医学界新聞

 

〔連載〕続 アメリカ医療の光と影 第34回

神の委員会(15)
「医療における配給制と市場原理」

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2572号よりつづく

 米国では,医療政策を論じる際に,「配給制」を主題とすることはもとより,「配給制」という言葉そのものを使うことさえタブーとされてきた伝統がある。医療を市場原理に委ねることを特徴とする米国の医療制度の下で,配給制ほど市場原理と相容れない制度はないというイメージがあっただけでなく,「配給制=必要な医療サービスへのアクセス拒否=不正義」という,根深い固定観念があったからである。

「配給制=不正義」という観念

 言わずもがなのことであるが,市場原理の下では,需要と供給のバランスは価格メカニズムを通じて達成されると期待される。すなわち,需要に比して供給が乏しい場合は価格が高騰して需要が抑制される一方で,供給が過剰である場合は価格が低下して供給が抑制されるという具合に,社会全体の物資やサービスの分配のバランスが価格メカニズムによって自動的・合理的に達成されることが市場原理の利点とされているのである。だからこそ,医療も他の経済活動と変わらないとする人々は,医療を市場原理に委ねれば合理的な需給バランスが自動的に達成されるのに,配給制など「統制経済」の仕組みを入れるのはけしからんと主張するのである。
 市場原理派の人々にとって,「需要が多く供給が少なければ価格が高くなるのは当たり前。医療でも特別の料金を払う意思のある人だけが特別のサービスを受けることが許されて当然」となるのは言うまでもない。それだけでなく,「高いお金を払う意思があるのに,受けたい医療サービスが受けられないのは著しい不正義」(註1)とするのが米国人の一般的な考え方なので,医療を市場原理に委ねることに反対する立場の人々も「配給制の導入を語ることは不正義に与することになる」と,「配給制」を語ることがタブー視されてきたのである。

診療報酬を低めに設定し,事実上の「配給」を実現

 しかし,「配給制=不正義」という建て前とは裏腹に,現実の米国の医療には,配給制が隅々に行き渡っている。例えば,前回,「メディケアは,LVADのdestination therapyの診療報酬支払い額をコスト割れの低額に設定することで実質的な配給制とした」と紹介したが,診療報酬支払額を低めに抑え,医師・病院など医療サービス供給側にネガティブな財政的インセンティブを与えることで「配給」を実現することは,米国の公的医療保険における常套手段となっている。特に,メディケイド(低所得者用の公的医療保険)では,診療報酬支払額が全般に低額に設定されているので,医師が「メディケイドの患者は診ない」と受診を拒否したり,病院が「コストが嵩む手術をメディケイド患者に施行しない」というポリシーを採用したりすることが横行し,メディケイド患者の医療へのアクセスを著しく損ねる結果となっている。
 一方,医療サービス供給側は,伝統的に,メディケア・メディケイドの公的医療保険のコスト割れ分を民間の医療保険につけ回すことで凌いできた(「コスト移転」と呼ばれる)。コスト移転が付加される分,民間医療保険はますます割高となるので,低所得者にとって医療保険の購入は一層難しくなる。公的保険のコスト割れに起因するコスト移転が,無保険者が増え続ける一因ともなっているのである。

米国医療保険システムの悪循環

 そもそも米国の公的医療保険は,市場原理の下で落ちこぼれた弱者,すなわち,高齢者(メディケア)・低所得者(メディケイド)に対する,国家としての救済制度として用意されたものである。特に,高齢者の場合,高齢者のみを対象とした医療保険を市場原理に従って設定しようとすると,その有病率の高さゆえに保険料はきわめて高額なものとなり,65年にメディケアが発足する前の米国では,実に,高齢者の2人に1人が無保険者という悲惨な状況が現出していた。
 親が病気で倒れた途端に財産すべてを失い一家が路頭に迷うという悲劇が,社会にとってありふれた事態となるに及んで,「高齢者の医療を市場原理に委ね続けたら社会そのものが潰れてしまう」というコンセンサスが成立,「高齢者の医療は連邦政府が税金で賄う」という国家としての意思決定が40年前になされたのである。
 このように,米国では,市場経済(「民」)に委ねた場合,医療にアクセスすることができなくなる人々が大量に出現するという,社会の「穴」を補填するために公的医療保険が設立された歴史があるのだが,皮肉なことに,「民」と「公」が互いに負債(つけ)をつけ回し合ったために,「無保険者の増加→公的保険の守備範囲拡大・財政難→公的保険の診療報酬引き下げ(コスト割れ)→コスト移転→民間保険の保険料値上がり→無保険者の増加」という悪循環が形成されてしまった。社会全体の穴が埋まるどころか,ますます拡大する結果となったのである(註2註3)。

皆保険をめざしたクリントンの医療改革はなぜ失敗したか?

 90年代前半,クリントン政権はこの悪循環の連鎖を絶たんと国民皆保険制の実現をめざしたが,民間の保険会社は,「政府による医療介入が進み,いずれ,受けたい医療も受けられなくなる配給制が取り入れられる」と猛反対するキャンペーンを展開した。保険会社のキャンペーンは米国民の「配給制」に対する嫌悪感に訴えることに成功,クリントンの医療改革はあえなく潰されてしまった。ことほどさように米国民にとって「配給」という考え方は毛嫌いされているのだが,「(市場原理派の元締めともいうべき)民間の保険会社がしていることは,医療の『配給』に他ならない」と米最高裁が断じたのは2000年6月のことだった。

(註1)この主張は,「混合診療を解禁せよ」という人々の主張と瓜二つであることに注意されたい。
(註2)民間の保険会社は,利益をあげる早道として,健常者を優先的に保険加入させる(=病者を排除する)ことにも努力を傾注している。その結果,無保険者・公的保険加入者の有病者率が増え,「公」の負担はますます増加している。
(註3)日本でも,財務省を中心に,医療保険の「公」の部分を減らして「民」の部分を増やそうと,あたかも米国型の医療保険制度を真似ようとする動きがあるが,医療保険を分割・階層化することの愚は,米国医療の歴史と現実が証明している。