ドイツ精神医学の原典を読む

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精神医学の重要疾患の多くは、19世紀後半から20世紀半ばの間にドイツで同定され、深く研究されてきた。本書では、ピック病、アルツハイマー病、ヤーコプ‐クロイツフェルト病、パラノイアなどを中心に、発症やその病態をドイツの原典から直接翻訳したもの。ドイツ的緻密さで記述された症例報告は臨場感に満ち、読む者を圧倒する。
*「神経心理学コレクション」は株式会社医学書院の登録商標です。
シリーズ 神経心理学コレクション
池村 義明
シリーズ編集 山鳥 重 / 彦坂 興秀 / 河村 満 / 田邉 敬貴
発行 2008年02月判型:A5頁:352
ISBN 978-4-260-00335-3
定価 4,180円 (本体3,800円+税)

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まえがき
神戸学院大学教授 山鳥 重 

 本書は,これまでの「神経心理学コレクション」とやや趣が異なっている。あるテーマについての書き下ろしでも,対談でも,古典単著の翻訳でもない。少しページを繰っていただくとわかるが,豊かなドイツ神経学と精神医学の鉱脈の中から,著者 池村義明 先生が掘り出した重要文献の翻訳・抄訳・総説などを集めたものである。
 話は飛ぶが,1868年の明治維新後,国の近代化による欧米列強への仲間入りをめざした日本は,医学に限ると,その頃のプロシャ医学の卓越性を認め,早くも明治2年(1869年)には,ドイツ医学を取り入れることを国策とした。そのため指導者として多数のドイツ人医学者を招聘しはじめた。この結果,優秀な医学徒の多くはドイツ留学をめざし,国内の医師たちはドイツ語文献をむさぼり読むことになった。
 すでに若い人たちには歴史的事実にしか過ぎないことだが,わが国は1940年9月,ドイツ・イタリアといわゆる三国同盟を結び,翌1941年12月,アメリカ・イギリスに対して無謀な全面戦争に突入した(第2次世界大戦)。そして,完膚無きまで打ちのめされ,1945年8月には連合国に無条件全面降伏するに至った。9月にはアメリカ軍が全土を占領した。同盟国ドイツは同年5月にすでに完全に破滅していた。こちらはソ連・米・英・仏の4か国に国土を分割され,ソ連占領地に囲まれた首都ベルリンの西半分は,ここだけがまた西側3か国に占領されるという悲惨な結末であった。医学に限れば,敗戦後の日本には怒涛のように占領国アメリカの医学が流入した。明治以来,ドイツ医学を範としてきた歴史と伝統が1945年夏,不意に崩れ落ちたのである。
 ドイツの破滅とアメリカ・イギリスの勝利によって,ドイツ語は忘れられ,巷には英語があふれた。個人的経験でいうと,医学生時代(池村先生は神戸大学で筆者の1年先輩)に読ませられた教科書や文献は英語圏のものばかりであった。医英語という講座も置かれていた。ドイツ語の教科書を与えられたのは確か放射線診断学だけだったように記憶する。筆者も勉強に励んだのは中学以来ひたすら英語であり,大学教養時代にドイツ語の授業はあったものの,さほど熱を入れることもなかった。この傾向は何も敗戦国日本に限ったものではなく,世界的な潮流であった。今や,英語は世界語としての地位を不動のものにしている。
 英語化した医学環境の下では,ドイツ語文献はどちらかと言えば厄介ものである。筆者など,精神科入局当時与えられたGerhard KloosのGrundriss der Psychiatrie und Neurologie(Verlag von Rudolph Muller & Steinicke, Munchen,1962)を座右に置いてはいたが,読まなければならない英語文献で手いっぱいで,しかもそちらの方が楽なので,読もう読もうと思いつつも,面倒くさくて,結局読破できなかった。いまだにドイツ語文献に目を通す必要がある時は,意を決して机に向かい,辞書を片手に長時間を費やさなければ,なかなか読むことができない。もっと若い世代になると,ドイツ語文献に挑戦するものすら見かけなくなった。だからといって,ドイツ語圏神経学・精神医学の偉大な業績が消えるものではない。読まなければいけないものは読まなければいけない。
 池村先生はこの戦後の圧倒的な英語世界語化時代に,ドイツ精神医学に魅せられ,ドイツに留学し,ドイツで精神神経科専門医の資格を獲得し,現地の精神病院で長年実地診療にもたずさわった経験を持つ,時勢に迎合しない気骨ある精神科医である。そこで,ドイツ語圏の神経医学・精神医学の文献に精通している池村先生に一肌脱いでいただいた。彼のこれまでの幾多の翻訳の仕事の中から,われわれ神経心理学の徒が知っておくべき文献を選んでいただき,それぞれに彼の解説を加えて,「神経心理学コレクション」の一冊とすることにした。
 
 本書は9章で構成されている。
 序章では,ドイツにおける神経学と精神医学の誕生,その融合による神経精神医学誕生のいきさつが解説されている。
 第1章はピック病である。1892年のアーノルト・ピックの最初の報告例1例と,1898年の報告例2例が収録されている。最近ピック病の再評価が進み,前頭側頭型痴呆(認知症)などと新しい病名が提案されたりしているが,実際に原著に目を通した人はあまりいないのではなかろうか。
 第2章はアルツハイマー病である。アロイス・アルツハイマーによる1907年報告の症例と,死後,発見されたもう1例の症例記録が収録されている。後者については1992年になって,なんと150枚ものプレパラートが発見されたという出来事も紹介されている。
 第3章はヤーコプ‐クロイツフェルト病である。この病気はアルフォンス・ヤーコプとハンス・クロイツフェルトによって独立に報告されたことで有名だが,1921年のヤーコプの3症例と1920年のクロイツフェルトの1症例が紹介されている。
 第4章は神経病ではなく,精神疾患の1つパラノイアである。パラノイアは,数ある精神疾患の中でもきわめてユニークな症候群である。その特徴を1症例の徹底的な観察から描き出したローベルト・ガウプの238ページにおよぶ大著(1914年)の要点が紹介されている。
 第5章は同じく精神疾患で,モノマニーである。モノマニーは最近では死語になっているが,狂気を通常の病気の1つと捉えようとした近代精神医学の歴史の中で,現在の統合失調症(精神分裂症)の先駆けとなった病態概念である。1865年に発表されたルートヴィッヒ・スネルの10症例が翻訳されている。
 第6章は感染症による発熱や代謝疾患などで引き起こされる,いわゆる外因性精神病である。この概念を提唱したカール・ボンヘッファーの膨大な業績が,講演記録,単行本,さらに総説論文などを基に要領よくまとめられている。多彩な症状の中には,今だと非失語性命名障害と呼ばれるような症状が見つかったりして,読んでいて楽しい。
 第7章は少し気分を変え,フランツ・メスメルの動物磁気治療と,メスメル以後の催眠療法の展開が取り上げられている。巨大な桶から金属棒が突き出ている。この金属棒を握りしめながら,多数の患者がこの桶をめぐるという不思議な治療術が,後の神経症に対する精神療法へとつながってゆく。
 第8章はアスペルガー症候群である。ハンス・アスペルガーが1944年に発表した長編論文が抄訳で紹介されている。この特異な小児性認知障害は,その2年前に発表されたレオ・カナーの早期幼児自閉症とともに,小児では重要な症候群である。原著がドイツ語で書かれ,しかも第2次世界大戦末期に発表されたという事情もあって,社会的にその存在が広く認知されるようになったのは最近のことである。1981年イギリス人ウイングによって英語圏に紹介され,それがきっかけで世界的に認知されるようになったという。しかし蛇足ながら,わが国に限れば,すでに1967年に筆者の恩師 黒丸正四郎先生(当時 神戸大学精神神経科教授)が非定型自閉症の1つとして本症候群を取り上げている1)
 引用論文の発表年は1865年(スネル)に始まり,1892年(ピック),1907年(アルツハイマー),1914年(ガウプ),1920年(クロイツフェルト),1921年(ヤーコプ),それに1944年(アスペルガー)と80年の長きにわたっている。メスメルはもっとずっと古く18世紀後半から19世紀初頭にかけて活躍した。
 論文執筆当時,彼らが在住していた都市もプラハ(現チェコ。ピック),ミュンヒエン(アルツハイマー),ハンプルグ(ヤーコプ),ブレスラウ(現ポーランド。クロイツフェルト),テュービンゲン(ガウプ),ベルリン(ボンヘッファー),ヒルデスハイム(スネル),ヴィーン(オーストリア。アスペルガー)と広範囲である。1945年以前のドイツ語医学圏の広さがわかり,興味をそそる。
 本書を読んで思うのは,症例報告の重要性である。とくに認知障害のような複雑な分野では,行動や心理能力についての具体的な記述がないと,症例がリアリティを持たない。呼称という単純な能力であっても,呼称障害あり(10個の呼称で3個正解)などと書かれていては,何が問題なのかは決してわからない。しかし,腕時計→温度計,燭台→シャンデリア,薬ビン→溲瓶(シビン),懐中時計→タバコケース,などと具体的な反応が記録されていると(本書 第6章209頁),その具体像が目の前に立ち現れる。エラーメカニズムについても,さまざまに考えをめぐらすことができる。同じように,たとえば,もし症例ハロ(本書 第8章279頁)について,自閉性あり,常同行動あり,社会性に問題あり,などという一般的記述が残されていただけならば,実際にどのような異常が問題になっていたのか,決して理解できない。アスペルガーの長期にわたる具体的で優れた観察記録を読むことができるお蔭で,われわれはハロの病態の特異性を理解することができる(本書 第8章)。
 池村先生は序章でドイツ神経学と精神医学の発展の流れをまとめているが,その中に,ボンヘッファー時代のベルリン大学精神神経科によって,精神科と神経科の統合が完全なものになったという記述がある(序章 21頁)。大脳を頂点とする高次機能障害を理解しようとする分野に限っては,精神医学と神経医学という分け方はほとんど意味をなさないのは自明であろう。「神経心理学コレクション」は,まさにこの立場から諸学問の成果の統合をめざしている。
 私事で恐縮だが,遠い昔(1969年),筆者をボストン・ベテランズ・アドミニストレーション病院神経内科のレジデントに採用してくださった当時の同病院神経内科部長(兼ボストン大学神経内科教授)だったノーマン・ゲシュヴィント先生は,ドイツ語,フランス語に堪能で,ヴェルニッケ,リープマン,デジェリンヌなどの原典を熱心に米国に紹介していた。それには理由があった。ボストン・ベテランズ病院神経内科の彼の前任部長はフレッド・クアドファーゼルで,クアドファーゼルは何と本書第6章で業績が紹介されているカール・ボンヘッファーの助手であった。ヒットラー独裁の時代,ナチへの嫌悪を隠さなかったクアドファーゼルは逮捕・投獄されてしまうが,ボンヘッファーの尽力で米国へ送り出され,ボストンに職を得る。彼は失語について関心が深く,ボストン・ベテランズ病院では,多くの失語症例を診ていた。そもそもゲシュヴィントが失語症に関心を持ち始めたのはこのクアドファーゼルの影響による。今や古典となった,言語野孤立症候群の論文はゲシュヴィントとクアドファーゼルの共著である2)。またボストン失語学脈の重要な貢献である失語性発話における流暢性/非流暢性の研究はハロルド・グッドグラスとクアドファーゼルによって始められた3)。意外な形でドイツ精神神経学はボストン神経学につながり,筆者にもつながっているのである。
 
 2008年1月
 神戸学院大学教授 山鳥 重
 
 
参考文献
1) 黒丸正四郎:児童の異常心理.井村恒郎,懸田克躬,島崎敏樹,村上 仁責任編集:異常心理学講座 4.みすず書房,p.55,1967.
2) Geschwind N, Quadfasel FA, Segarra JM:Isolation of speech area. Neuropsychologia 6:327‐340, 1968.
3) Goodglass H, Quadfasel FA, Timberlake W:Phrase length and the type and severity of aphasia. Cortex 1:133‐153, 1964.

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序章 ドイツ神経学・精神医学の原点を求めて
第1章 ピック病
第2章 アルツハイマー病
第3章 ヤーコプ‐クロイツフェルト病
第4章 パラノイア
第5章 単一精神病論への反証
第6章 外因性精神病の成立
第7章 メスメリスムス
第8章 アスペルガー症候群

和文索引
欧文索引
人名索引

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