コーダの世界
手話の文化と声の文化

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コーダとは、聞こえない親をもつ子どもたち。「ろう文化」と「聴文化」のハイブリッドである彼らの日常は、驚きに満ちている。親が振り向いてから泣く赤ちゃん? 目をじっと見すぎて誤解されてしまう若い女性?――コーダの日常を生き生きと描き“異文化交流”の核心に迫る、刮目のコミュニケーション論!

*「ケアをひらく」は株式会社医学書院の登録商標です。
シリーズ シリーズ ケアをひらく
澁谷 智子
発行 2009年10月判型:A5頁:248
ISBN 978-4-260-00953-9
定価 2,200円 (本体2,000円+税)

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●『シリーズ ケアをひらく』が第73回毎日出版文化賞(企画部門)受賞!
第73回毎日出版文化賞(主催:毎日新聞社)が2019年11月3日に発表となり、『シリーズ ケアをひらく』が「企画部門」に選出されました。同賞は1947年に創設され、毎年優れた著作物や出版活動を顕彰するもので、「文学・芸術部門」「人文・社会部門」「自然科学部門」「企画部門」の4部門ごとに選出されます。同賞の詳細情報はこちら(毎日新聞社ウェブサイトへ)

●動画配信中!
著者・澁谷智子氏からのメッセージです。

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はじめに

 コーダというのは、聞こえない親を持つ聞こえる子どもたちのことである。一九八〇年代のアメリカで、「Children Of Deaf Adults」の頭をとって「CODA」という造語がつくられたのが始まりだ。コーダは、聞こえない親に育てられることを通して、聞こえない人の文化である「ろう文化Deaf Culture」を受け継いでいる。
 私がそんなコーダの人に初めてインタビューしたのは、今から一〇年ほど前のことだ。知人の手話通訳者の紹介で、顔も知らない方と、関東郊外の駅の改札口で待ち合わせた。私を待っていてくれたのは、五十代ぐらいのおばさんコーダだった。まだ二十代前半だった私は緊張していた。
「初対面の方に、家族のことなんて、どこまで訊いていいんだろう? 他人の家庭に土足で入るような真似をしてしまうんじゃないだろうか」
 その方は、きっと私の戸惑いをすぐに見抜かれたのだと思う。娘のような年齢の私をかなり気遣って、私がおずおずと尋ねる質問に、いろいろなエピソードを話してくれた。
「主人がね、『おもしろいね』って言うのよ。『結婚して一五年ぐらいは、夜寝ているときも手が動いてたよ』って。自分では気づかないんだけどね、やっぱり寝言が手話になっているみたい」
 話を聞きながら、私は不思議な気分だった。手話を使うろう者やコーダについては、本やビデオでも事前にかなり調べていたから、聞こえない親を持つ聞こえるコーダのなかには、手話を第一言語とする人がいるのも知っていた。でも、まさか、目の前のこのおばさんがそうだとは。その流暢な日本語を聞いている限り、おばさんの頭の中の思考言語が手話だとは、ちょっと考えつかない。こちらの当惑を知ってか知らずか、おばさんは大きめの体をゆすって笑った。
 その後、さまざまなコーダに会った経験を交えて言えば、聞こえない親を持っているからといって、すべてのコーダが手話を第一言語としているわけではない。「自分は手話が苦手」というコーダも少なくない。しかし、それでもコーダの多くは、親との関わりのなかで、手話と日本語の両方を使っている。自分では「手話ができない」というコーダでも、親の手話をある程度読み取り、自分も、表情や口の形、うなずきなどを使って、視覚的にやりとりする方法を身につけている。
 そういう意味で、やはりコーダは、視覚言語と音声言語、そして視覚重視の「ろう文化」と音声にもとづいた「聴文化」のあいだを行き来する、バイカルチュラルな存在である。この本では、そんなコーダの語りから見えてくる、異文化間ギャップに焦点を当てたい。
 コーダの話から浮かび上がってくるのは、「ろう文化」を身につけた人の感覚、そして、聞こえる私たちがあまりにも自明視している「聴文化」の姿形である。
 多くの人は、音声言語を使うやりとりの方法をあたりまえに思っているが、それは決して自然なものでも普遍的なものでもない。それもまた、適切とされる目の使い方や声の使い方、言い回しなど、細かいルールが共有されることによって成り立っている、一つの文化のあり方である。そのことを意識しながら、この本の中では、音声言語を使う聞こえる人たちの文化を「聴文化」、その文化を身につけている聞こえる人を「聴者」と呼ぶことにする。
 そしてもう一つ、この本では、コーダと聞こえない親の親子関係を、コーダやその親の目線も入れて描くことをめざしたい。
 世間では特別視されることが多いが、コーダと親は、聞こえる/聞こえないの違いはあっても、ごく普通の親子である。たしかに、聞こえる/聞こえないの違いは、一つの現実的な条件として、その家族のあり方を形作っている。しかしそれは、親が聞こえないことを、すぐ「苦労」とか「大変」と結びつける世間の見方ともずれている。コーダや親が、親子の愛情や葛藤やさまざまな思いを込めて家族の話をするとき、そこに子どもが聞こえて親が聞こえないという背景がさまざまに織り込まれてくるといったほうが、しっくりくると思う。本の中では、そのあたりを丁寧に書くように心がけた。
 この本の内容の大部分は、私が今までにおこなったフィールドワークをもとに書かれている。私は、二〇〇〇年から二〇〇五年のあいだに、日本国内のいくつかの手話教室、手話サークル、手話通訳養成講座、手話関連の講演会に通い、ろう者や手話に関わる背景の把握に努めた。そして今までに、三八人のコーダ、一三人の聞こえないお母さんにコーダ調査として話を聴いている。
 二〇〇六年には四四の質問からなるアンケート調査をおこない、四〇人のコーダから回答を得た。コーダの集まりである「コーダの会」には二〇〇〇年から何度か参加させてもらっているが、二〇〇八年度からは二か月に一度ぐらいのペースで、この本の執筆のために一緒に案を出し合う集まりを開いてもらった。そのほか、コーダや子育て中のろう者のお宅に伺ったり、ろう者が子連れで集まる企画に参加させてもらったりといった調査もしている。
 さらに、もはや調査というよりは友人として、コーダと、そして、子育て中のろうのお父さんやお母さんといろいろな話をしてきたことはとても大きい。そうした個人的なつきあいから得た知見は、さまざまな形でこの本の中に生きている。
 もちろん、私の調査に協力してくれたコーダやろう者たちは、日本全体で見ればごく一部の人であり、その体験がすべてのコーダやろうの親に当てはまるとは限らない。この本の中でもふれているように、コーダやその親の体験や意識は、時代や地域、家族構成やコミュニケーション方法、個人の性格や時期によってもさまざまである。
 また、コーダの語りは、子どものころの体験を振り返ってどう解釈するかということと関わってくるため、同じ人が、いろいろな経験を積むなかで物の見方を変え、話の仕方が変わってくることもよく起きている。たとえば、私の友人のコーダは、初めて会ったときには大学一年生だったが、その後の九年間の月日のなかで、就職し、ろう者と結婚し、お母さんを亡くされた。私は、彼女の大学時代、バリバリ働いた時代、結婚式、結婚後仕事を変えてから……を知っているが、そのつど、彼女の語りは形を変えている。それはコーダの年齢によって変わっていく親の語りについても、当てはまることである。さらには、インタビューをする私との人間関係が濃くなるにつれても、相手の方の出す話や深さは変わる。
 そのような意味で、この本の記述は、実に多様で変化に富んだコーダとその親のある一面しか描けていないという限界がある。そのことについては、あらかじめおことわりしておきたいと思う。

 金融危機以降、日本社会においてもさまざまな厳しさが実感されるようになってきているが、今までも決して恵まれた状況にあったとはいえないろう者とコーダの家庭を見ていくことは、人と人との相互行為のなかにも困難を小さくするさまざまな機会があること、逆境にもめげないたくましさやユーモアが現に存在してきたことに気づかせてくれる。
 この本を通して、読者の皆さんが、手話の文化と音声の文化の違いを楽しみ、コーダや聞こえない親の気持ちに寄り添ってくださったら幸いである。

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はじめに

プロローグ
 「ろう文化」って何?
 ろう者の表現の魅力
 「コーダ」という言葉について

1 コーダが戸惑うカルチャーショック
 どこ行くの?
 「見る」と「見つめる」
 見えるもの、気になるもの
 動画の思考
 会話の方法

2 コーダがしていること
 小学生のコーダがいるお母さんの話
 コーダが通訳するということ
 電話通訳
 通訳ときょうだい関係
 まわりの人からのまなざし
 ろう者と貧困
 祖父母世代、親世代、コーダ世代、そして時代
 文章の説明
 ある帰国子女から見たコーダ

3 「ろうの声」とコーダ
 聴者にとっての「ろうの声」
 コーダにとっての「ろうの声」
 Kさんの場合

4 思春期のコーダはなぜイライラするのか
 聞こえない親の不安
 親をバカにされたくない
 外食が嫌い
 言ってもわからないだろう
 「物語」が変わるとき

5 コーダが語る親
 「CODAとしての私の生い立ち」北田美千代さん
 「親父が残してくれたもの」阿部卓也さん

6 コーダのつながり
 「コーダの会」
 親を通じたつきあいからの離脱
 アメリカのコーダの語りと日本のコーダの語り
 セルフヘルプ・グループとしての「コーダの会」
 コーダがコーダであることを意識する時期
 Thank You Deaf Day

おわりに/謝辞

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●新聞で紹介されました
《本書に登場するコーダはそれぞれ2つの文化を行き来する中で喜怒哀楽をありのまま語り、それが人間くさい。》
(産経新聞2010年1月31日 書評面「著者に聞きたい」より)

《まず印象的なのは、コーダたちの話がとても生き生きと魅力的なことだ。悲しみの中にも温かさがある。》
(日本経済新聞 2009年11月22日 書評面「あとがきのあと」より)

《著書にはせつない話が多いのに、暗い印象がない。人の弱さと強さをまるごととらえようとする視点の確かさと、生き生きした筆致ゆえだろう。》
(朝日新聞 2009年11月12日 夕刊 文化面「テークオフ」より)

《フィールドワークで明らかになる多様なコーダの姿》――亀井信孝(東京外国語大学・文化人類学)
(『図書新聞』2010年2月6日2952号より)


「手話の文化」と「音声の文化」の違いを楽しむ1冊 (雑誌『助産雑誌』より)
書評者:中根 直子(日本赤十字社医療センター)

 「コーダ」とは,聞こえない親を持つ聞こえる子どもたち(Children of Deaf Adults)のことである。この本は,聞こえない文化で育った子どもたちが,聞こえる社会とどのように向き合っているかを,社会学の研究者である著者が明らかにしようと試みた軌跡である。

 人の五感のうち,情報伝達にかかわるのは「視覚」が83%,「聴覚」が11%を占めるという。触覚・嗅覚・味覚は合わせて5%程度であり,言語的コミュニケーションに関して,それを左右するほどの影響力はないとも言われる。しかし,これは五感のすべてを持っているのが前提である。もともと「聴覚」を持たない人にとってみれば「視覚」がほぼすべてになるだろう。

 著者は「手話は異なる言語である」という認識を示している。手話のコミュニケーションでは,必要な情報を視覚的に伝達することが最優先されるというのだ。聴覚を持つ者の言語は,たとえ文書でも「声を聞く」という,音声を前提とした文脈を含んでいると看破する。なるほど……。私もろう者のグループと電車に乗り合わせたことを思い出す。騒々しい車内は全く彼らの障害にならず,一般乗客の肩越しに「賑やかな」コミュニケーションが成立していた。手話と豊かな表情がセットで,ドラマチック。著者の言う,情報の送り手の感情とは別の「文脈としての表情」である。そして,聞こえる日本人にとって,それは気恥ずかしさを伴う異文化だ。

 コーダたちは幼い頃から親とコミュニケーションを図るために,視覚を重視していくことを体験的に学ぶ。親と目が合ってから泣き出す,親と向き合ってから怒り出すなど,子どもながらに聞こえることを前提としない表現手段を身につけていく。一方で,聞こえる世界との距離の取り方は,決して親から学べない。そればかりか,親や周囲からは「通訳」として期待されがちだ。

 10年ほど前「コーダの会」ができ,同じ背景の仲間と出会ったコーダたちはあっという間に旧知のような関係となる。「目を合わせずに話すことに不安感」を持ち,ちょっとした不在時も「自分の居場所を具体的に伝える」ことが当たり前であるといった,聞こえる者には不自然な行動も,親と同じ関係性で育ったコーダには共通なのだ。彼らの経験と丹念に寄り添う著者の分析力は,聞こえる私たちにも,コーダたちのアイデンティティ再発見の過程をありありとガイドしてくれる。

 ある者にとっては十分な情報が,ある者にとっては歯がゆく不十分なものとなる。そもそも前提となる五感が共通でない場合,お互いの理解はどう進むのか。胎児や新生児にとって外界とはどんな世界なのか,そんなことをふと考えさせられた。

(『助産雑誌』2010年7月号掲載)


二つの文化を行き来する「境界人」の姿を活写
書評者:原 大介(愛知医科大教授・言語学/手話学)

 コーダとは,「聞こえない親を持つ聞こえる子どもたち」であり,英語の“Children of Deaf Adults”の頭文字をとった“CODA”からきている。本書は,ひと言で言うならば,耳の聞こえる人の文化,耳の聞こえない人の文化,そしていや応なく両方の文化の境界に位置せざるを得ないコーダたちが体験する異文化間ギャップに関する書であり,非常に読みやすい“コーダ学の入門書”になっている。

 著者の澁谷氏はコーダ研究の第一人者であり,私の知る限り,日本にはコーダ研究に関して彼女の右に出る者は一人もいない。澁谷氏は二児の母とは思えないほど精力的に研究を行っており,2008年度からは日本手話学会会長としても活躍している。

「ろう文化」と「聴文化」の狭間で
 本書には,「聴文化」「ろう文化」という用語が頻出する。「聴」とは「聴者」,すなわち耳の聞こえる人たちを指し,彼らの文化が「聴文化」である(「健聴者」という価値観――聞こえる者が“健康”であり“正常”である――を含んだ用語は使用しない)。「ろう」とは「ろう者」のことであり,ただ単に医学的に聴覚に障碍のある人という意味ではなく,日本手話という日本語とは発生や文法が異なる言語を日常的に使用し,「聴文化」とは異なる規範・価値観・行動様式を持つ人たちを指す言葉である。

 澁谷氏は,いみじくも,コーダを「ろう文化」と「聴文化」の間を行き来する「バイカルチュラルな存在」「多数派社会とマイノリティのあいだに位置している境界人」と喝破している。

 われわれは誰しも,自分たちの民族や文化がほかの民族や文化よりも優れているという考え方(自民族・自文化中心主義:ethnocentrism)に支配されており,他文化の中に自文化と異なる行動様式や考え方を見いだすと,それらを“劣っている”,“異常である”,“間違っている”と判断してしまう。著者は,コーダと自民族・自文化中心主義の関係をはっきりとは述べていないが,本書で描き出されているものは,コーダの中における,自文化の他文化への変貌,それに続くコーダ自身による(旧)自文化の否定,その過程に戸惑うコーダたちである。

親が“非常識”に見えるとき
 コーダは,聞こえない親やその友人のろう者に囲まれ,「ろう文化」の中で幼少期を過ごす。しかし,学校に通うようになると,そこは「聴文化」の世界であり,コーダも必然的に「聴文化」を身につけ,その中で生きていかざるを得なくなる。そして思春期に達したコーダたちは,言語・文化的マイノリティである親の文化から,マジョリティである日本語話者たちの文化へと軸足を移していくことになる。するとその瞬間,今まで心地よかった親たちの文化は,「常識が欠けて」いる「とんちんかん」なものへと変貌してしまう。

 その例として本書が挙げている,音に対する両文化のとらえ方の違いは興味深い。聴文化では,音を出して食べ物をかんだり食器で音を立てたりすることはマナーに反した非常識な行為となるが,ろう文化では特段問題にならない。外食の際,親が音を立てて食事をすることは,コーダにとって“常識”であったはずなのに,思春期のコーダは,親の(聴文化的には)“非常識”な行為を許容することができない。彼らは,親が身近な存在であればこそ,親に対して常識的な振る舞いを求め,非常識な振る舞いをする親を否定し,思い悩むのである。

 著者はコーダを「バイカルチュラルな存在」と述べているが,彼らは決して生来のバイカルチュラルではなく,さまざまな葛藤を経ていや応なくバイカルチュラルになっていくのではないだろうか。否,著者が述べるように,大人になったコーダが聴者とのコミュニケーションに今なお戸惑いを感じているのならば,彼らは依然として「ろう文化」側に立ち,一般のろう文化の住人よりもほんの少し多く「聴文化」側に身を乗り出しているだけなのかもしれない。澁谷氏にはぜひとも,コーダの文化的位置に関する続編を期待したい。

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