医学界新聞

 

連載
経済学で医療を診る

-医療従事者のための経済学

中田善規 (帝京大学経済学部助教授・医学部附属市原病院麻酔科)


第9章 リスクと医療保険(2)
 -なぜ日本の医療保険は赤字なのか?

 前回は医療保険がビジネスとして成り立つ(利潤をもたらす)ものであることを説明しました。すなわち利潤を目的とする民間企業が医療保険を行なうことができます。この意味で医療保険は相互扶助でも慈善行為でもなく,ビジネスです。実際火災や自動車事故などの保険は民間企業が行なっています。したがって医療保険がビジネスとして成り立たない理由はありませんし,政府などの公的機関しか医療保険を供給できない経済学的根拠もありません。
 しかし現実には,日本の医療保険は大部分を公的性格の健康保険組合が担っています。また,ビジネスとして成り立つはずの医療保険で,多くの健康保険組合が赤字に悩んでいます。これは一体なぜかを詳しく考察したいと思います。保険会社や健康保険組合といった保険者が直面する問題は,基本的に2つあります。「逆選択」と「モラル・ハザード」です。

逆選択

 自由市場においては医療保険も1つの商品です。他の商品の場合と同様に買うか買わないかは買い手が決定することで,誰からも強制されません。すると医療保険を買うのはどういう消費者でしょうか。自動車保険を例にとって考えてみればよくわかります。自動車保険をたくさん購入するのは自動車事故を起こしやすい人です。免許取りたての初心者は対物保険・対人保険などすべてをカバーする保険に入ります。それに対してベテランの運転者は最低限の保険にしか入りません。
 これを医療保険に置き換えても同じことです。医療保険に加入したいと思うのは病気やケガをしやすい人です。普段から病気がちで体の弱い人は医療保険に喜んで加入します。逆に若くて健康な人は医療保険に加入しようとはしません。病気になる可能性が低いので,掛け金が掛け捨てで無駄になる可能性が高いからです。このように,自由市場では病気になりやすい人だけが医療保険に加入してくるようになります。これを経済学では「逆選択」と呼びます。
 この逆選択が起こると,民間の医療保険会社は利潤を上げることができなくなります。なぜなら病気になって保険金を受け取る人が多くなるからです。逆に病気になりにくい元気な人は,保険者にとっては非常に都合のいい人たちです。なぜなら保険の掛け金だけ払って,保険金を受け取る可能性が低いからです。しかし,こうした元気な人は医療保険に加入しようとはしません。利潤を追求する保険者にとっては歓迎しない病気になりやすい人だけが加入し,保険者にとって都合のいい元気な人が加入しないので,「逆」選択となります。

モラル・ハザード

 保険者にとってのもう1つの敵はモラル・ハザードです。モラル・ハザードとは保険に加入することで加入者が不注意になることです。例えば自動車の盗難保険に入っている人は,自分の自動車が盗まれても保険で保証されるので盗難に対して不注意になります。具体的には,車の鍵をかけなくなったり,車の盗まれやすい場所に駐車するようになります。「どうせ保険が保証してくれる……」と考えてしまうのです。
 これと同じことが医療保険の場合にも起こります。病気になっても医療保険が保証してくれるので,加入者は自分の健康に気を使わなくなります。例えば喫煙をやめなかったり,暴飲暴食を繰り返したりするようになります。また日頃から体を鍛えるような運動もしなくなります。さらに保険が支払ってくれるのだからと思うと,軽い病気でも気軽に医療機関を訪れるようになります。風邪など市販薬でも十分に治療できる軽症の病気の患者で医療機関の待合室は一杯になります。このようになると保険者は,本来保証しなくてもよかった人にまで保険金を払わねばならなくなり,利潤をあげることが難しくなります。まさに保険があるために人々の行動が変化するのです。

情報の非対称

 さてこうした逆選択やモラル・ハザードはどうして起こるのでしょうか。
 その原因は「情報の非対称」です。すなわち保険者と加入者で持っている情報量に差があるのです。一般に加入者は,自分の健康状態については保険会社よりもよく知っています。自分が病気になりそうかどうかは,今までの病歴・家族歴・喫煙歴などからある程度予想できます。しかし,他人である保険者には加入者が病気になりそうかどうかは判断が困難です。保険者が加入者に質問してみても正しい情報を得られるとは限りません。加入者は加入を断られないように自分を健康に見せようとして,嘘をつくかもしれません。このように,加入者は自分の病気になる確率がわかっているのに保険者はそれがわからない,という「情報の非対称」が存在するのです。
 モラル・ハザードの場合も同様です。保険加入後も健康管理に注意しているかどうかは,加入者本人にはわかっていても,保険者がモニターするのは困難です。医療保険に加入した直後から喫煙を始めたり,スポーツクラブに通うのをやめたりしても,それを保険者が知るのは困難でしょう。また,加入者が本当に必要があって医療機関を訪れているのかを見極めるのも困難です。これも「情報の非対称」です。

対策

 こうした逆選択やモラル・ハザードを防止するために,さまざまな手段が実際の医療保険ではとられています。
 逆選択を防止する手段として国民皆保険があります。国民全員が医療保険に加入することを義務づけると,病気になりやすい者だけが保険に加入するという逆選択を防げます。こうすることによって本来なら医療保険に入りたくない健康な人まで強制的に保険に参加させることができます。しかしこれは,保険者が政府などの公的機関の時にのみ法律などで強制することが可能になります。一般に民間の保険会社は国民全員に医療保険に加入するように強制することはできません。
 それでは民間保険会社はどうやって逆選択を防ぐのでしょうか。それは「情報の非対称」の解消にあります。例えば医療保険加入前に健康診断を受けるように加入者に要求します。そしてその人が病気になりやすいとわかると高い保険料(掛け金)を設定したり,加入を断ったりして,逆選択を回避します。また自動車保険の場合にはその人の交通違反歴を調べて事故を起こしやすい人かどうかを判断します。最近外資系保険会社が「リスク細分型自動車保険」を販売して,安全運転の人は保険の掛け金が安くなることを宣伝しているのはまさにこれです。これからは民間の医療保険も同じようになるかもしれません。
 モラル・ハザードの防止には負担金があります。現在の医療保険はかかった医療費の一部しか補償されません。例えば国民健康保険では本人の場合,かかった医療費の8割は保険者が支払い,2割は本人が払います。この2割のことを負担金といいます。また自動車保険などでは「免責」と呼ばれて,かかった修理費の一部を加入者が支払うようになっています。この負担金が大きいと加入者は負担金を避けるために健康管理に注意するようになります。昨年9月から健康保険法の改正で国民健康保険の本人自己負担金が1割から2割に増額されましたが,これは理論的にはモラル・ハザードを抑制する効果があります。以前日本では,老人医療の自己負担金がゼロの時期がありました。このころ医療機関の待合室は重病でない老人たちであふれ,さながら老人の社交場のようであると言われました。これはまさに経済学的にはモラル・ハザードです。「どうせタダなのだから,軽い病気でも病院に行こう」と思うわけです。しかし,その後老人医療にも自己負担金が導入されたおかげでモラル・ハザードが抑制され,こうした現象も緩和されたようです。
 さらにモラル・ハザードを防止するために,保険者は加入者に健康増進の金銭的インセンティブを与えます。例えば健康保険組合がスポーツクラブを経営して,保険加入者には参加費の割引をすることがあります。こうすることで加入者のモラル・ハザードを防ぎ,利潤を確保するのです。

日本の医療保険

 現実の日本の医療保険に目を向けてみましょう。日本の医療保険の大部分は健康保険組合によって担われていますが,その多くは赤字に悩んでいます。
 その理由の1つに上で述べた逆選択があります。ご存知のように日本は国民皆保険制ですが,各健康保険組合の加入者の人口構成が異なります。働く世代が加入者の中心となる健康保険組合は,加入者が病気になる確率が低いので本来財政は健全なはずです。逆に退職者などの病気になりやすい高齢者が加入者の中心になる健康保険組合は,同じ保険料では財政が当然苦しくなります。この格差を是正するため,働く世代が加入者の中心となる健康保険組合から,高齢者が加入者の中心になる健康保険組合へ補助金が強制的に支払われています。また一部税金からも補助が与えられています。それでも多くの健康保険組合は赤字に悩んでいます。これを経済学的に解決するのは意外に簡単です。高齢者の保険料(掛け金)を値上げすればよいのです。高齢者は病気になりやすいのだから高い保険料を払うのは経済学的には当然のこと。「リスク細分型自動車保険」と同じ考え方です。しかし現実には保険料が高くなりすぎて高齢者の生活を圧迫するようでは,何のための公的医療保険かわからなくなってきます。もう一度医療保険の原点に立ち返り,その使命を定義しなおすべき時かもしれません。
 健康保険組合の赤字のもう1つの原因はモラル・ハザードです。国民全員が安く医療を受けられるので健康管理にあまり注意を払わなくなっています。禁煙や規則的な運動など病気の予防に力を入れる度合いは病気になれば医療費の負担で生活が破綻する場合に比べて低いと言わざるを得ません。また,軽い病気でも医療機関を訪れるというモラル・ハザードも無視できません。実際現在の日本では,風邪の場合,自分で薬局に行って風邪薬を買うとすべて自分が支払うことになりますが,医療機関で診察を受けて処方箋をもらって風邪薬を買うと医療保険が費用の大部分を支払うので,結局診察を受けるほうが患者にとって安上がりになる場合があります。こうしたモラル・ハザードを抑止する方法は,上で述べた負担金の増加です。これからは自分の健康管理にも自己責任が求められるようになるでしょう。現状ではまだ負担金が十分にモラル・ハザードを防止しているとは言い難い状況です。しかし本当に重病になったものが高額の負担金で医療が受けられなくなることは公的医療保険の根幹に関わる問題です。この両者の兼ね合いで最適な負担金を決定することが必要です。

医療保険改革へひとこと

 これまで医療保険の経済学的な側面を解説してきました。今,日本では現行の医療保険制度を根本的に見直そうという動きがあります。その議論にはかなり情緒的なものがあり,保険の原則を無視したものが少なくありません。実りのある議論をするには今回と前回で解説したような「保険の経済学的原理」を理解していることが大前提だと思います。