〔カラーグラフ〕国際的な人道援助活動 海外で活躍する看護職(2)
●AMDAの活動-ミャンマー,ネパールプロジェクトから
■ミャンマープロジェクト
1995年に「AMDAミャンマープロジェクト」としての活動を開始。その後,1996年12月に外国のNGOとしては異例の早さでMOU(覚え書き)をミャンマーの保健省と交わし,活動開始から現在までに約16件のプロジェクトを展開。(1)現地の文化の尊重,(2)現地の自立の支援,(3)相互の信頼関係の醸成を基本方針に,地域住民の参加を促しながら,医療活動を中心に教育・社会開発の分野にまで活動領域を広げている。ミャンマーにおける乳児死亡率は,出生1000に対し112と,東アジア・太平洋地域の45,開発途上国の90と比較しても,きわめて高く,母子保健の改善は,保健行政にとって非常に重要な課題となっている。
そのため1997年より2年間,医療中心の包括的地域開発プロジェクトを実施。その結果,約9万人の住民が基礎的な疾病予防,保健衛生,栄養改善などの知識を身につけ,このプロジェクトは健康促進に大きく貢献した。そして1999年11月には「ミャンマー子ども病院」が完成,地域の母子保健医療活動の中核としての役割を果たしている。
●ミャンマー子ども病院で働いて
橋本直子
私は2001年3月5日-5月31日の間,ミャンマー子ども病院(メッティーラ市民病院子ども病棟の通称)に勤務した。
私が海外で働いてみたいと思ったのは,マザーテレサの活動に感銘を受けたからだ。看護婦として働き始めてから,インドをはじめ,アジア諸国にボランティアや観光で訪れた。その都度,アジアの人々の一生懸命生きているさまを目にして,たくさんの勇気と元気をもらって帰国した。私は,アジアの人々がなぜあんなに輝いていられるのか知りたかった。アジアには日本が忘れてしまった何かがあると思っていた。
実際に子ども病院で働いてみると,医師1人,アシスタント医師1人,各勤務帯の看護婦1人という苛酷な労働条件のため,スタッフのできることは限られていた。そこでは,日本にいたら助かったであろう子どもの死をたくさんみた。また,治療が難しい子どもに,都会の大きな病院に行くよう勧めても,お金がないため行くことができないというケースが何例もあった。死にゆく子どもに対しても限られた医療器具を使い,その中で助かるように最善の努力をしていた。
私はさまざまなケースを見て,何度「日本だったら助かったのに」と思ったかわからない。しかし,ここはミャンマーであり,この国のやり方で助ける方法を考えるべきだと理解した。この国の状況を把握し,その中でできる援助をするべきだと学んだ。
(橋本氏の写真は,1面)
●ミャンマー子ども病院での3か月
野村由香
![]() 2001年 右より2人目が野村由香氏 |
心のどこかに援助する側の高慢な思いがあったのかもしれない。私をわかってもらえるよう動かなければ。次第に病棟の状況もつかめるようになると,自分にできること,やるべきことがみえてきた。片言ながらミャンマー語での会話にも挑戦し,同僚からも,患者家族からも声がかかるようになってきた。気がつけば医療スタッフや子ども,家族と笑いながら楽しく仕事をしていた。そして元気に退院して行く児を笑顔で見送り,看護婦の醍醐味と喜びをスタッフとともに分かち合っている自分がいた。
国際協力における難しさは,命を預かる医療についてはなおさらのことである。信頼関係もより深いものでなければならない。その根本となるものはお互いを理解することであり,自分を理解してもらうことに努める姿勢である。そして,お互いに人の命を救うという,共通のビジョンを持って,信頼できるパートナーとなることが大切であるということを身をもって感じることができ,大きな学びとなった。
■ネパールプロジェクト
![]() 2001年 ネパールにて平野容子氏 |
1996年,東部地区に総合病院「AMDA病院」(50床)が政府公認病院として認定され,ネパール内のブータン難民10万人に対する医療サービスを提供。1999年の1年間に計4万6248名が受診した。また,AMDA病院のもとで運営されている「保健人材養成センター」では,准看護助産婦などを養成中。
一方中西部地区に,首都以外では初の小児科病院である「シッダルタ母子保健病院」を1998年に開院。その他に,メンタルヘルスプログラムや,老人病センターでの診療,ストリートチルドレンへの教育,娯楽,保健サービスの提供などを行なっている。
![]() 2000年 ネパール「シッダルタ母子保健病院」にて早瀬麻子氏 |
![]() 1994年 ルワンダにて緊急救援活動中の山田緑氏 撮影:山本將文氏(報道写真家) |
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![]() 1994年 ソマリア緊急救援活動。難民キャンプにて予防接種を行なう永野章子氏 | |
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