やってくる
「日常を支える人々」に捧げるアメイジングな思考!
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生ハムメロンはなぜ美味しいのか? 対話という行為がなぜ破天荒なのか?――私たちの「現実」は、既にあるものの組み合わせではなく、外部からやってくるものによってギリギリ実現されている。だから日々の生活は、何かを為すためのスタート地点ではない。それこそが奇跡的な達成であり、体を張って実現すべきものなんだ! ケアという「小さき行為」の奥底に眠る過激な思想を、素手で取り出してみせる郡司氏。その圧倒的に優しい知性。
*「ケアをひらく」は株式会社医学書院の登録商標です。
シリーズ | シリーズ ケアをひらく |
---|---|
著 | 郡司ペギオ 幸夫 |
発行 | 2020年08月判型:A5頁:312 |
ISBN | 978-4-260-04273-4 |
定価 | 2,200円 (本体2,000円+税) |
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●『シリーズ ケアをひらく』が第73回毎日出版文化賞(企画部門)受賞!
第73回毎日出版文化賞(主催:毎日新聞社)が2019年11月3日に発表となり、『シリーズ ケアをひらく』が「企画部門」に選出されました。同賞は1947年に創設され、毎年優れた著作物や出版活動を顕彰するもので、「文学・芸術部門」「人文・社会部門」「自然科学部門」「企画部門」の4部門ごとに選出されます。同賞の詳細情報はこちら(毎日新聞社ウェブサイトへ)。
目次
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1-1 もはや学生寮ですらないかつての病棟
1-2 タクシードライバーといましろたかし
1-3 干しぶどうをこぼしたのは誰だ
1-4 神様が来てたんです
1-5 ムールラー
1-6 人工知能と天然知能
1-7 天然知能だった私
第2章 同じなのに違う、違うのに同じ
2-1 顔を知らないのに人を知っている
2-2 「よう、元気」であり「誰?」である
2-3 やってくる「友人」
2-4 どこまでいっても同じ
2-5 これは何者かの陰謀か
2-6 ミスマッチを超えたリアリティ
2-7 猫でない、というよりはむしろ、猫である
第3章 デジャブから出発しないとわからない
3-1 おまえ、牛丼食ってから来いや
3-2 カートを見続けた私のデジャブ体験
3-3 宙吊りにされた完了形
3-4 押し寄せる純粋な懐かしさ―夢の中へ
3-5 唐揚げを見ていて現れたデジャブ
3-6 お茶を忘れたから、おにぎりがホカホカだった
第4章 「いま・ここ」が凍りつく
4-1 凍てつく窓の向こう側
4-2 終わらないことを終わらせようとする恐怖
4-3 肉体・モノに集中して外部へ
4-4 運動を知覚する緩い同一性
4-5 「いま・ここ」のリアリティ
4-6 押し寄せる背景
第5章 ポップ・ファンキー・天然知能
5-1 ダサカッコワルイからこそのアメイジング
5-2 プリンスの衝撃
5-3 ボーイズ・タウン・ギャングからの「アップタウン・ファンク」
5-4 クエイ兄弟の脱創造
5-5 秋山祐徳太子のファンクでポップなダリコ
5-6 中村―鯖ガエル―恭子
第6章 カヌーを漕ぎ出すことで生きる
6-1 俺、明日からラーメン屋やります
6-2 因果関係反転の意味
6-3 これって権威?―生の尊厳としての権威
6-4 では、“いわゆる権威”とは何なのか
6-5 カヌーを漕ぎ出す
6-6 知覚できないものに同時に備える
第7章 死とわたし
7-1 死を感じる VS 死を哲学する
7-2 頭の中と外の接続
7-3 「前縁の神」としての死
7-4 「境界の神」としての死
7-5 間を開くもの=ワイルドマン
7-6 対話におけるワイルドマン=カブトムシ
7-7 前縁と境界の間、そして同一性とは
参考文献その他
あとがき
書評
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●webで紹介されました
《例えば、『やってくる』を、郡司さんにしか訪れない珍妙な体験のオンパレードじゃなく、もっと分かりやすく書けないのか、という声が聞こえてきそうな気がするんですが、それをしたら意味がないんです。こういう不思議な書き方をした『やってくる』を読んで「あぁ」といって救われる人がいることが大切で、逆に「何なの、これ」って言う人たちハッキリ言って死んでほしい(笑)。穏やかに言えば、郡司さんの書き方が悪いから分からないんじゃなく、こういう敢えて選ばれた書き方で何も気がつかないヤツがダメなの。だって、ダメな理由もちゃんと書かれているじゃないですか。だから完璧な本なんですよ。》――宮台真司(社会学者)
(代官山蔦屋トークイベント2020年10月28日、郡司ペギオ幸夫氏との対談 より)
●新聞で紹介されました
《郡司さんの新著『やってくる』(医学書院)ですが、滅茶苦茶面白かったです。郡司さんは前作『天然知能』あたりから、一般の人にもとてもわかりやすい文体になってきて、本作でさらに磨きがかかったと思います。郡司さんとは長い付き合いになりますが、ずっと、郡司さんの言葉をよく理解できる人が世界中に三人くらいしかいない中で僕がそのうちの一人だという自負をもってきたけれど、これで一気に何万人かに増えるのではないでしょうか(笑)。》――大澤真幸(社会学者)
(『週刊読書人』2020年10月2日号、郡司ペギオ幸夫氏との対談 より)
《タイトルからして何とも面妖な書物である。だが、ひとたび頁を繰ると、そこはお化け屋敷ならぬ郡司ワールド、思わず引き込まれてしまう。……お化け屋敷を出たあとに、少しばかり世界の色が違って見える異形の書である。》――野家啓一(立命館大学客員教授)
(『日本経済新聞』2020年9月19日 読書面 より)
《著者が天然知能と呼ぶそれは、人工知能のように規定の文脈内で情報を処理しがちな現代において、絶対的な外部へと開かれている。……一見難解な語り口の裏に、何がきても一緒に受け身をとってくれそうな、著者の底抜けの寛容さを感じる。》――伊藤亜紗(美学者、東工大准教授)
(『毎日新聞』2020年8月15日 書評欄「話題の本」 より)
《本書は、世界を理解するのではなく、世界と接続しようとする試みを伝える。人間同士もまた接続を試みたとき、豊かな共存があるはずだ。》――鵜飼慶樹(書店員)
(『京都新聞』2020年9月6日 より)
●雑誌で紹介されました
《近来希にみる異様な書物。統合失調症の発症と見まがうばかりの当事者体験が描かれ、それを問いの端緒として見たこともないロジックが次々と展開されていく。ことに評者にとって興味深いのは、オープンダイアローグにも言及のある「カブトムシ=ワイルドマン」のくだりだった。》――斎藤環(筑波大学教授・精神科医)
(『月刊みすず』2021年1/2月号より)
《著者は、人間が試行錯誤することとは、ある事をやってみることのなかに、未だ分からないことを分かることとして潜在させる構えであると言う。……私たちの生が、驚きと喜びに溢れていることを驚きに満ちた異形の文体で示してくれる快著。》――長谷正人(早稲田大学教授・映像文化論)
(『月刊みすず』2021年1/2月号より)
●動画で紹介されました
茂木健一郎 #もぎけんブックレビュー 020
郡司ペギオ幸夫『やってくる』レビュー
「やってくる」ものたちと付き合う勇気とユーモア
書評者: 細馬 宏通 (早大文学学術院教授・人間行動学)
降りかかる奇妙な現象
夜中に突然,謎めいた人の声のようなものが聞こえたらどうするか。多くの人は「気のせい」だと済ませるだろう。それでも繰り返し聞こえたら。さすがにその部屋は不気味なので,さっさと引っ越す,というのが常識的な考えだろう。
人一倍緩やかな感覚を持つ著者は,さまざまな奇妙な現象に会う。大学時代に借りた部屋で,夜中にはっきりとした低い美声が「ムールラー,ロームラー」と歌う声を聞く。通りで友人を見つけて話し続けたあげく,実は相手が赤の他人だったことに気付く。自身のパソコンが自分のものでないかのような感覚に陥り,思わず誰かに電話してしまう。
通常なら,このような日常における感覚のずれを恐れ,できるだけそこから離れ,なかったことにしようとするところだろう。ところが,著者は全く逆の態度をとる。一度借りた部屋に住み続けるように,自分の得た感覚をうち捨てずに徹底的に掘り下げ,それを「天然知能」と名付ける。本書のおもしろさはまず,この蛮勇とも言うべき態度にある。
リアリティとはこういうことか!
感覚と認識が一致するからこそわたしたちは生きていけるのであり,認識に矛盾する奇妙な感覚に惹かれていったなら,日常の土台が崩れ落ちてしまうのではないか。このような常識に挑むように,著者は自身の感覚に付き合っていく。
取り上げられるいくつもの現象は,わたしたちの空間や時間,因果関係の捉え方をそれぞれ異なる形で顕わにしていくのだが,感覚と認識のずれ方に,独特のユーモアが漂っている。これが本書の第2のおもしろさだ。
著者はこれらの例を通して,わたしたちの「リアリティ」のあり方を問い直していく。「リアリティ」といっても,本書で考察されるのは,単に既知の出来事とそっくりのものに会ったときに立ち上がる絵合わせのようなものではない。自分の知らないものが外から「やってくる」。それをハッと捉える感覚と認識とが矛盾を引き起こす。その矛盾に自身が揺らされ,当たり前だと思っていた世界が不意にありありと立ち上がってくる,それが本書で扱われる「リアリティ」である。
最初は著者の語り出す例に吹き出したり違和感を覚えたりする読者も,読み進めるうちに,実はその違和こそが「やってくる」感覚であり,自身の考えの硬さが解きほぐされていくのに気付くことだろう。
なんとチャーミングな
第3のおもしろさは,著者自身によって描かれたイラストである。この本に記されているさまざまな「やってくる」ものたちを,著者はトラックパッド上の一本指で描いている。イラストは,著者の緩やかな感覚をそのまま表すように,常識的な認識を支えるディテールを欠きながら,なぜかそれとわかるぎりぎりの造形を保っている。
わたしの目は,ヒット曲を踊るプリンスのイラストに釘付けになってしまった。著者の書く文章にはいつもどこかチャーミングなところがあるけれど,本書ではその魅力が爆発している。
『やってくる』を読んで「やってきた」もの(雑誌『精神看護』より)
評者:冨塚 亮平(慶應義塾大学非常勤講師・米文学/文化)
デイヴィッド・リンチが監督した映画『マルホランド・ドライブ』(2001年)の序盤には、その後展開する物語とはほとんど無関係な、ある印象深い場面が登場する。ハリウッドのサンセット大通りに位置するチェーン店のダイナー、ウィンキーズ。ただならぬ表情を浮かべたダンは、他の店舗ではなく「この」ウィンキーズに来たかったのだという。彼は、「この」店の裏で謎の男を壁越しに目撃する夢を見て感じたという恐怖について語る。そして、その恐怖をぬぐい去るために、同行者を夢で見た場所へと連れて行く。するとそこには、実際に毛むくじゃらの謎の男がおり、ショックを受けたダンは気絶してしまう。
また、ドナルド・バーセルミの小説『雪白姫』(白水社、原書1967年)にも、物語の本筋からは逸れる次のようなジェインと母の会話が現れる。「あの猿みたいな手は何かしら、ほら、わたしの郵便受けのなかへ伸ばしてきてるでしょ?」「何でもないわ。気にしなくていいの。何でもないったら。〔……〕猿なら猿でいいじゃない。変哲もない猿よ。もう気にすることないったら。それだけのことじゃない」「あなたって、こういうことをいとも簡単にうっちゃってしまうのね、ジェイン。それ以上の意味があるにちがいありません。あれは異常です。何か意味があるんです」「そんなことないったら、お母さん。それ以上の意味はないんです。わたしのいった意味以上は」
ダイナーの裏に潜む「毛むくじゃらの男」。あるいは、郵便受けに出現した「あの猿みたいな手」。本書『やってくる』の第1章で紹介される、オペラのような美声で「ムールラー」と歌う男性の声をめぐる幻聴のエピソードを読み直していた時、不意に私の脳裏によぎったのが、幻覚をめぐるこの2つのシーンだった。かつて10年以上前に関心を抱いていたものの、その後全く思い出すことすらなかったこれらのイメージが、突如として「やってきた」のだ。この2つの例はそれぞれ、本書の言葉でいえば、ダンとジェインの母にとって「知覚できないものに対する圧倒的な恐怖」を喚起したと考えられる。
「前縁の神」と「境界の神」
郡司は第7章で、そうした人間の理解を超えた対象を、「原始的な神」あるいは「前縁(フロンティア)の神」と呼んでいる。彼によれば、「こちら側とあちら側の両方を知っていて、その間に引かれる線を意味する」境界(バウンダリー)に対して、前縁は「こちら側しかわからない」限界を指すとされる。前縁は、「地平線や水平線のように」、「その向こう側は存在するかどうかさえ確信できない」ものであり、だから認識や思考の限界は前縁であるのだという。この区分をもとに彼は、「原始的な神がどのように形成されてくるかを想像する」ことで、「窺い知れない外部に対する圧倒的な恐怖が、どのように捉えられ、出現してくるのか」を考えようとする。
「原始的な神は、こちら側とあちら側が断絶しながら接続しているからこそ、生まれ得る」。この、前縁の向こう側に形成される「知覚できなくとも存在する」神である「前縁の神」は、人間に無関心で、人間と無関係にやってくる不条理なものであり、その意味で「向こう側として感じられる死」と一致するものとされる。それに対して、「恐怖の対象」であり「畏怖すべきもの」でもある「前縁の神」に、「安心感や安堵感を持ち込む」方法として郡司があげているのが、「境界の導入」である。
改めて思い返せば、その頃の私は最初に紹介した2つの場面を比較することで、「前縁の神」がもたらす恐怖といかに向き合うかについて考えていたのだろう。リンチ映画のダンのように恐怖に押しつぶされないためには、バーセルミがそうしたように、「やってくる」対象にどうしても意味を見出してしまう人間のあり方を俯瞰して笑い飛ばすしかない。
当時の私が至ったこの暫定的な結論は、本書の言葉で言い換えれば、「知覚できない向こう側」である「前縁の神」を「目に見える向こう」である「境界の神」へと置き換える、物象化の作用をめぐるものであったように思われる。「猿なら猿でいいじゃない」として知覚できないものを受け入れようとするバーセルミのユーモアが、例えば『幻聴妄想かるた』(医学書院、2011年)などを思わせる形で「やってくる」異物を物象化することで、「猿みたいな手」は不条理な恐ろしいものではなくなる。しかし、郡司も強調する通り「原理的に前縁の神でしかない「わたしの死」は境界の神に置き換えることで理解されることはない」。その時の自分には、「毛むくじゃらな男」や「猿みたいな手」をそのまま受け入れ、理解する方法はわからなかった。つまり、決して経験できない「わたしの死」と結びついた恐怖の対象は、決して消えることはなかったのだ。
ダサカッコワルイの極、『レディ・イン・ザ・ウォーター』
バーセルミをめぐる卒業論文を書き終えたものの、前年に就職活動を全くしていなかったことから留年生となった私は、春に就職先を決めると、釈然としない思いをかかえたまま、その後1年近く大学にもバイトにもあまり行かず「考え、やきもきして、焦って、諦めて、ぼんやりして」いた。もしかすると、この時期に私のなかでも「無意識のうちに、認識することと感じられることの間は違和感を帯び、通常当たり前のように感じられるリアリティは失われ、何かを呼び寄せる準備だけが着々と整えられていた」のかもしれない。自らに「ムールラー」が聞こえた理由をこのように振り返る郡司は、その経験を幽霊やUFOを見る経験と並べて、「外部を呼び込んだ」事例として解釈しているが、偶然にも、その頃の私に外部から「やってきた」のもまた、幽霊や宇宙人を見てしまった人物を描いた映画作品であった。
幽霊をめぐる『シックス・センス』(1999年)や、宇宙人とある家族の闘いを描いた『サイン』(2002年)で若くして成功を収めたM・ナイト・シャマラン監督の映画は、いずれも「やってくる」サイン=兆候を受け入れることで、喪失をかかえた主人公が再び何かを信じる力を取り戻す物語を描いていた。なかでも、本書終盤の記述を読んで私がすぐに想起したのが、『レディ・イン・ザ・ウォーター』(2006年)だ。おそらく、批評家にも観客にも酷評されたこの作品こそ、「前縁の神」と「境界の神」をめぐるジレンマに突破口を開く、「動物とも人間の世界とも違う、より大きな世界の圧倒的力を受け取る者」であるワイルドマン=カブトムシの存在を最もはっきりと描いた、郡司の言葉でいう「ダサカッコワルイ」映画だったのではないか。
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物語の舞台は多様な住人が暮らすアパート。主人公で管理人のクリーヴランドはある夜、中庭のプールから出てきた少女ストーリーを発見する。彼女は、自らがブルー・ワールドという別世界からある目的のためにやってきた海の精「ナーフ」であり、目的を果たしたのちに元の世界に戻らなければならないと告げる。しかし、アパートの中庭には、ナーフを襲おうとする怪物スクラントが待ち伏せしていた。もともとは住人たちに対して心を閉ざしていたクリーヴランドは、彼女の出現を機に、住人たちと協力して彼女の目的を達成させ、元の世界へと送り帰そうと奮闘する。
まず重要なのは、ストーリーや木の上に住み異世界の正義を守る獣タートゥティックといったキャラクターが、前縁の向こう側に位置する異界であるブルー・ワールドと、アパートが属する人間の世界を媒介するわけではないという事実だろう。この映画には、ブルー・ワールドの様子が映し出されることは決してない。彼女たちは、本書でワイルドマンについて語られる通り、「むしろその二つの世界の間を象徴的に開き、人間世界や生命の全体のさらに外側にある力を呼び込む存在」であるように思える。
アパートの住人たちに何がやってきたのか
そしてさらに興味深いのは、ストーリーがアパートへと「やってきた」目的と、彼女が元の世界へと帰る方法を、住人たちが協力して探ろうとする過程だ。アパートの住人たちは、プールの底とつながっていると思しき、「知覚できない向こう側」に位置する異世界であるブルー・ワールドを決して目にすることができない。にもかかわらず、彼らのほとんどは突如アパートに「やってきた」ストーリーによる、自分は海の精「ナーフ」であるという荒唐無稽な主張を疑うことはない。
さらに彼らはなぜか、何の裏づけもないそれぞれの住人たちが持ち出す推理もまた、一切疑わずに信じ込んでいる。はじめクリーヴランドは、さまざまな住人がそれぞれに語る物語を信じ、それらを頼りに彼女の目的に関する仮説を組み立てていくのだが、「通訳者」や「癒し手」、「守護者」、「ギルド」などと呼ばれ、それぞれ物語のなかで重要な役割を果たす人物たちが誰なのかをめぐる仮説は、いずれも後に否定されることとなる。
住人たちの仮説やストーリーの残す予言といった、本作の中盤までに登場するあらゆる疑問に対する解答は、郡司がパトカーの写真を示したTさんに「これなんだ?」と問われた際の答えであった「カブトムシ」と同様に、いずれも少しずつ間違っていた。しかし、この映画では、新たな解釈(答え)が付け加えられるごとに、そもそものゲームの規則(問い)もまた書き換えられていく。それらは郡司が対話におけるワイルドマン=カブトムシの特徴とした、「相手の言葉を引き取り、「何かを限定して答えになるのと同時に、質問として開かれている言葉」」でもあった。
実のところ、「かつ」と「または」を混同する、コンピューターのバグ(≒「カブトムシ」)を思わせるそれらのずれは、住民たちの間で繰り返し受け渡されることで有意味な言葉となり、やがて「答えでありながら同時に意図の読めない問い」として、「意味の限定と意味の解放の間」、あるいは「理解を召喚するずれ=スキマ=ギャップ」を開いたと考えられるのだ。ストーリーがやってきてそこへと帰っていくブルー・ワールド、すなわちプールの底の向こう側は決してわからない。「にもかかわらず、決して知覚できない向こう側の存在が、確信できるようになる」。
例えば、自らが「守護者」であるというクリーヴランドの見立ては誤りであったが、実際には彼には別の役割が与えられていた。次々に変更される解釈を再び信じようとする、明らかに常軌を逸した住人たちの姿勢に打たれ、数少ない懐疑派の住人もついには皆と同じ物語を信じるに至る。アパートの住人たちは、恐怖の対象として「毛むくじゃらな男」や「猿みたいな手」を恐れる態度とは逆に、「境界を通して理解される前縁の向こう側」に「ストーリー」が存在することを信じる。最終的に住人たちが辿り着く正しい役割の解釈は、複数回の誤りを経ることで初めて「他でもあり得たにもかかわらず、それしかない」ものとして立ち現れる。つまり、「他でもあり得たことへの気づき」によってこそ、我々は「関係自体が固定できず、関係を指定する文脈がたえず逸脱し、本質的に動的であることに気づかされる」。
「ストーリー」を受け入れる――徹底した受動性へ
郡司は本書の最後で、こうした気づきを経て「初めて私たちは、外部に対して徹底して受動的になれる」と強調する。『レディ・イン・ザ・ウォーター』の末尾、ストーリーが消えた後にブルー・ワールドへと通じるプールの水面を見つめるアパートの住人たちの姿は、映画館のスクリーンを見つめる観客の姿勢を強く想起させるが、ここでの水面≒スクリーンもまた、1つの境界として機能しているように思われる。「境界(スクリーン)を通して理解される前縁の向こう側」が同時にその逸脱でもあること。スクリーンに映し出されるイメージや「ストーリー」(=物語)が予想された文脈からずれ続ける様子に目を凝らしてきた私を含むこの映画の観客たちもまた、そのことに気づくことで外部から「やってくる」理解を待ち受ける徹底した受動性を獲得し、少女ストーリーと彼女をめぐる「ストーリー」を信じることができるようになる。
初めてこの映画を観た時に、こうしたことを意識していたわけではもちろんなかった。しかし振り返ってみれば、その後幾度となくこの映画を観直すごとに私が涙してきたのは、外部から「やってきた」「ストーリー」をそのままに受け入れて信じるまでの徹底して受動的な過程を、そのたびに繰り返し経験してきたからだったのかもしれない。
(『精神看護』2021年9月号掲載)
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