医学界新聞

連載 市場原理に揺れるアメリカ医療 番外編

奇跡の歴史
小児白血病治療の50年(1)

李 啓充 Kaechoong Lee
マサチューセッツ総合病院内分泌部門,ハーバード大学医学部講師


(1)ベーブルースの呪い

 ハーバード大学医学部のメインビルディングを出ると,広大な中庭に一面に敷き詰められた芝生の鮮やかな緑がまず目を打つが,視線を上げると正面にボストン・レッドソックスの本拠地,フェンウェイ球場の照明灯が見えてくる。
 ボストン・レッドソックスは1901年に創設され,1918年までの間にワールド・シリーズを5回制覇する強豪チームであったが,その後は80年近く1度もワールド・シリーズに勝てずにいる。この間,1946,1967,1975,1986年と4回ワールド・シリーズに駒を進めたが,4回とも第7戦まで健闘しながら破れている。特にニューヨーク・メッツを相手とした1986年のワールド・シリーズでは3勝2敗で迎えた第6戦,2点をリードし,10回裏二死無走者ツーストライクと,優勝まであと1球と迫りながら,悪夢の敗戦を喫したのである。

悲劇の歴史

 いつもいいところまで迫りながら,目前で勝利を逃すレッドソックスの悲劇の歴史は,「ベーブルースの呪い」に原因があるとレッドソックスファンの間では信じられている。金に目がくらんだレッドソックスのオーナーがニューヨーク・ヤンキースに球聖ベーブルースを売り飛ばすという罪(レッドソックスの「原罪」といわれている)を犯したのは1919年のシーズンが終わった後のことであるが,それまではリーグ優勝さえしたことがなかったヤンキースがベーブルースを獲得後23回もワールド・シリーズを制覇しているのに対し,レッドソックスは1度もワールド・シリーズに勝てないでいる。
 レッドソックス時代は夫人と2人,平和にボストン郊外の農場で暮らしていたベーブルースであったが,トレードの後,ニューヨークで放蕩に明け暮れ,ニューヨークになじめない妻と別れ,やがては癌で死亡した。ヤンキースでの華々しい成績とは裏腹に,ベーブルースはニューヨークにトレードされたことで個人的には数々の不幸を味わった。だから,ベーブルースの霊は,金で自分を売り飛ばしたレッドソックスを恨み,レッドソックスが未来永劫ワールド・シリーズに優勝できないように呪いをかけた,というのである。
 ボストン・グローブ紙のスポーツ・コラムニスト,ダン・ショーネッシーが1990年に著した「ベーブルースの呪い」は全米ベストセラーとなったが,ベーブルースの呪い以外にレッドソックスの悲劇の歴史の数々を説明する手だてはない,ということを見事に「証明」している。
 1986年のワールド・シリーズを失った後現在まで,レッドソックスは3回アメリカン・リーグのプレーオフに進出しているが,この間一試合として勝利をものにすることができず,あの1986年のワールド・シリーズ第6戦の敗戦以来,ポストシーズン・ゲームに13連敗というとてつもない記録を継続中で,ファンは「ベーブルースの呪い」がますます強まっているのではないかと心を痛めている。

伝説的オーナー

 本業の野球ではファンの心を悲しませ続けてきたレッドソックスであるが,医学の進歩に多大の貢献をしてきたことはあまり知られていない。ハーバード大学医学部の正門を出,ロングウッド・アベニューを北西へ進み,ハーバード大学医学部生協わきの信号を左に曲がると,右手にダナ・ファーバー癌研究所のモダンなビルディングがそびえ立つ。それに相対して煉瓦作りの古びた建物があるが,この小さな建物こそが1952年に建てられたジミー基金ビルディング,ダナ・ファーバー癌研究所の前身である。この建物の正面の壁にレッドソックスの名オーナー,故トーマス・ヨーキーのレリーフが飾られている(写真)。ヨーキー,およびレッドソックスの小児癌基金(ジミー基金)への貢献,そしてひいては小児白血病治療の進歩に対する貢献をたたえてのことである。

(2)ジミー

 1948年5月22日,人気ラジオ番組「Truth or Consequences」の司会者ラルフ・エドワーズは次のように聴取者に話しかけた。
 「……今晩は皆さんにジミー君を紹介します。残念ながら彼のラスト・ネームをお教えすることはできません。というのも,ジミーは全米に何千人もいる癌に苦しむ子どもの1人だからです。ジミーは自分の病気が癌だということを知りません(白血病の子どもに告知が行なわれるようになったのは1960年代に入ってからである)。ジミーは病気のせいで他の子どもと同じように野球をすることはできませんが,野球が大好きで,あのナショナル・リーグの好チーム,ボストン・ブレーブスの大ファンです。……これから皆さんをマサチューセッツ州はボストン,チルドレンズ・ホスピタルのジミーの病室にご案内します。この病院のスタッフは,ボストンの子どもたちだけではなく世界中の子どもたちのために,癌を治すための研究を続けています。ここまで,ジミーはこの放送を聞いていません。それではここで,ジミーの病室につなげます……」。
 エドワーズ「やあ,ジミー,君は野球が大好きなんだって」
 ジミー「ええ,大好きです」
 エドワーズ「そうか,じゃ,今年はどこのチームが優勝すると思う?」
 ジミー「ボストン・ブレーブスだったらいいなと思います」
 エドワーズ「ブレーブスの選手では誰が好き?」
 ジミー「ジョニー・セインです」
すると,誰かが病室に入ってくる足音がし,「やあ,ジミー,僕がジョニー・セインだ」とジミーに声をかけた。その後もエドワーズがジミーに好きな選手の名前を尋ねジミーが答える度に,プレゼントを手にした選手たちが次々と病室に入ってきた。ブレーブス監督のビリー・サウスワースはジミーを翌日のカブスとのダブルヘッダーに招待し,少なくとも1試合はジミーのために勝つと約束した(結果は2試合ともブレーブスの勝利となった)。ブレーブスのスター選手とともに,楽しく「テイク・ミー・アウト・トゥ・ザ・ボールゲーム(野球に連れていって)」を歌うジミーの歌声が全米に流れた。

命という大きな賞品

 ジミーの病室からの中継が終わるとエドワーズは次のように聴取者に呼びかけた。「皆さん,ジミーはもうこの放送を聞いていません。ジミーは自分が癌だということを知りません。ジミーだけでなく癌にかかっている他の子どもたちを喜ばすためにも,子どもの癌を治そうという研究に,援助の手を差し伸べようではありませんか。子どもの癌の研究は大人の癌を治すことにもつながるはずです。どんなに小さな額でも結構ですから,『小児癌研究基金』への寄付をお願いしたいのです。ジミーは病室でいつも野球のラジオ中継を聞いていますが,もし募金が2万ドルを超えたら,ジミーの病室にテレビを入れ,ジミーが毎日野球が見られるようにするとお約束します。……これは皆さんに何か賞品が当たるコンテストとかそういうものではありません。そうではなく,ジミーのような子どもたちが,命,という大きな賞品を手にできるよう助ける機会だと思って下さい。どうかできるだけ多くの寄付をお寄せ下さい。ジミーの部屋にテレビを入れてやろうじゃありませんか。どうか皆さん,ジミーをがっかりさせないでください」
 放送が終わるや否や,チルドレンズ・ホスピタルには募金を持った人々が殺到した。その夜直接持参されたキャッシュだけで,2万ドルの目標を超える2万6千ドルの募金が集まった。最終的に寄せられた手紙・電報が4万通,募金額は23万ドルを超えた。そして,その夜から「ニューイングランド・バラエティ・クラブ・小児癌研究基金」は「ジミー基金」と名前を変えた。そして,ブレーブスはジミーの期待に応え,この年ナショナル・リーグ優勝を遂げた。

小児白血病患者の象徴

 1948年はダナ・ファーバー癌研究所の創始者シドニー・ファーバーが,世界で最初の小児白血病寛解例をニュー・イングランド・ジャーナル・オブ・メディスン誌に報告した年でもあり,小児白血病に対する闘いが始まった記念すべき年となった。その後現在に至るまでの50年間,ジミー基金は,小児癌研究のメッカともいえるダナ・ファーバー癌研究所を支え続け,不治の病であった小児白血病を,治るのが当たり前の病気(治癒率80%)に変える過程に大きく貢献してきたのである。
 1971年,ボストン・サンデー・アドバタイザー誌のインタビューに,シドニー・ファーバーは次のように答えている。「昔もそうでしたが,今でも患者さんのプライバシーを尊重することがもっとも大切ですから,ジミーが誰であったかをお教えすることはできません。でも,ジミーは今では30代半ばになってお子さんもいる,とだけいっておきましょう。もう何年も,彼は何の治療も受けていません」。
 1948年に初回治療を受けた白血病患者が治癒したとすればきわめて幸運な症例であったといわざるを得ないが,ファーバー発言の真偽を問うても意味はない。ジミーを小児白血病患者の象徴と考えるならば,彼は立派に治癒したのだから。この発言から2年後の1973年,生涯を小児癌の治療に捧げたシドニー・ファーバーは癌で亡くなった。享年70才であった。

 1953年,ボストン・ブレーブスはミルウォーキーに本拠地を移すこととなった(その後ブレーブスはアトランタに移る)。ブレーブスのオーナーは,レッドソックスのオーナー,トーマス・ヨーキーに,ジミー基金への援助を引き継いでくれないかと頼み込んだ。ヨーキーは快く応じ,1976年に自身が白血病で亡くなるまで,献身的にジミー基金を支え続けた。

この項つづく