医学界新聞

連載 市場原理に揺れるアメリカ医療 番外編

奇跡の歴史
小児白血病治療の50年(2)

李 啓充 Kaechoong Lee
マサチューセッツ総合病院内分泌部門,ハーバード大学医学部講師


(3)レッドソックス

  テッド・ウィリアムズは1939年から1960年までレッドソックスの4番打者を務め,1941年には4割6厘を打ち,大リーグ史上最後の4割打者となった。「野球史上最高のバッターになりたい」と,打撃術を極めるために求道者的な選手生活を送り,「偏屈者」としてマスコミとのトラブルを繰り返した。そのあまりに頑なな姿勢から,しばしばファンさえも敵に回したウィリアムズであったが,ジミー基金に対してはレッドソックスの選手の中でも最大の支持者となった。

1通の手紙

 きっかけは1通の手紙だった。レッドソックス職員のトム・ダウドは白血病で余命幾ばくもない子どもからテッド・ウィリアムズのサインボールが欲しいという手紙を受け取った。ダウドはウィリアムズにその手紙を読んで聞かせた。ウィリアムズはボールにサインしダウドに渡した。「もう1回その手紙を読ませてくれ」。黙って手紙を読んだ後,彼は「この子に会いに行く」と宣言した。彼はチームメイトのジョニー・ペスキーとジョー・ドブソンにも声をかけ,チルドレンズ・ホスピタルに入院中の少年を訪問し,直接サインボールを手渡した。「病気で弱々しかったその子が,そのときだけは元気を取り戻しました。ヒーローたちに囲まれて本当に嬉しそうでした」とダウドは回想する。その後もウィリアムズはチルドレンズ・ホスピタルへの訪問を続けた。病院から帰ってきたときのウィリアムズはいつもとりわけ寡黙であったという。
 1953年8月17日,朝鮮戦争の応召から戻ったテッド・ウィリアムズのために,1人100ドルという会費で有料晩餐会が開催された。収益金はすべてジミー基金に寄付された。ケネディ家からの寄付5万ドルを含め,この夜一晩だけで12万5千ドルが集められた。ウィリアムズは次のように参会者に挨拶した。「戦争のさなかでさえも,ジミー基金のために尊いお金が投じられ続けてきたということが,アメリカ流のやり方なのです。ジミー基金の募金箱に暖かい心で差し伸べられる1ドル札がもたらすものに比べたら,世界中に落とされたすべての弾丸,すべての爆弾は,何の意味も持たないのです。あなた方の援助がいつか子どもたちによりよい人生を与えることになるのだということをどうぞ誇りに思ってください」
 ウィリアムズは自分のサインを売りに出した最初のスポーツ選手となった。ファンが彼宛に小切手を送ると,彼はその小切手に裏書きし,小切手はジミー基金の口座に振り込まれる。換金された小切手は支払い者に戻されるが,ファンはウィリアムズのサインと引き替えに,ジミー基金に寄付することとなるのである。1960年,ウィリアムズは,弟のダニーを「骨髄か何かの癌」(白血病)で亡くした。彼はこの年に引退したが,引退後もジミー基金への援助を続けた。1995年12月15日には「.406クラブ」の発足式が盛大に行なわれた。テッド・ウィリアムズが1941年に残した打率4割6厘を称える会であるが,この会への入会資格は,5年間にわたって毎年5千ドル以上をジミー基金に寄付する,というものである。

ヒーローになりそこねた男

 ボブ・スタンリーは13年(1977年-1989年)のキャリアをすべてレッドソックスで過ごし,637試合に登板している。1986年のワールドシリーズ第6戦では,リリーフ投手として10回裏5対4と1点リード,二死1,3塁の場面で登板した。5対3と2点をリードしてこの回を迎えたレッドソックスは,二死走者なしツーストライクと,70年振りのワールドシリーズ優勝まであと1球とせまったが,そこからメッツに3連打を浴び,スタンリーの登板となったのである。スタンリーはこの場面で打者をツーストライクまで追い込み,レッドソックスを優勝まであと1球というところまで再度導いた。しかし,運命の第4球はワイルドピッチとなり,3塁走者が生還,同点に追いつかれた。次のバッターの平凡な内野ゴロが一塁手ビル・バックナーの股間を通り抜け,レッドソックスは悪夢の敗戦を喫することとなった。レッドソックスのロッカールームに祝勝会の準備を調えて待ち受けていた球場職員たちは,大慌てでロッカールームを片づけなければならなかった。
 スタンリーは投手としてはヒーローになりそこなったが,ジミー基金のためには献身的に働いた。機会を見つけてはチルドレンズ・ホスピタルを訪問し癌の子どもたちを励ました。スランプで落ち込んでいる若い選手をジミー基金病棟に連れていき,病と闘う子どもたちに比べたら一時のスランプなど何ほどのものであるのかとさとしもした。彼は,自分の3人の子どもが健康であることはなんと幸運なことだろうと思っていた。1980年代の終わり,スタンリーはとりわけ落ち込んだ1人の少年を見舞った。少年は癌のために片眼を手術で失った後,両親はもとより誰とも話そうとしないのだった。スタンリーは少年にグローブ,バット,そして46番の背番号がついた彼自身のユニフォームを贈った。効果は劇的だった。少年は明るさを取り戻し,スタンリーのユニフォームは彼の宝物となった。少年は数か月後に亡くなったが,スタンリーのユニフォームをまとった姿で埋葬された。

神様がとっておいてくれたもの

 1990年1月,スタンリーの9歳になる一人息子カイルが癌と診断された。癌は右眼後方の副鼻腔に存在し,スタンリーが見舞った少年のそれとよく似た腫瘍だった。化学療法と放射線療法の後,1991年には8時間に及ぶ手術が行なわれた。カイルの腫瘍は完治し,彼はジミー基金のおかげで命が救われた何千人もの子どもたちの仲間入りをすることとなった。息子とともに癌と闘うことで,スタンリーはワールドシリーズの緊迫した場面でマウンドに上がることなど,何ほどのことでもなかったのだと思い知ることとなった。「ワールドシリーズには負けましたが,神様は私のために大きな幸福をとっておいてくれたのです。ヒーローにはなれませんでしたが,わが子の健康を勝ち取ることができました。息子の命と引き替えなら,1986年のワールドシリーズなんか負けてよかったのです」

「きっとこの子たちのために……」

 ケイト・ショーネッシーは1993年11月26日,8歳で急性リンパ性白血病と診断された。彼女の父は,ボストン・グローブ紙の人気スポーツ・コラムニストであり,ベストセラー『ベーブルースの呪い』の著者でもあるダン・ショーネッシーである。
 白血病と診断されて1週間後,テッド・ウィリアムズがチルドレンズ・ホスピタルに入院中のケイトに電話をかけてきた。ケイトはテッド・ウィリアムズが誰であるか知らなかった。「お父さん,なんだかとても声の大きい人が,きっとよくなるって言ってるよ」。電話を代わった父親にテッド・ウィリアムズが大声でいった。「ファーバー先生は『テッド,きっとこの子たちのために治療法を見つけてみせる』といつも言っていたが,先生は本当に治療法を見つけたんだ。お嬢さんにきっとよくなるからと言ってやってくれ。それと僕が見舞いに行くことも」。お子さんが入院して大変だろうからと,隣人たちが何週間にも渡ってショーネッシー家に食事の差し入れを続けた。レッドソックスの大エース,ロジャー・クレメンス(1試合20奪三振は彼だけが持つ大リーグ記録だが,彼はそれを2度達成している。97年,ブルージェイズに移籍)からも大きな包みが送られてきた。配達人は「有名人の名で送られてきているがこれはひょっとすると爆弾ではないか」とおっかなびっくりであったが,中身は巨大な熊のぬいぐるみだった。ケイトはその熊をクレメンタインと名づけた。
 寛解に入ったケイトは1994年のキッズ・オープニング・デイでは始球式のピッチャーとしてフェンウェイ球場のマウンドから元気のよい球を投じた。父親のダンは,レッドソックスの選手やコーチを紙面でユーモアたっぷりに揶揄することで人気のあるコラムニストであるが,ケイトはその父親の仕事を邪魔するようになった。ジミー基金のために手助けに来る選手と会うごとに,「お父さん,この人の悪口を書いてはダメよ。分かった?とにかく悪口を書かないようにがんばってみて」と牽制をかけるのである。テッド・ウィリアムズが誰であるか知らなかったケイトであるが,「.406クラブ」の発足式では最後のスピーカーとして,ジミー基金に対する彼の貢献を称え,感謝する自作の詩を読み上げた。

(4)コミュニティ

 最近行なわれた知名度調査の結果によると,ニューイングランドの住民の90%がジミー基金の名を知り,これはレッドソックスにわずかに劣るだけで,当地の知事や上院議員よりもはるかに知名度が高い。

「Give him the ball!」

 ジミー基金が主催する様々なイベントにも多くの市民が参加する。スクーパー・ボウル(アイスクリームのスクーパーをNFLのスーパーボウルにひっかけている)は,大人5ドル,小人1ドルでアイスクリーム食べ放題という催しであるが,アイスクリームはメーカーからの寄付,運営はバンク・ボストンがスポンサーになるといった具合で,売り上げがすべてジミー基金への寄付となる。1982年以来,38万人の市民が参加し,これまで83万ドルをジミー基金に寄付している。また,ファンタジー・フェンウェイという催しは,1250ドルの寄付で,あのベーブルースやテッド・ウィリアムズが立ったと同じフェンウェイ球場の打席に立ち,打撃練習(15スイング)ができるというものである。レッドソックスからはユニフォームが提供され,名前が場内アナウンスされるとともにセンターの電光掲示板に映し出されるとあって,高額の寄付金にもかかわらず人気が高い。
 以下は実際に筆者がフェンウェイ球場で目撃した光景である。イニングの合間に,守備位置に付いた外野手たちが肩慣らしのキャッチボールをしていたときに,右翼側のファウルライン直前の観客席から「Give him the ball!」という声が起こった。声が立ったのは筆者の席から10メートルほど離れた席であったが,周囲の観客が次々と「Give him the ball!」の唱和に加わった。やがて右翼手が,観客席を振り向いた。彼は観客席に走り寄ると,1人の少年に肩慣らしに使っていたボールを手渡した。少年は細い腕でボールを受け取るとにっこり微笑み,観客からは大きな拍手が起こった。少年はレッドソックスの帽子を被っていたが,髪の毛がないことは筆者の席からもわかった。

大きすぎる闘い

 夏の6週間,ボストン近郊の映画館に入ると予告編の前にジミー基金の宣伝映画が始まる。わずか2,3分の映画であるが,毎回感動的に作られている。例えば最新のものは動物のクローズアップで始まり,「(ペットの)◯◯君はご主人の××君が元気になって帰ってくるのを待っている」というナレーションが入り,ペットの横に立ててある写真立てを写す。写真立てにはあどけなく笑う子どもの写真が入っている。次々と動物を変えて同じ構成で続く。写真に現れる子どもたちが普通の子と違うのは,どの子も髪の毛がないことである。遠景ではダナ・ファーバーの臨床部長サラン医師が患者の家族と話し合っているシーンが見える。この宣伝映画は,毎回「Cancer, it 's too big a battle for a kid to fight alone(癌,子どもがたった1人で闘うには大きすぎる闘い)」というメッセージで終わる。場内が明るくなるとスクリーンの前に立ったボランティアがジミー基金への募金を呼びかけ,他の映画の予告編が続く間,募金箱が客席の間を回る。ボストン近郊の映画館では,夏の間これが本編が始まる前のルーティンとなっている。
 癌はたった1人で闘うには大人でさえも大きすぎる相手である。ダナ・ファーバー癌研究所では,「全人的患者ケア」をめざし,患者の医学的ニーズに応えるだけでなく,癌という重篤な疾患に罹病したが故に生ずる患者および家族の社会的・精神的ニーズに応えるべく,ソーシャルワーカーが患者のケアにとりわけ大きな役割を果たしている。こういったダナ・ファーバーの努力に加え,コミュニティー全体が,ジミー基金を核として小児癌患者をサポートしている。医療は医師や看護婦だけで成立するものではないのである。

この項つづく