医学界新聞

 連載

「WHOがん疼痛救済プログラム」とともに歩み続けて

 武田文和
 (埼玉県県民健康センター常務理事・埼玉医科大学客員教授・前埼玉県立がんセンター総長)


〔第2回〕がん・痛み・モルヒネ(2)
がん疼痛治療に向けて

脳下垂体とがん疼痛

 薬以外の方法によるがん疼痛治療は試行錯誤の繰り返しに等しかった。群馬大学脳神経外科の医局長を務めた私は,そのまま脳神経外科医として歩むことを選び,視床下部下垂体部腫瘍の外科を研究テーマにしていた。乳がんに対する脳下垂体摘出術の腫瘍退縮率25%,除痛率ほぼ100%との1952年の論文にも関心を持っていた。世界の脳神経外科をリードしたスウェーデンのOlivecrona教授の論文である。
 がんセンターに移って1年経った頃,乳がんの骨盤転移による53歳の患者の激痛について相談された。同僚の清水庸夫医師(現:関東脳神経外科病院長)とも脳下垂体摘出術の適応について検討し,患者本人と主治医に提案した。手術直後から見事に痛みが消え,腫瘍効果も得られ,患者は2年ほど元気に家庭生活を送った。これに続く3名にも同じ臨床効果が得られていた。術直後の尿崩症対策や術後慢性期のホルモン補償療法も,同僚であった藤井卓医師(現:藤井脳神経外科病院長)の多尿における日内リズムの発見を契機に順調に対応できていた。その頃,群馬大学麻酔科の藤田達士教授が相談したいことがあると私を訪ねてきた。

脳下垂体アルコール注入法

 藤田教授の相談とは,「ローマ大学のMoricca教授が,『経鼻的穿刺によって脳下垂体にアルコールを注入すると各種のがん疼痛が消失する』と講演していたが,論文として発表されたので一緒に追試してみないか」というものであった。簡潔なよい方法に思った私は,「実施に向けて検討しましょう」と応えた。
 1977年9月,左乳房切断術5年後で,卵巣と副腎の摘出も受けている61歳の乳がん再発患者の骨転移痛に脳下垂体摘出術を施行してほしいとの依頼があった。この患者は肝機能障害のため脳下垂体摘出術は無理だが,侵襲の小さい脳下垂体アルコール注入法なら耐えられると判断し,主治医と患者に提案した。
 Moricca教授は2ml以上のアルコールを注入していたが,初体験の私は2mlの注入にとどめた。直後から痛みはすっかり消えたが,3週後には再発した。その時患者は,「よく効いたのだから脳下垂体アルコール注入法をもう1度受けたい」と言い張った。結果として,再施行も効果抜群であった。
 このことは,院内の多くの人々から注目され,各診療科からの依頼が増えることにつながった。また,翌1978年にはモントリオールでの第2回世界疼痛学会に治療成績を発表,除痛機序にも考察を加えるまでになった。このモントリオールの学会には,Moricca教授,英国のLipton博士など世界に数人しかいない脳下垂体アルコール注入法の研究者が出席しており,「日本にも同志ができた」と私の発表について議論してくれ,長い交流の端緒となった。

前治療への批判の必要性

 ホルモン依存性がんで95%,非ホルモン依存性がんで69%の除痛率であったが,経験例が100例ほどになった頃,脳下垂体アルコール注入法で除痛がまったく得られず鎮痛薬に頼らざるをえなくなったケースを契機に,恩師石原教授の「手術をしない決断が的確にできて1人前の外科医」との教えが思い出されるようになった。脳下垂体アルコール注入法を行なう前の除痛治療を批判する力がないと,脳下垂体アルコール注入法の適応が甘くなってしまうのではないかとの自問であった。

鎮痛薬治療は大きく変わっている

 そう思って世界の文献を幅広く検討してみると,欧米でのがん疼痛への鎮痛薬治療法がかなり進歩しており,それに敏感でない雰囲気が日本にあることが感じられた。にもかかわらず,私自身は1981年には2回も渡欧するなど,脳下垂体とがん疼痛治療についての研究発表を続けていた。Moricca教授による脳下垂体アルコール注入法の国際シンポジウム(伊・ヴェローナ),第3回世界疼痛学会(英・エジンバラ),第8回世界脳神経外科学会(米・シアトル),第13回世界がん学会(同シアトル)などであった。ローマでMoricca教授の実技(写真)も見学したし,Lipton博士の招きで英国のリバプールも訪れた。リバプールでは藤田教授(当時日本麻酔学会会長)と一緒であった。
 Lipton博士による経皮的コルドトミーを見学した藤田教授は,翌年の第28回日本麻酔学会総会(1982年6月,前橋)にLipton博士を招きたいと言い出した。突然の申し出に奥様が健康上の懸念を示したが,結局は「Fumi(私のこと)が夫の面倒をみるのなら……」よかろうということになった。日本麻酔学会総会には,英国のMark Swerdlow教授も招かれており,英国人ゲスト2人の日本でのお世話を私が引き受けることになった。実はこの2人が義兄弟であると知らされ,私たちはびっくりしたものだったが,Swerdlow博士はもっとびっくりするようなもう1つの任務をWHOから託されての来日であった。

この項つづく