医学界新聞

 新連載

「WHOがん疼痛救済プログラム」とともに歩み続けて

 武田文和
 (埼玉県県民健康センター常務理事・埼玉医科大学客員教授・前埼玉県立がんセンター総長)


〔第1回〕がん・痛み・モルヒネ(1)
がん疼痛との出会い

 昨年春,武田文和氏は20有余年にわたり務められた埼玉県立がんセンター(総長)を退官された。
 武田氏は,『がんの痛みからの解放(WHO編)』(金原出版),『緩和ケア実践マニュアル』(医学書院)など多数の著書で知られるが,モルヒネの使用を含めたWHO方式によるがん疼痛治療法をいち早く紹介し,推進するなどの功績は大きい。
 本紙では今号より連載(隔週)で,これまでのがん疼痛との歩みやWHOへの想いなどを,武田氏に語っていただく。

がん疼痛との最初の出会い

 WHOがん疼痛救済プログラム(WHO Cancer Pain Relief Programme)に協力を求められたのは1982年のことであったが,それまでのがん疼痛との私のかかわりを振り返るところからこの連載を始めたい。
 がん患者の痛みに最初に出会ったのは私が5歳の時,実家に病床の祖父を見舞う母について行ってのことであった。祖父は病床のそばのタライで腰湯につかり,下半身の激痛に耐えていた。タライの湯には血の色があった。その光景は,子ども心に恐ろしい印象として強く残り,今でも記憶している。祖父は直腸がんだったと聞く。次にがん疼痛に出会ったのは32歳の時で,私は外科医として3年目を迎えていた。

がん疼痛にまったく無力の外科医

 群馬大学医学部卒業後のインターン時代に,手術中に病変の性状を判断しながら手際よく対応する外科医の姿に接し,私は外科医を志望。病変判断能力を身に付けたいと,母校の病理学教室の大学院生となった。それを修了した1962年から,教育に厳しいが手術の名手である石原恵三教授(群馬大1943-70年)の指導を求めて第1外科に入局した。
 外科医となって3年目の1965年,先輩が院長をしている小さな地方の病院に派遣された。そこに進行性胃がんの38歳の男性が,私の故郷の町から来院した。幽門閉塞と腹膜播種を伴っており,「手の施しようがない」と診断されての来院であった。幽門狭窄には吻合術で対処できたが,患者の強い腰背部痛の訴えには戸惑うばかりであった。
 その頃はがん患者が今ほど多くなく,高度医療に取り組む大学病院外科では,強度のがん疼痛に出会うことはほとんどなかった。先輩である院長からペチジン注射に同意してもらったが,「なるべく使うな」との条件付きであった。その効果は2時間ともたず,患者は注射を求めるという悲惨な状況であった。その頃は患者の求めに応じて麻薬を使うと先輩から強く注意され,麻薬を使うから痛みにかかわらず麻薬をほしがるようになる,つまり「麻薬中毒者を作る」と教え込まれたのであった。
 「がんだから仕方ない。よい対応法はない」というのが,その頃のがん疼痛についての考え方であり,当時の最新医療はがん疼痛に無力だった。
 結局,痛みに呻吟したまま,患者は臨終を迎えた。私は患者の痛みを取り除けなかった無力感とともに,こんな医療でよいのかとの疑問を感じたのであった。

痛みは研究課題から除外

 1年後に大学に戻って間もなく,新設脳神経外科教室の医局長を務めるようにと石原教授から伝えられた。そのまま脳神経外科を専攻するか,再び消化器外科に戻るか,自分で決めてよいが,「大学が君を必要としているのだから,1-2年は医局長を務めよ」との指示であった。新任の婦長とともに病棟や外来診察室などの機材すべてを整備し,1967年に群馬大学脳神経外科の診療が始まった。
 新教室の研究テーマ作りでは,客観的評価ができないから痛みは取り上げたくないとの助教授の意見が通り,痛みには不勉強なままの脳神経外科医生活が7年ほど過ぎていった。そして私が40歳を越えた1974年,私の故郷である埼玉県にがんセンター設立計画があるのを聞き,初代病院長に予定されていた吉田清一先生(当時埼玉県衛生部がんセンター設立準備室参事,現:埼玉県立がんセンター名誉総長)に希望を伝え,開設少し前の1975年9月に赴任した。

「痛み」が押し寄せてきた

 同年11月に開設した埼玉県立がんセンターは,病院,研究所,医学図書館,事務局の4部門からなる立派な施設であった。医師と研究者が全国各地から集められており,学閥色のない陣容だった。基本構想には最高のがん医療の提供とがん研究の推進が掲げられ,「末期患者への対応に特に配慮するように」との先進的な考え方も盛り込まれていた。しかし,末期がん患者への対応は当時の医師と看護婦にとり,新たな課題であった。
 医療陣の予想以上に末期がん患者がセンターに来院したため,多くの診療科が痛みへの対応に困惑し,「鎮痛薬などの治療はよく効かない」「脳神経外科で何とかしてほしい」と私に相談が寄せられるようになった。他の科でできることはすでに行なわれており,脳神経外科はこうした相談の終着駅であり,私にはとりわけ大きな挑戦課題となった。
 まず最初に,麻酔科にも協力を求めて薬以外の治療法で解決しようと考えた。これが少々思い違いとわかるまでに数年がかかった。その間,試行錯誤の中で多くの患者の痛みに真っ正面から取り組んだ。このことが,WHOプログラムの策定や実践への参加につながるようになるとはその頃まったく予想すらできなかった。ただ,10年前の痛みから救い出せなかった胃がん患者の経験を2度と繰り返すまいと思っていただけだった。

この項つづく