〔連載〕ChatBooth
最高の贈り物馬庭恭子
「とうとう言った」
真剣な眼差しで,訪問看護婦の私に患者の夫は声をひそめた。
「そうか,『がん』と告げたんだな」と思ったが,違っていた。
「何を言われたんですか」
しばらく沈黙があった。
「まあ,ここに座りんさい」
広島弁で手招きされ,私はソファに腰掛ける。87歳の年輪を感じさせる刻み込まれた皺の中にも,懐かしいポマードの香りをさせている粋な人である。
「あれと一緒になって65年じゃ。いろんなことがたくさんあった。従兄弟の世話で,見合いして,丸髷がよう似合って,そりゃ自慢したもんよ。『うちの女房は別嬪じゃ』言うての。正直言うて,わしゃうれしかった。それから子どもも4人できてが,満州(現在の中国東北部)から引き揚げて,苦労ばっかりかけた。それでも,黙ってついてきてくれた」
細くなった目尻から涙が流れた。
「あんな病気になって,可哀想にの。腹は蛙腹じゃし,身体は黄色になっとる。痛うないのが不思議よの。こないだ,あんたが『やさしい言葉かけてあげてね』とわしに言うたろ」
と言うと,声が震えてきた。
「はじめて,言うた……」
思わず身体が前に出て,唾を飲み込む。
「愛してる。ずっと,愛しとる……」
肝臓がんの末期で,あと数日という時に,耳もとでそう声をかけ手を握ると,白髪の86歳の妻は閉じていた眼をあけ「ありがとう」と手を握り返したという。
今まで,在宅でたくさんのがん患者さんの看取りをしてきた。その時々に,本当にこころに染みる場面や語りに出会ってきた。その人たちの人生の分厚さ,乗り越えた苦難などは,本当のところ想像をはるかに越えているものだろう。それでも,彼らの時代背景や歴史を思い浮かべながら聞いていると,知らない世界が少しずつ,霧の中から山の輪郭が浮かびあがるように,ホントに少しずつだが見えてくる。そして,よくよく見ると樹木やその形が近距離で見えはじめる。
訪問看護をすること10年。確かにこの分野には,経験としての長さも必要である。しかし,最も必要なのは,人生の複雑さの中で,懸命に生きた,生きている「人間」を,熱いまなざしで捉えることのできるエネルギーを持っていることだろう。
この老夫婦の物語は,「人生の最期に最高の贈り物」として,私のこころに刻んでおきたい。
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