医学界新聞

 

短期集中連載〔全5回〕

「医療費抑制の時代」を超えて
イギリスの医療・福祉改革

第2回 荒廃する医療現場-「対岸の火事」なのか?

近藤克則(日本福祉大教授/医療サービス研究)


2587号よりつづく

 前号では,待機者リスト問題を例に,NHS(国民保健サービス)の危機的状況とその原因を述べた。今回は,医療従事者の量的不足,さらには彼(女)らが長時間労働のために疲弊しており,医療事故が多発していることを紹介しよう。そして,日本の現状と比べてみよう。

深刻な人員不足

 イギリスでは,医師が1万人,看護師で2万人は不足しているという。医師不足の原因は,人口当たりの医師数が他のヨーロッパ諸国に比べ少ないのに加え,仕事の多さや給与の安さなど待遇の悪さから,養成しても医師・看護師が海外に流出していることにある。年間新規登録医師数は,1995年の1万1000人から2000年の8700人へと26%も減少していた。この医師・看護師不足への対処法は,日本では考えられない方法である。それは,医師・看護師の海外からの「輸入」である。世界中から,英語の試験をパスした医師・看護師が集められている。その規模は,看護師で年間5000人を超えるという。

研修医は週56時間以上働く
 イギリス政府は,研修医の労働時間の上限を(EUの基準である週48時間を超える)56時間(日曜も休まず働いても毎日8時間)に引き上げている。しかし,問題となったのは,この引き上げではない。上限を超える長時間労働をしている研修医が年々増加しており,2001年には60%を超えていたことである。

高い自殺率
 医療従事者の自殺率の高さが指摘されている。医師の自殺率は他の専門職の2倍に上り,看護師の自殺率は,他職種の女性の実に4倍であるという。さらに看護師の3人に2人は抑うつ状態という調査結果もある。

増える退職(希望)者
 看護師を対象にした公務員労働組合(Unison)の調査によれば,87%が退職を考えたことがあり,60%の者が給与の低さを理由としている。40%が昨年1年間に提供できるケアの質が低下したと答え,3分の2が病院の職員不足が頻繁に生じていると訴えている。大学における看護教育の定員は増加し人気を集めているものの,学生たちの脱落率は17%に上っている。これらの背景には,夜勤を含む不規則な勤務パターンなど看護師の労働条件の厳しさがある。

相次ぐ医療事故・スキャンダル
 2001年1月に,3歳のナジヤちゃんが酸素の代わりに笑気ガスを投与され死亡,2月には18歳のウェイン君が薬を誤って脊髄腔に注入され死亡している。このような医療事故は年間84万件起きているという推計も出された。

 ブリストルで起きた小児心臓外科スキャンダルも大きな注目を集めた。心臓外科手術を受けた1歳未満の子どもの術後30日以内死亡率が,ブリストルの病院で異常に高く,他の12病院と比べ約2倍であり,統計学的にも「はずれ値」を示していたのである。もし,他の病院で手術を受けていたのなら,30-35人は死なずに済んだであろうという。

「対岸の火事」なのか-日本にも医療現場荒廃の兆し

 以上のようなイギリスNHSの荒廃ぶりを知った当初,「イギリスの医師・看護師たちは大変だ」と同情し,日本の方がマシだと思った。いわば「対岸の火事」である。しかし,少し冷静になって日本の実情をみてみると,すでに似たような状況があることに気づいた。

名義貸し問題の背景にある医師不足
 日本で社会問題となっているのが,「医師の名義貸し」問題である。札幌医大に端を発したが,文部省の調査によれば,全国51もの大学でみられ,1161人の医師が関与していたという。これは単に倫理の問題なのであろうか?

 実は,この背景に医師不足がある。人口あたりの医師数は,日英で同水準でOECD平均を下回る。日本の8656病院を対象とした立ち入り検査で,医師数が医療法に基づく標準に満たない医師不足の病院は,2002年度で25%もあるのである。地方により問題は深刻で,北海道・東北などでは,50%を超える病院が医師数不足である。名義だけ借りて標準数を満たそうとした医師不足の病院の思惑と,バイトなしには生活できない研修医や若い医師たちの利害が一致した事情が名義貸し問題の背景にある。

表 日英米3か国の医療資源比較
 イギリス日本米国
GDP比医療費水準(%)7.37.613.12000
稼働医師数(人口千対)21.92.72000
稼働看護師数(人口千対)8.47.88.11998
平均在院日数9.843.77.51996
*OECD Health Data2003. 日英米とも揃っている最新年データを示した。

研修医の長時間労働とうつ
 研修医をはじめとする長時間労働についても,イギリスに同情などしていられない。日本では,国立大学病院の研修医たちの平均労働時間は,イギリスの労働基準上限の56時間を軽く超える92時間である。文部省研究班の調査によれば,1年目の研修医のうち,研修開始後に新たにうつ状態になった者が25%もいるのである。うつになった研修医ほど受け持ち患者が多く,自由時間が少なく,やはり長時間労働がその背景にあることが示されている。そして長時間労働の末に,自殺だけでなく過労死する医師まで,わが国にはいるのである。

医療事故
 医療事故でも,日本がイギリスよりマシな状態とはとても思えない。医療事故のニュースは,連日のように新聞紙上をにぎわせている。医療事故の中には,倫理上の問題や,マニュアルの整備や手順の見直しで防げたものもある。しかし,現場にもう少し人手があり,基準労働時間が守られていれば,防げた事故もあったのではなかろうか。上述した長時間労働でうつ状態に陥っていた研修医の方が,医療事故の危険が高かったことも,そのことを示唆している。

 こうしてみると,イギリスNHSで見られた医療現場の荒廃ぶりは,決して「対岸の火事」ではない。日本でも,イギリスと同水準の医療費抑制政策がとられてきた。だから,驚くにはあたらないのである。

本連載について
本連載は,弊社刊行書籍『「医療費抑制の時代」を超えて-イギリスの医療・福祉改革』(近藤克則 著)に収載されている内容をもとに,著者が最新の情報を加えて書き下ろした短期集中連載です。
(週刊医学界新聞編集室)


近藤克則氏
1983年千葉大卒。船橋二和病院リハビリテーション科長などを経て,1997年日本福祉大助教授。2000年8月より1年間University of Kent at Centerbury のSchool of Social Policy, Sociology and Social Research の客員研究員。2003年より現職。専門分野はリハビリテーション医学,医療経済学,政策科学,社会疫学。