医学界新聞

連載 市場原理に揺れるアメリカ医療 番外編

奇跡の歴史
小児白血病治療の50年(3)

李 啓充 Kaechoong Lee
マサチューセッツ総合病院内分泌部門,ハーバード大学医学部講師


(5)奇跡

 ベーブルースはバルチモアで生まれ育った。酒場を経営する父は子どもに構うには忙しすぎたし,母親は酒場の手伝いとベーブルースの病弱な兄弟姉妹の世話で手一杯だった。母親はベーブルースが17歳のときに亡くなったが,自らが亡くなるまでに,8人の子どものうち6人の死を看取らねばならなかった。
 当時の米国では学校にいけない子どもは珍しくなかった。ベーブルースや近所の子どもたちが,ストリート・キッズ(不良少年)となるのも当然の成りゆきだった。そんな彼の一生を変えたのがバルチモアのカソリック教会だった。

史上最大のヒーローを生んだ教会

 バルチモアのカソリック教会は歴史が古く,すでに1739年にはローマ教会から公式に教区として認められ,全米でも最初のカソリック教区となった。アメリカではカソリック信者は長い間差別されてきた歴史を持つが,教会は信者のために多くの学校や病院を設立した。教会が設立した慈善事業はカソリック信者以外にも門戸を開き,ベーブルースが更正の道を歩むことが可能となったのも,恵まれない子どもたちが手に職を持てるようにと教会が設立した聖メアリー職業校に入る機会が与えられたからである。彼は7歳のときから少年時代のほとんどをこの学校で生活することとなる。この学校で初めて教育らしい教育を受け,卒業後はシャツ縫製職人として働き始めた(大選手となった後も「1時間くれればシャツを4枚縫い上げてみせる」と自慢したという)。親の愛に恵まれなかった彼に,学校の教官である牧師たちが父親代わりとなった。この学校で出会った牧師たちとは終生の友情を築くことになる。
 バルチモア・オリオールズのスカウトにベーブルースを紹介し,彼が野球選手として成功する道を切り開いたのも牧師たちの1人であった。この学校で野球と出会わなければ,後に彼がアメリカ史上最大のヒーローとなることもなかったのだが,キリスト教との出会いも,彼の人生に大きな影響を与えた。この学校で,カソリック信者として洗礼を受けたベーブルース少年は,一時は聖職者になることを真剣に考えた。成人してからの彼の暮らしぶりには,不良少年としてのベーブルースと,聖職者にあこがれたベーブルースとの,2つの要素が色濃く反映されることとなる。

聖人マザー・セトン

 歴史の古いバルチモアのカソリック教会の中でも,もっとも名高い聖職者がエリザベス・アン・セトン(以下,マザー・セトン)である。1975年,ローマ法王は,マザー・セトンを公式に聖人の列に加え,彼女はローマ教会が公認する177人目の聖人となった。アメリカで生まれた人間が聖人と認定されるのは初めてのことであった(1975年という年は,「国際婦人年」であるとともに,アメリカ建国200周年の前年でもあった)。
 マザー・セトンは,アメリカ革命の2年前1774年に生まれた。裕福な家庭に育ち,やはり裕福な家庭の出であるウィリアム・セトンと1794年に結婚し,その後5人の子どもを授かった。彼女の幸福な結婚生活も長くは続かなかった。ウィリアムの事業が傾くのと同時に,彼が結核を発病したためであった。ウィリアムの会社は倒産し,彼の健康を回復させようという最後の試みとして,彼女は夫を気候のいいイタリアで療養させようとした。彼女の願いも虚しく,ウィリアムはイタリアの港で検疫を受ける間に亡くなった。
 イタリア滞在中の彼女の心を癒したのが「神の愛」であった。彼女はカソリック教会への帰依を強め,アメリカに帰った後,「なぜ不潔なカソリック信者の仲間になるのか」という家族の反対を押し切り,1805年,30歳でカソリックに改宗した。マザー・セトンはバルチモアに移り,アメリカで最初の無料カソリック学校を設立。やがて他のシスターたちを連れ,郊外のエミッツバーグに新たな学校を設立するが,これが,後のアメリカにおけるカソリック教会が運営する学校のモデルとなった。1812年に正式に修道女会宗規を制定し,1818年までに学校を2校,そして孤児院を新たに設立した。現在6つの修道女会がその源流をマザー・セトンに辿ることができる。

「奇跡」の認定

 1821年,マザー・セトンは46歳で亡くなった。カソリックに改宗してからわずか16年後のことであった。彼女の死後,マザー・セトンを聖人の列に加えようというバルチモアのカソリックの運動が始まるが,この運動が本格的になってきたのは今世紀に入ってからである。彼女の生涯について,ローマ教会は残された私信などをもとに30年近くに及ぶ厳格な調査を行なった後,1959年にマザー・セトンが「高徳(venerable)」であることを宣言した。
 聖人となるための次のステップは,彼女が奇跡を行なったということをローマ教会が認定することである。第1の奇跡は1935年,ニューオーリンズで起こった。ある修道女が腹部腫瘍の手術を受けたのだが,膵癌の周囲臓器への浸潤が進展し,切除不能として何もされずに閉腹された。病院に働く修道女たちは彼女の回復をマザー・セトンに祈った。手術を受けた修道女はその後7年間生き延び,死後の剖検では膵癌は跡形もなく消えていたという。
 ローマ教会から認定された第2の奇跡は1952年,バルチモアで起こった。4歳の少女,アン・テレサ・オニールが,急性リンパ性白血病と診断された後,これ以上なすすべがないという状態で聖アグネス病院に運ばれてきた。血小板が著しく減少し,皮下出血は全身に及んでいた。娘のからだを抱きしめる父親は「死んでしまうのか,死んでしまうのか」と泣き続け,娘は「死にたくないよう,死にたくないよう」と泣き続けたという。彼女の看護を受け持った修道女のメアリー・アリス・ファウラーは,彼女の治癒を願ってマザー・セトンに祈ることを提案した。アン・テレサ・オニールはマザー・セトンが暮らしていた家に運ばれ,彼女が亡くなったのと同じベッドに横たえられ,家族が,そして看護に当たる修道女たちが奇跡を願ってマザー・セトンに祈りを捧げた。不思議なことに,翌日からアンの病状は劇的に改善し,血液検査も正常化した。アンの白血病はその後2度と再発せず,何の治療も必要となることはなかった。
 奇跡的回復から8年後の1960年,ローマ教会は,正式にアン・テレサ・オニールの白血病が「治癒した」と認め,これをマザー・セトンによる奇跡とした。これで,マザー・セトンによる奇跡が2例公認され,彼女の地位は聖人となる一歩手前の「列福(beatified)」の状態となった。一方,アン・テレサ・オニールは成人後結婚し,3人の男の子と1人の女の子を授かり,娘には彼女を受け持ったシスターの名をもらいメアリー・アリスと名付けた。1963年にマザー・セトンによる第3の奇跡(脳髄膜炎患者の劇的回復)が起こった後,ローマ教会はこれ以上の奇跡の必要はないと宣言し,マザー・セトンの聖人化は大きく前進した。

「奇跡」の解釈

 アン・テレサ・オニールを聖アグネス病院に入院する直前まで受け持っていた主治医は,この症例についてローマ教会とは異なる見解を取っている。実は,アンは当時使われだしたばかりの葉酸代謝拮抗剤のアミノプテリンの投与を受けていた。使われたアミノプテリンの量が多すぎたために重篤な副作用が生じ,血小板減少など入院直前の状態は主にアミノプテリンの副作用によるものだったという。この医師は,アン・テレサ・オニールの治癒は化学療法が奏功したためと解釈している。これに対しアン・テレサ・オニールの受け持ちだったシスター・メアリー・アリス・ファウラーは悠然と次のように反論する。「患者が他の誰かのおかげで助かったと認めたがる医者はいないでしょう」
 アン・テレサ・オニールの治癒についていずれの解釈を取ろうとも,50年の間に白血病が治る病気に変わったことそのものが「奇跡」であることは間違いない。

この項つづく