医学界新聞

 

【鼎談】

「精神医学」と「精神看護」の出会い

中井久夫氏を囲んで

 宮本真巳氏
(東京医科歯科大学教授)
中井久夫氏
(精神科医:神戸大学名誉教授/
甲南大学教授)
新道幸恵氏 
(青森県立保健大学学長)


■看護できない患者はいない

中井先生との出会い

──中井先生は,このたび『看護のための精神医学』(医学書院)を出版されました。この本は,かつて『系統看護学講座・成人看護学・精神疾患患者の看護』(1984-1992,医学書院)に書かれたものが基になっており,同書は諸般の事情から絶版となっていますが,その内容を知っている方の間では「幻の名著」とまで言われておりました。
 今回発刊された『看護のための精神医学』,はこの「幻の名著」を基にして,さらにその2倍以上の新記述を加えて構成されています。
 そこで本日は,この本に書かれている中井先生の発想が,看護あるいは看護教育にどのような形で活かせるのか,といった点についてお話しいただけたらと思います。
 そもそもこの企画は,本日ご出席をお願いしている宮本先生に「かつて素晴らしい精神科看護の教科書があった」とお聞きしたことがきっかけでした。まずお二人の先生方と中井先生とのかかわりからお聞かせいただけますか。
中井 宮本先生がおられなければ,この本は日の目を見なかったわけですね(笑)。
宮本 私は昨年まで横浜市大の看護短大にいましたが,その前は東京都精神医学総合研究所におり,さらにその前は都立松沢病院で看護士をしていました。現場にいたその時期に,中井先生の教科書と出会っています。
 もともと私は社会学が専門でしたが,大学院では精神衛生学を学びました。その頃に,土居健郎先生が主催されていた症例検討のゼミに中井先生が出ていらして,先生のご発言に何度も感銘を受けた経験を持っています。
新道 私と中井先生とのかかわりは,神戸大学医学部附属病院の看護部長に赴任し,教授室へご挨拶にうかがった時が最初でした。それ以来1997年に先生が退官なさるまで,ずいぶん助けていただきました。
 特に1995年の阪神大震災の時には,患者さんやスタッフのメンタルヘルスの面でご支持をいただきまして,中井先生なくしては看護部長の役割を十分果たすことができたかどうか疑問です。
 また私自身,母性の心理社会的側面といった点でメンタルヘルスに非常に関心を持っていましたので,当時から先生にお話をうかがうのを楽しみにしておりました。
 そして,『最終講義──分裂病私見』(みすず書房)に収録されている先生の最終講義も聴かせていただきました。
中井 古いことからお話しますと,私の若い頃には,病気の人か看護職に不適格者と言われたナースが精神科に回るという傾向がありました。
 そこで,精神科の看護はこれではいけないと思い,看護職の方にも精神科のことをわかっていただこうと,できるだけ看護の方とお話しするようにしていたのです。

●精神科の位置

 精神科の病いには,「原因不明の病気が多い」「軽い病気が登場しない」という特徴がある。
 原因不明の病気が多いのは,(1)中枢神経(と言っても「こころ」と言ってもよいが)が複雑だからだが,(2)生理学的・生化学的に原因がわかった病気は,精神科から外へ移されるからでもある。だから精神科では,かえって医療の基本的骨組みが生きてくる。おもしろいことだ。医者と看護者が近いのもそのためである。
(囲み罫内は『看護のための精神医学』より抜粋〔以下同〕)

医者が治せる患者は少ない

──すると,先生はもともと看護に力を入れていたというか,興味を持っていらしたのですね。
中井 昔は「インターン」という制度がありましたでしょう?
 いろいろ問題もあって廃止されたのですが,当時は看護婦さんのすることを全部インターンがやったんです。
 今の看護婦さんのすることはできませんけれども,60年代のことだったらできます。看護婦さんが「便掘り」なんかを躊躇すると,時には僕がすると……
宮本 摘便ですね(笑)。
中井 はい。それを僕が率先してやると,ナースは「おお!」と驚く……。
 そういうことを実際にやってきた,ということが1つあります。
 それから東大の分院では,夜はドクター1人,ナース1人なんですね。ナースを1人では置いておけないので,とにかく深夜勤の方が来られて,患者さんが眠ったのを確かめる頃までは,ドクターはナースの詰め所にずっといました。
 つまり,医者が手伝いをしないと看護が立ち行かなかった。
宮本 この本の中で一番印象に残っているのは,「医者が治せる患者は少ない。しかし,看護できない患者はいない。息を引き取るまで,看護はできるのだ」という文章です。とても勇気づけられました。
 多くの看護職の読者の方々もそう言っていますが,その裏には先生ご自身の看護体験があったわけですね。

●看護できない患者はいない

 看護という職業は,医者よりもはるかに古く,はるかにしっかりとした基盤の上に立っている。医者が治せる患者は少ない。しかし看護できない患者はいない。息を引き取るまで,看護だけはできるのだ。
 病気の診断がつく患者も,思うほど多くない。診断がつかないとき,医者は困る。あせる。あせらないほうがよいと思うが,やはり,あせる。しかし,看護は,診断をこえたものである。「病める人であること」「生きるうえで心身の不自由な人」──看護にとってそれでほとんど十分なのである。実際,医者の治療行為はよく遅れるが,看護は病院に患者が足を踏み入れた,そのときからもう始まっている。

■「カルテ」と「看護日誌」を比べると

カルテには何もない時のことは書いていない

中井 私が医学部にいた頃の教科書には,診断は書いてあっても,治療については1行ぐらいだったり,「ない」とか,フグ中毒に至っては,「砂に埋めて顔だけ出すという方法が古来行なわれている」と書いてあるんです(笑)。私は非常にがっかりしました。
 医者のカルテと看護日誌を見比べたらよくわかりますが,医者のカルテは,何かあった時のことは書いてあるけれども,何もない時のことは書いてないわけです。しかし,看護日誌はそういう時のことも書いてあります。
 今回のこの本の中にも分裂病の経過について書いていますが,私の分裂病の経過研究は看護日誌を利用しているんです。カルテも読みましたし,僕自身の記録もありますけれども,看護日誌がなかったらできませんでした。

精神疾患患者の身体症状

宮本 中井先生の『系統看護学講座』や,その少し前に出版された『精神科治療の覚書』(日本評論社)を読んで,精神疾患患者の身体症状について大変考えさせられました。
 「それ自体は病気とはいえないようなちょっとした身体症状であっても,実は精神症状の推移と非常に密接な関係があり,むしろ精神病の治療にはそういう見方が役に立つのだ」ということを指摘されていました。パッと視野が開けたような感じがしました。
中井 工夫をして,分類をしないようにしたのです。身体症状だとか精神症状などの分類を一切やりません。
 無差別的であること,時間を追うこと,この2つをやって,セオリーを棚上げしてしまったわけです。
新道 「最終講義」でもそのことに触れられていましたね。
中井 ええ。時間経過に沿って無差別にやらないと出てこないんです。
宮本 看護の世界でも,問題解決志向を強調する人たちは,経時的な記録に批判的です。しかし,やはり看護記録の原点は経時記録ですね。
中井 看護日誌とカルテの差というものをすごく意識しました。これは,医者と看護職の役割を象徴していると思います。

「普通のこと」への着目

新道 この本を貫くものは,人に対するやさしさだという気がしました。
 「精神分裂病という特定の疾患を持った患者さん」ということではなくて,本当に普通の人間対人間の関係であって,「人間を診る」というやさしさがそこにあります。
 患者さんとの普通のつきあいがまずあって,その関係の中で人と人との関係の“予測”ということをなさっている。
──“普通”と言えば,専門家というのは得てして「特異症状」に注目しすぎてしまいます。本来は「非特異(一般)症状」のほうが重要だともおっしゃっていますね。
中井 発病の時は特異症状が出てきますが,それは早く消えて,あとは非特異症状が続きますね。
 精神病院では特異症状が重視されます。薬で特異症状を取ればそれで「治った」と考えがちですが,特異症状がなくなった時から本当の回復が始まる,と考えるべきではないかと思います。
新道 「特異症状が終わったらすぐに治癒だと思ったら間違いだ」「非特異症状が消えてはじめて治癒と考えられる」という考え方が随所にありますね。それはむしろ,医師に読んでいただきたいところではないかと思ったりしたのです。
中井 この本のタイトルを「看護のための」としたのは,看護婦さんのほうがよく知っていたら困るから医者も買うかなと思ったからなんです。
──他にも,例えば『心理臨床大辞典』(培風館)などの中にもたくさん引用されています。
中井 それは知らなかった。心理臨床の人も読んでいるということですね。
新道 今まで「看護のための医学書」というのは,「医学を簡単にした」という感じの本が多かったような気がします。私たち看護の発展を期待している者としては,医学書に「看護のための」と書かれている本には,少なからぬ抵抗があります。
 しかし,先生はこの本の冒頭で「精神科では医者の領分と看護が非常に近い。どこで線を引くかが話し合いの対象になるくらいである。だから,この本は医学教科書を簡略にしたものではない」とはっきりとおっしゃっていますね。看護の立場に立って書かれた内容豊富な本で,親しみが持てます。

●理解できなくても包容はできる

 急性分裂病状態を無理に「理解」しようとする必要はない。折れ合おうとする必要はない。できないことを無理にすると徒労で有害なだけだ。しかし人間は理解できないものでも包容することはできる。(略)
 患者にたいするときは,どこかで患者の「深いところでのまともさ」を信じる気持ちが治療的である。信じられなければ「念じる」だけでよい。それは治療者の表情にあらわれ,患者によい影響を与え,治療者も楽になる。


●危険な治療者にならないために

 精神科は,はしっこの科目に見えるかもしれない。実際は,医学の最も基本的伝統に忠実な,中心的臨床である。精神医学はともかく,精神科看護はたしかにそうである。
 したがって,精神科看護は小手先や口先の技術ではない。精神科にはいろいろの流派の精神療法があって,競いあっている。この狭い意味の精神療法は後に述べるが,広い意味の精神療法に支えられなければ,害はあっても益はない。広い意味の精神療法とは,患者に対する一挙一動,例えば呼び出す時の声の調子や,薬を渡す手つきへの配慮を含むものである。これがわかっていなくて狭い意味の精神療法に熟練した人は,医者であろうと看護者であろうと,患者に対してかなり危険な治療者である。

有害なものから除けてゆく

宮本 先ほど「非特異的」とおっしゃいましたが,症状が1つひとつよくなっていって,それらを拾い上げてつなげていくと,まるでジグソーパズルが完成するような感じで回復のイメージができ上がるわけです。そのことに,看護者は──医者もそうなのでしょう──とても触発されます。
 というのは,「やはり分裂病は治らないのではないか」という悲観論が日本では強かったと思います。若い人たちもついそれに影響されて,なんとなく無力感に陥ってしまう。「こうすべきじゃないか」と思っても,「20年も前にやってみたけれども,うまくいかなかった」と言われると,そんなものかと思ってしまいます。
 そうやって皆で無力感に陥るフシがあるわけですが,そこに羅針盤というか,イメージを与えていただいたと思います。
中井 「分裂病というのは永遠の謎」だとか,「つかみどころのない病気」だとかいう悲観的な思いこみは,僕には全然なかったですね。つかみどころのない現象などあるものか,と思うのでね。
 私はサイエンス分野の出身だから,「それじゃあ,まずグラフに書いてみよう」ということになって,グラフと年表を書いてみると,つかみどころがないというようなことはないのです。
 僕が確信的に思っているのは,「回復の邪魔をしていると思われるものから除けていく」ということです。そうして,最後に何が残るかということですね。
 精神病院建築についての関心もそれです。エスキロールが200年前に,「精神病院というのは,最大唯一の治療用具だ」と言っています。僕はこれを拝借して,神戸大学精神科病棟の「清明寮」を改築する時に,「しかもMRIより安い(当時の価格で)」と,ずいぶん主張しました。
宮本 有害な条件を1つひとつ除いていくことが回復につながるという発想は,看護と非常に馴染むものですね。
 ナイチンゲールが,まさにそういうことを言っています。彼女は,自然治癒力……生命力と言いますか,人間にはそれがあって,病気ですら「回復へのプロセス」だと言った人です。
 その自然治癒力の発現を阻害するような要因があまりにも多すぎるので,それを1つずつ潰していけば自然によくなるという発想ですね。
中井 漢方もそうだけど,精神医学でも1995年以降はリシリエンシー(resiliency:自然回復力)という言葉を急に使いはじめています。日本にはまだ来ていませんが,アメリカの学会ではさかんに言われているようです。
 DSM(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders:精神障害の診断統計マニュアル)で事足れりという時期とは,ちょっと変わってきているようです。

●回復とは非特異症状の軽快・消失である

 医学の立場からみれば,1人の患者の症状は,(1)「特異症状」(その病気だけにあらわれる症状),(2)「非特異症状」(程度の差はあっても病む人に広くあらわれる症状で,特定の病気と結びついていないもの)に分けられる。ただし厳密な特異症状は精神科では非常に少ない。(略)
 とくに看護や介護においては非特異症状のほうが重要である。「回復」は,特異症状の消失のことではない。むしろ非特異症状の軽快・消失が回復の過程である。再発も,非特異症状から始まる。だから,この本ではまず主な非特異症状をあげる。

■「医学のスキル」と「看護のスキル」

スキルと数量化

中井 僕が30代のころに勤めていた精神病院では,医者より看護婦さんのほうが先に僕のやり方を覚えましたね。
宮本 「中井先生のは名人芸であって,なかなか普通の人には使えるもんじゃない」とよく言われるのですが……。
中井 看護婦さんが上手に使いこなすんですよ。それは,私が普段から看護に近いことを,つまり「連続性」を見るからでしょうね。ですから,名人芸というわけではないですよ。
宮本 「その人だけにしかできない」という意味での名人芸ではないかもしれませんが,最近,中井先生がよく紹介されている「ドレファスの《スキルの5段階》」で言うと「エキスパート」のクラスではないでしょうか。
中井 「エキスパート」というのは,理屈にあっていないようなことをしていても,きちんと治るというものですが,僕はとてもそんな域ではありませんよ。
 ドレファスの技能取得に関するモデルは,看護の世界でも採用されているそうですね。
新道 ええ。パトリシア・ベナーが『From Novice to Expert:Excellence and Power in Clinical Nursing Practice(ベナー看護論:医学書院)』の中で,「技能取得に関するドレファスモデルの看護への適用」として紹介しています。
中井 医者にはそれを知らない方が多いものですから,僕は医者にも普及するようにしてるのですけれども。
宮本 EBM(Evidenced‐Based Medicine)と言われ出している時代には,受けにくいかもしれませんね。
 例えば,「数量化できないものはすべて疑わしい」というような態度の人とは,話が噛み合わないかもしれませんね。
中井 心理テストなどは使えるところだけ使えばいいものであって,「何点だからこうだ」ということはありませんし,数量化されないもののほうが大部分ですよ。
 医者というのは,科学者としては真ん中にいるわけではないでしょう。物理学者のほうが,物が2つあるなら解けるけど,3つある「三体問題」は力学的に解けないとか,数学で言えばたいがいの微分方程式は解けない,というように数量化の限界というのをよく知っています。数量化できないもののためにスキルがあるわけです。
 「何百という数字を見て,その中から病気の輪郭を知ることが内科の花だ」と講義される先生もいますが,人間の健康を測るのに何百ではごく一部です。何千,何万を取ろうとすると,人間は壊れます。
 それに,「毎日採血していたら1年経ったら貧血で……」なんて恐ろしい冗談ですけれども,そんなに度を過ごして人間のデータは採れませんよ。スキルに向くことはたくさんあるわけです。
新道 私は助産婦出身で,修士論文は「ストレスを緩和するために,タッチングはどのような効果があるか」ということでした。
 それこそ準実験的な方法で行なったのですが,タッチングというよりも,傍にいるということ──タッチングするためには傍にいなければならないわけですが──の意味は大きいというのが結論でした。何かを明らかにしようという時には,数量化するのが一番説得力のあるやり方ですが,傍にいることになぜ効果があるのかということになると数量化はできません。
 Aさんという人が傍にいて意味がある場合と意味がない場合,Aさんがいて意味があったからといって,Bさんが同じことをして意味があるかというと,そうでない場合がある。そういう個別の差というものも出てきます。
 そういう中で,例えば「相手との関係の中でその人が読み取って,効果があるように傍にいる」というのはやはりスキルということになるのでしょうね。
中井 そうですね。実際にそれを数量化しようと思うと非常にたくさんのデータを採らなくてはいけないし,採れば関係そのものを壊しますよ。
 科学的認識というのは,対象を多少歪めることであって,それは物理学では常識ですが,医学ではあまり常識になっていないようです(笑)。

●スキルの5段階

 ドレファス兄弟は,「スキル」に5段階を区別し,人工頭脳は第3段階までしかやれないとした。ドレファス兄弟の5段階とは次のようなものである。
(1)第1段階(ビギナー):「文脈不要の要素よりなる,文脈不要の規則に従うスキル」である。自動車運転でいえば,アクセルとブレーキ,ギアの入れ換えの規則である。この規則は,文脈(コンテクスト,前後関係)によって変わらない(コンテクスト・フリー)。
(2)第2段階(中級者):「状況依存(コンテクスト・デペンデント)の要素」を加えた規則に従うスキルである。雨に濡れた路面を夕方走るときにはどうするか,といったスキルである。
(3)第3段階(上級者):熟練が進んで,要素の数がミラーの法則をこえて増したときに,これに優先順位をつける能力を加えたスキルである。すなわち,状況をつくっている要素を組織し,目的を明確に意識して,優先順位に従って,これを処理するスキルである。
(4)第4段階(プロフェッショナル):直感的に全体が見え,将来が見通せ,タイミングを選んで,最良のときに,最善の方法で対処できるスキルである。これは過去の経験の蓄積をからだが覚えていることである。運転でいえば,とっさの状況にたいしてからだが動いて危険を回避するように処理できるスキルである。とっさの状況が解消すれば,第3段階に戻って的確に処理できる。コンピュータ化された航空機でいえば,自動操縦装置が任務を放棄する状況である。とっさに手動に切り換えて,危機を脱しなければならない。
(5)第5段階(エキスパート):この段階では,スキルは身について,意識的に判断しなくなる。運転でいえば,車と一体になり,車を動かしているのではなく,車幅感覚をもって自分が移動しているという状態である。歩行ではほとんどの人がこの状態に達している。このときには流れに乗っている(フロウ)という感覚と,乗馬で「鞍上人なく,鞍下馬なし」といわれる無我の状態に達している。日本では,技能者に「何々の神様」といわれる人がたくさんいるが,そういう人の境地である。

 スキルの5段階は,技法(テクニック)-戦術(タクティック)-戦略(ストラテジー)という,目的の3階級と関係している。

医療者のメンタルヘルス

新道 いま医療事故が取りざたされていますね。精神科領域に固有の医療事故というのは,どのようなものがあるのでしょうか。
宮本 固有かどうかはわかりませんが,患者さんの自殺がありますね。
中井 他の科に比べると自殺が多いですね。精神科では,自殺は医者の敗北であるという意識がありますから,自殺者が出ると受け持ちの医者はだいたい40日ぐらいはみな参りますね。
 しかしあれは,次の患者があるから立ち直れるのですね。次の患者が戸を叩いてくれるからです。
宮本 あるベテランの精神科医が,「摂食障害の患者さんに飛び降り自殺をされて,しばらく立ち直れなかった」と言っていました。半年ぐらい後に,ベテランの看護婦さんから「先生,しっかりしなさい!」と言われて,それでハッと気づいたそうです。そういう役割が,看護職にはあるのだなと感じました。
中井 アメリカ留学から帰ってきたある医師が,帰朝報告で最初に言ったことは,「アメリカでは,精神科の部長になったら,患者を診なくてもよい。スタッフの精神衛生を診ていればよい」ということでした。そこで僕は,神戸大学に行ってからはそれを実行しました。
宮本 精神科の事故として双璧をなすのは,患者さんの暴力事件ですね。
中井 僕は暴力を受けたことはほとんどありません。
 ただ,ある看護婦さんが患者に叩かれて不穏になって,「患者を退院させてほしい」と言ってきた時のことですが,私の取るべき道は1つだろうと思い,彼のところへ行って,「君は女性しか殴れないのか」と挑発しました。そしたら,僕にパンチを繰り出してきました(笑)。「おお,君は男も殴れたな」と握手して帰ってきましたが。
宮本 暴力を受けないためには,ある程度状況を読み取って,よけいな刺激はしないとか,近づかないということでしょうか。
中井 その話をすると長くなるので1つだけ申しますと,相手から自分たちがどう見えているか,ということを考えることでしょうかね。
新道 精神科というと,どうしても自殺とか暴力など暗いイメージがあるのですが,先ほどお話に出た神戸大学の「清明寮」のように,明るくて,きれいな所で,しかもスタッフにも支援体制があるようなところで実習をしたら,精神科看護のイメージが違ってくるだろうと思いました。
中井 学生の時に,暗いイメージを持ってしまうと困りますからね。
 それに,看護婦さんは患者さんと接する時間が医者よりも長いでしょう? だから,病棟の設計では,看護婦さんのアメニティをかなり重視しました。実際に,病院の環境によって暴力や自殺は大幅に違います。質のよいスタッフが治療的な空間の中にいると,ずいぶん少なくなります。

●医療者の精神衛生

 まず,医療者は自分の精神衛生をいつもこころがけている必要がある。ゆとりのないときに思い詰めたことは,ゆとりが生まれてからふり返ってみると,どうしてあのように考えてしまったのか,ふしぎに思うことが多い。(略)
 牧師,僧侶,法律家,医者,看護者など,人間の身でありながら,少し人間以上のことをしなければならない者は,とくに精神衛生に気をつける必要がある。傲慢な人になるかもしれない。そのツケが,家族にあらわれるかもしれない。同僚や周囲の人々に精神的に支えられて,はじめて治療ができているのだといわれるが,ほんとうである。

座標軸を明確に示す

──この本では神経症はすべて新たな書き下ろしになっています。
中井 看護大学で講義をしていて,最も講義しにくいのが神経症です。
 僕は看護大学では,《発達》にしたがって現れる神経症を教える時は,まず黒板に線を引きます。そして,例えば「“チック”というのは,治る能力が備わらないと出てこない」とか,「離人症は,“自分を見つめる自分”とかがないと出てこない」というように講義していました。
 しかしそうすると,昔でいう「ヒステリー」などはそこに収まらないわけです。そこで,それは一応《退行》,つまり“赤ちゃんがえり”として説明してみて,それに外傷神経症などを加えて解説しています。
 その助けになったのは,ヤングという人で──今度『PTSDの医療人類学』(みすず書房)という本を翻訳しましたが──,彼はDSM体系ではフロイトの精神神経症を否定しただけだと言っています。
 「フロイトは現実神経症と外傷神経症もあげているけれども,それには目が及んでいない,この2つは浮いているんだ」と書いているので,私もチョッピリ味方を得たような気になりました。
宮本 そういう座標軸がはっきりすると,病気のおおよその全体像がつかめて,パッと目の前が開けたような感じがしますね。
中井 これは大胆と言えば大胆なので,本全体の価値をひっくり返してしまうかもしれないのですが(笑)。
 医者向けの教科書では書けませんね。
宮本 大胆すぎて?
中井 そういうことではなくて,看護は,診断というのを過剰に重視していないからで,例えば,暴力を振るう患者でも,それがもし3歳の子どもだったら何ということもないわけですね。それを“赤ちゃんがえり”というようなことで理解してみたらどうか,ということですね。そういうふうに理解できる神経症と,それでは理解できない,何か“理屈”をつけて説明しなければ収まらない神経症もあるということです。
宮本 そういう座標軸で考えると,例えば攻撃性を人に向けるか自分に向けるかで,「境界例」と「うつ」の区別ができるのと同じように,看護の世界ではそういう座標軸が示されるだけで,配置が見えやすくなります。
 私も精神看護学の授業の中で,中井先生の発想に触発されて自分なりの座標軸をつくって講義しています。
──座標軸を明確に示したという意味では,まさに「看護のための精神医学」ですね。本日はありがとうございました。

●中井久夫氏略歴

1934年 奈良県に生まれる。京都大学医学部卒業。東京大学分院(神経科),東京都下青木病院,名古屋市立大学医学部,神戸大学医学部精神神経科教授を経て,現在,同大学名誉教授,甲南大学文学部人間科学科教授
著書
:『分裂病と人類』(東京大学出版会.1982),『精神科治療の覚書』(日本評論社.1982),『中井久夫著作集──精神医学の経験』(全6巻別巻2,岩崎学術出版社.1984-1991),『記憶の肖像』(1992),『1995年1月・神戸』(共編著.1995),『家族の深淵』(1995),『昨日のごとく』(共編著.1996),『アリアドネからの糸』(1997),『最終講義──分裂病私見』(1998),『西欧精神医学背景史』(1999.以上みすず書房)
訳書:カヴァフィス他『現代ギリシャ詩選』(1985),『カヴァフィス全詩集』(1988/1991),『リッツォス詩集 括弧』(1991),ヴァレリー『若きパルク/魅惑』(1995),サリヴァン『現代精神医学の概念』(1976),『精神医学の臨床研究』(1983),『精神医学的面接』(1986),『精神医学は対人関係である』(1990),『分裂病は人間的過程である』(1995),ペリー『サリヴァンの生涯』1(1985)/2(1988),ハーマン『心的外傷と回復』(1996/1999),『エランベルジェ著作集1-3』(編訳.1999-2000.以上みすず書房),エレンベルガー『無意識の発見』上/下(共訳.弘文堂.1980-1981)

 この鼎談は,雑誌『看護教育』で企画された「『看護のための精神医学』をめぐって」を,医学界新聞編集室で再構成したものです。
 なお,全文は同誌『看護教育』第42巻5号に掲載されます。
〔医学界新聞編集室〕