医学界新聞

 

地下鉄サリン事件における聖路加国際病院の対応と災害医療への提言

日野原重明氏(聖路加国際病院理事長)に聞く


――地下鉄サリン事件からちょうど10年ですが,日野原先生は当時,聖路加国際病院院長として第一線で指揮をとられました。事件当日のことを教えていただけますか。

日野原 地下鉄サリン事件は,1995年3月20日月曜日に起きました。聖路加国際病院では,毎週月曜日に,私たち幹部が朝7時半から会議をしています。その会議中に,地下鉄で事故が起こったという電話が警察からあり,医師を10人ほど派遣しました。一方,地下鉄の駅前を車で通りかかった人が,倒れていた重症患者を車に乗せて聖路加にやってきました。

 それを聞いて救急センターに下りていくと,そういう患者が続々と来はじめていました。そこで私はすぐに,当日の手術予定の患者で,すでに麻酔がかかっている人以外は全部手術をやめること,それから外来は全部断るという指令を,勇気を持って出しました。これは大変なことだと思いましたから。

 その後も救急車がどんどん来て,2時間くらいの間に640人の患者のトリアージをし,重症と中等症と軽症とに分け,病院のどこへ入れるかを決めました。心肺停止の1人は手の施しようがありませんでした。そのほかに呼吸停止の人が2人いました。来院した640人のうち,入院時呼吸停止だった1人が1か月後に亡くなりましたが,入院した111人のほとんどが,翌日あるいは3日目くらいまでに退院しました。

決め手は周到な準備と役割分担

――当日,先生から医師に特別な指示を出されたのですか。

日野原 まず何の病気かわからないので,中堅の医師を集めて「診断をつけるための研究をしなさい」と指示をしました。「診断班」を作って文献を調べ,電話で情報を集めたことが一番よかったと思います。その次には,病歴を聴くのに,いちいち通常の入院チャートを使うわけにいかないので,個々の患者の首に厚い紙をぶら下げてもらい,そこに病歴を書くことにしたんです。そして,診断班によって治療法が決まった時点で,それをビラにして全医師に指示したので,どの診療科の医師でも治療ができました。「治療班」ですね。

 それから,患者家族に事情を電話で知らせることにしたんですが,NTTが臨時の公衆電話20台を持ってきてくれて,患者が家に連絡したいという時にそれを貸したんです。これは看護師に担当してもらいました。そうやって分担を決めたために,事が混乱しなかった。

――救急隊に対して,先生は全患者を受け入れるとおっしゃったそうですが。

日野原 新病院を設計する時に,スウェーデン,スイスといった中立国の病院を見学して,災害時にはチャペルでも入院ができるように,壁に酸素もサクションもつけました。そういう配置がしてあったので,「これは全部受け入れられる」という判断ができたんです。私が,関東大震災のようなことが再び起きるかもしれないと考えたこと,災害の時にこの病院が役に立たなければならないと考えて投資したこと,それと,当日7時半に幹部の会議をはじめていたということで,指令がすぐにでき順調に対応できたのです。

災害医療は市民への啓蒙が重要

――最後に,災害医療への提言をお願いします。

日野原 聖路加の職員は採用時に,医師も看護師も事務の人も,1週間のオリエンテーションの中で救急治療を学びます。心停止があったら蘇生ができるようにして,「私は聖路加の職員だ」というプライドを持ちなさいと言っています。救命というのは医師や看護師だけでなく,全員がすべきだと思います。だから,病院の職員にもそういう教育をしているんです。

 日本は,関東大震災があって,また阪神・淡路大震災,そして最近新潟の大震災もあったのですが,熱さが喉元を過ぎるとすべてを忘れるところが日本人にはあるから,済んでしまうと「まあまあ」ということになってしまう。しかし,それを教訓にして積み重ねて将来に備えるということを,もっと国民全体で考えなければなりません。ファーストエイドとして市民の教育が足りないと思っています。

 そして,医師をめざす人には,救急治療の重要性を医学部の1年生から教えることが必要です。解剖して,「これがこうで…」ということをしながらも,はじめから治療を教える。そうすると,学生は非常に興味を持ってきます。つまり,ティーチングを変えないといけないと思います。

――示唆に富んだお話をお聞かせいただき,ありがとうございました。