり着くのを待っていた。しかし,銃声が激しく聞こえていたため,誰も父親が生きているとは信じていなかった。
 父親は,外にあった小さなトイレに潜んで,家に放火するさまを見ていた。そして,周りがすっかり静まり返った4日後に,誰にも見つからずに抜け出して,家族のいる場所まで歩いてきた。水しか口にしていないため,頬は痩せこけ,ひげも伸びていた。直視できないようなひどい状態で,「もう2度と,こんな父親の姿は見たくないと思った」と彼は言いました。

約束のない再会

 私は,ここで話を中断しました。
 「ねえ,みんなでそこで会おうって,約束していたの?」
 ははは,と笑って彼は答えます。
 「そんな時間はなかったよ。あっという間だったからね」
 「じゃあ,どうして会えるの?」と,彼に問いかけます。
 「じゃあ,どうして会えないと思うの? だって,現実に会えたんだ」

 その後,雪の降り積もる山を越えて隣国に逃れている時に,かれらは再び別々になり,両親は難民キャンプへ,彼と妻と子ども3人は知人の家へと身を寄せました。彼は両親を探すために,軍人である兄と手分けして,1つひとつの難民キャンプに出向き,名簿を見せてもらい,途方もない数の中からていねいに両親を捜していきました。真夏の太陽が照りつける中,何日間も根気強く探し続け,とうとう両親を見つけ出したのです。またしても,父親はやせ細っていましたが,家族はちゃんと出会えたのでした。

 もう一度会いたいと願うことと,決してあきらめず粘り強く待つこと,探し続けることで,家族は再会できるのかもしれません。
 彼の父親にお会いした時に,どうしてその山に向かったのかと聞いてみました。
 「絶対にみんながそこにいるような気がして,ふらふらと歩いていった。それだけだ」

 私は,理由なんか説明できなくても,いいじゃない!と思ったのでした。そして,「難民」となった人々の話を聞けば聞くほど,日常では起こり得ないような体験や不思議な絆が,そこにはたくさんあったに違いないと思うようになったのです。